毛利元就とは
毛利元就(もうりもとなり)とは、戦国の覇王・織田信長が尾張を支配した頃、たった一代で小さな国人領主から中国地方のほぼ全土を支配するまで昇りつめた大名である。
山陰地方の尼子氏の滅亡後、中国地方の覇者となった元就は「天下を競望せず」と語り、自分の代ではこれ以上の勢力拡大を望まないという意志を明確にしていた。
だが、大内氏の支配圏だった北九州の進出にはこだわりがあり晩年まで大友氏と激しい抗争を続けたが、東側や京に上ることは考えなかった。
毛利元就は幼少期に孤児となり「乞食若様」と言われるほどの貧乏生活を送り、亡き父の側室に養育された苦労人でもあった。
当時の毛利家は大大名の大内氏と尼子氏に左右され、元就が分家でありながら毛利家の跡を継いだのは27歳の時である。
今回は大大名でありながら細かすぎる男と言われた戦国大名・毛利元就のエピソードや逸話などについて紹介する。
毛利元就の出自
毛利元就が細かすぎる戦国大名と呼ばれるようになったのは、幼少時代の貧乏生活と二つの大国に挟まれた小国であったことが影響している。
元就は明応6年(1497年)安芸国(現在の広島県安芸高田市)の国人領主・毛利弘元の次男として生まれる。
毛利氏の周りは山陽地方と北九州を治める大内氏と、山陰地方を治める尼子氏という二大勢力が台頭し、生き残りを図るために小国の毛利氏は大内氏につくか尼子氏につくか不安定な状態にあった。
元就の父・弘元はそんな状態に疲れたのか嫡男・興元(おきもと)に家督を譲って隠居し、幼かった元就は父と共に隠居先で暮らすことになった。
しかし4歳の時に母を亡くし、10歳の時には父を酒毒で亡くしてしまう。
しかも兄が上京している間に家臣が家禄と城を奪い、元就は城を追い出されて孤児となり「乞食若様」と言われるほどの貧乏生活を送った。
そんな元就を不憫に思って養育したのは、亡き父の側室・杉大方(すぎのおおかた)であった。
生活は裕福ではなかったが、元就は杉大方のもとで成長し元服した。しかし今度は家督を継いだ兄・興元も父と同じ酒毒で急死してしまう。
興元の嫡男・幸松丸はまだ2歳だったので、元就が後見人に就任した。
初陣である「有田中井手の戦い」は圧倒的に不利な状態だったが、元就は何とか勝利してその名を知られるようになった。
その後、幸松丸がわずか9歳で亡くなったために、元就が毛利家の家督を継ぐこととなった。
しかし毛利家の家臣団は武田信玄の家臣団と似ており、国人衆という半ば独立した集団を組織化した対等に近い関係であった。
元就は国人衆たちと共存できるように常に気を使っていなければならなかった。
酒についてのエピソード
父と兄を酒毒が原因で亡くしているため、毛利家一族は酒に弱い体質だと悟った元就は、息子や孫に少しでも長生きをしてもらうために嫡男・隆元には「酒は分をわきまえて飲み、酒によって気を紛らわすことなどあってはならない」と節酒の心得を説いている。
孫・輝元には直接ではなく、わざわざ輝元の母に「小椀に一杯か二杯ほど以外は飲ませないように」と手紙を書いて忠告している。
また元就はいつも酒と餅を用意し、身分が低い者たちにまで親しく声をかけていたという。
宴席では酒が飲めるかどうか尋ね、もし酒が飲めると答えたら「寒い中で川を渡るような行軍の時の酒の効能は言うべきもないが、普段から酒ほど気晴らしになることはない」と、まずは一杯と酒を差し出した。
もし下戸だと答えたら「私も下戸だ。酒を飲むと皆気が短くなり、あること無いこと言ってよくない。酒ほど悪いものはない。餅を食べてくれ」と身分関係なく振る舞っていたという。
書状や手紙
中国地方10か国を手中にした元就だが、大大名となった理由を聞かれると「分からない」と答えたという。
国の重要文化財「毛利家文書」には元就自筆の書状が幾つも残されている。
細かい性格であった元就は書状・手紙をかなり書いている。
内容も細かく、その中には客が嫡男・隆元を訪ねた時に、隆元は朝食から接待するつもりであったが、元就は「夕食からにしろ」と指示したものまである。
普通の戦国大名ならこの程度のことは任せてしまいそうなものだが、心配なことは事細かく書状を書いていたことから元就の細かい性格がうかがえる。
逆に言えば、「厄介な口うるさい親・上司」とも言える。
近年の研究で、元就が書いたとされる書状を現代科学のAIを使って分析したところ、以下の言葉が数多く使用されていることが分かった。
それは「心得」「思召(おぼしめし)」「分別」という言葉である。
「分別」は良い・悪いを常に考えることであり「隆元は少し分別が足りない」という書状が残っている。
「心得」は心がけのことで、「念には念を入れて心得ておきなさい」という書状も多数見られる。
元就が用いた言葉の多くは相手を諭す言葉が多く、その数は全部で114もあったという。
では何故元就はこうした言葉「分別」「心得」などを多く使ったのであろうか?それは元就がいつも危機感を持っていたことが推測できる。
前述した通り大内氏と尼子氏という大勢力に囲まれ、毛利家は常に危険と隣り合わせな状況の中に身を置いていた。
そうした環境が元就の細かい性格を形成していったと考えられる。
しかし元就のこの細やかな性格が、常識にとらわれない秘策を生み出すことになる。
元就の居城
元就の居城・郡山城は可愛川と多治比川の合流点の北側に位置し、吉田盆地を見渡す場所に築かれた中国地方最大級の山城で、本丸を中心に放射状に広がる尾根を利用し無数の郭(くるわ)が築かれていた。郭とは城の外囲いで高い位置にあり、戦の際はそこから弓矢・銃で下にいる敵を攻撃する場所である。
当時、戦国大名は山城ならば自分たちは高い場所に住み、家臣たちを城下町に住まわせるのが常識だった。
しかし元就はなんと無数の郭、防御施設に屋敷を建ててそこに家臣たちを住まわせた。
さらに郭に行ける道も数多く作ったのである。
道は便利ではあるが、多く作ると敵から攻められやすくなるためにあまり作らないこともこの時代の常識であった。
しかし心配性な元就は、迅速な情報収集のために家臣を郭に住まわせ、郭を結んで移動や攻撃が迅速に行えることを優先して道を張り巡らした。
これは後に功を奏し、吉田郡山城の戦いでは尼子軍3万の大軍勢に対し、わずか3,000の兵で籠城し勝利している。
奇襲
毛利元就と陶晴賢(すえはるたか)の厳島の戦いでは、毛利軍の兵力は4,000~5,000で対する大内軍(陶晴賢軍)は4倍の2万だったとされている。
通説では、元就は船で厳島の背後から上陸し陶軍の背後を攻撃したとされてきた。
しかし、厳島で陶軍が戦をしたとされた場所は実際にはとても狭く、2万の軍勢がいたとは思えない地形である。
しかもその場所からでは毛利軍は丸見えであり、奇襲にはならなかったはずである。
心配性な元就が、丸見えの場所から約4倍の大軍勢がいる厳島に攻めかかることはしなかったはずである。
実は大内軍を集めると2万の軍勢となるのだが、実際の戦いでは2万ではなく5,000ほどの陶晴賢の精鋭部隊だけがいたという文書が見つかっている。
これならば心配性の元就が厳島の戦いに挑んだことも納得がいく。
奇襲を成功させるには博奕尾という木々が生い茂り、道が分かりづらい場所を越える必要があった。
元就は夜のうちに灯りを使わずに博打尾越えが可能なのかを事前に調査し、道を熟知した地元民を案内人にして博打尾越えをしたため、陶軍の背後につき奇襲をすることが出来た。
心配性で細かい性格の元就は、事前に死角となる場所、奇襲を予測できない場所を完全に把握し、村上海賊を決戦以前から味方にする根回しもあり勝利を手にしたのである。
おわりに
毛利元就は、厳島の戦いを5年も前に予測し、厳島のことを良く知る厳島神社の神官・棚守房顕と友好な関係を結んでいたという。
細かいことも見逃さず、先を読む先見性・危険を察知する能力に優れていたため、元就は中国地方を制覇する大大名となることが出来たのである。
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