覇王・織田信長を最も苦しめた戦国大名、朝倉義景。
前回に引き続き、巧みな戦略・戦術・外交手腕で信長を何度も追い詰めた義景と、その最後について解説する。
比叡山焼き討ちと第二次信長包囲網
元亀2年(1571年)6月、義景は石山本願寺の顕如と和睦し、長年悩まされていた一向一揆との争いに終止符を打った。
「これで越前に穏やかな日々が訪れる」と安堵したのも束の間、「志賀の陣」で義景に頭を下げ、二度と天下を狙わないと誓った信長が再度逆襲に出てきた。
なんと織田軍は比叡山延暦寺を焼き討ちにしたのである。
仏門に火を払うという暴挙を知った義景は、信長の怒りの大きさを知ることになる。
「信長のことだから越前にも攻めて来るに違いない」と危機を感じた義景であったが、そこに救世主が現れた。
なんと甲斐の虎・武田信玄が、反信長陣営に加わったのである。
これで越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、石山本願寺、信長と決裂した将軍・足利義昭、甲斐の武田信玄と、「第二次信長包囲網」が形成され、信長は絶体絶命のピンチに立たされれることとなる。
包囲網突破のために信長が取った策は、一つ一つの敵を倒していくことだった。
信長が最初に目をつけたのは浅井長政で、秀吉に命じて越前や近江間の交通を遮断・妨害し、翌年には浅井家の居城・小谷城を包囲した。
長政からの援軍要請を受けて義景は出陣、膠着状態が続き信長は秀吉を砦に残して横山城へと兵を引いた。
まさかの義景の行動
同年10月、信玄が西上作戦を開始し、家康の遠江・三河方面は侵攻され徳川軍は次々と城を奪われていった。
この時、信玄は義景に対して協力を求め、これを知った信長が岐阜に撤退すると義景は浅井勢と共に打って出たが、この時は秀吉の部隊相手に敗退する。
しかしこのまま信玄が西上を続け、朝倉・浅井軍が再び攻め続ければ、さすがの信長も万事休すといった状況であった。
だが義景は12月3日、信長を倒す千載一遇の大チャンスを目前に突然「越前に戻る」と、領国・越前に撤退してしまった。
どうして義景は越前に帰ってしまったのだろうか。それは「兵たちの疲労」と「越前の積雪」が理由であった。
出兵から4か月、兵たちの疲労はピークに達し、12月であることから越前は雪に覆われてしまい、道が雪で進めなくなる。
「そこを背後から敵に狙われてしまうと朝倉軍はどうすることも出来ない」と義景は考えたのである。
個人的な理由もあった。「側室が病気であり、正月は一乗谷(越前)で過ごしたい」という思いもあったのである。
義景の撤退を聞いた信玄は怒りまくり、激しい非難を込めた文書を義景に送りつけている。
翌年の元亀4年(1573年)2月、信玄は石山本願寺の顕如に、義景の撤退に対する恨み言を述べながらも再度の出兵を求め、顕如もまた義景の出兵を求めている。
同年3月、義昭が正式に信長と絶縁すると、今度こそ義景が上洛するという噂もあったというが、それでも義景は動かなかった。
4月12日、義景の同盟者であった信玄が陣中で病死し、武田軍は甲斐に引き揚げてしまう。
結果的に、義景の戦線離脱によって信長包囲網は瓦解してしまったのである。
朝倉義景の最期
信玄が亡くなり武田軍が甲斐に戻ったことで、信長は織田軍の主力を義景や浅井長政に向けることが可能になった。
天正元年(1573年)8月8日、信長は3万の軍を率いてまず北近江に侵攻し浅井軍を攻めた。義景も軍を率いて長政の援軍に出陣しようとするが、義景はすでに家臣の信頼を失いつつあった。
朝倉家の重臣である朝倉景鏡や魚住景固らが、出陣命令に対して「疲労で出陣出来ない」と拒否したのである。
織田軍はトップダウン型で、信長が「出陣せよ」と命令を下せば、部下たちは命をかけて従った。
しかし朝倉軍はいわゆる合議制で、重臣たちとの話し合いの中で決定する。
ここが信長と義景の違いで、義景は拒否する重臣らの説得を諦め、山崎吉家や河井宗清らを招集し、約2万の軍勢を率いて出陣した。
8月12日、信長は暴風雨を利用し朝倉方の拠点となる砦を奇襲、これにより朝倉軍は敗退し砦から追われてしまう。
8月13日、丁野山砦が陥落し、義景と長政は連携を取り合うことができなくなる。
そのため義景は越前への撤退を決断するが、信長は義景の撤退を予測しておりこれを追撃。
朝倉軍は信長が自ら率いる織田軍の攻撃により、田部山の戦いで敗退し柳瀬に逃走した。
一乗谷城の戦い
信長の追撃は厳しく刀根坂において追いつかれてしまった。主力重臣がいない上に兵士の戦意も低かった朝倉軍は、壊滅的な被害を受けてしまう。
義景自身は疋壇城に逃げ込んだが、この戦いで山崎吉家や斎藤龍興ら有力武将が戦死する。
義景は逃亡し一乗谷を目指したが、この間にも将兵たちの逃亡が相次ぎ、義景のもとに残ったのは鳥居景近や高橋景業ら10人程度の側近だけであった。
8月15日、なんとか義景は一乗谷に帰還したが、一乗谷の留守を預かっていた将兵たちは殆ど逃走しており、全体で500人程度だったという。
残っている将兵らに出陣命令を出しても、朝倉景鏡以外は来なかった。
もはやこれまでと義景は自害しようとしたが、近臣の鳥居景近と高橋景業に止められてしまう。
8月16日、義景は朝倉景鏡の勧めに従って一乗谷を放棄し、越前大野の洞雲寺に逃れる。
8月17日、平泉寺の僧兵に援軍を要請するが、すでに平泉寺は信長の調略を受けており、義景がいる洞雲寺に襲い掛かった。
8月18日、信長率いる織田軍は柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込み、居館や神社仏閣などを放火、この放火は三日三晩続いたという。
8月19日、義景は洞雲寺から従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていたが、8月20日早朝に信長と密かに通じていた朝倉景鏡が裏切り、賢松寺を200騎で襲撃した。
さすがに死を覚悟した義景は無念の自刃を遂げた。享年41であった。
義景の死後、嫡男・愛王丸や、その母で側室の小少将ら義景の血族は、信長の重臣・丹羽長秀によって殺害され、名門朝倉氏はついに滅亡したのである。
義景の首は信長の家臣・長谷川宗仁によって京都で獄門となり晒された。
その後、浅井長政・浅井久政と共に義景の髑髏(どくろ)は箔濃(はくだみ:漆を塗られて金粉を施したもの)を施され、天正2年(1574年)1月1日、信長の家臣の前に披露されたのである。
これは「信長公記」の記述であり、「信長公記」は一次史料に準じた評価を受けており、他の二次史料に比べ記述は正確であるとされている。
ただし有名なエピソードである「髑髏を杯にして酒を注ぎ、家臣たちに飲ませた」という記述はなく、後世の誇張とされている。
おわりに
何度も天下の座を逸した朝倉義景だったが、戦国の覇王・織田信長を最も苦しめ追い詰めた戦国大名としてその名を残した。
信長が正月祝いとして家臣の前に並べた金箔の髑髏は、信長の残虐性をよく表した逸話とされていますが、実は自分を最も苦しめ追い詰めた相手への敬意だとも言われている。
古きを尊び守ろうとした義景、古きを壊し新たな時代を創ろうとした信長、相反する二人が敵対したのは必然だったのかもしれない。
※主な参考文献 : 信長公記
大坂本願寺の顕如と朝倉義景は信長を長いこと苦しめたんですね
結局、朝倉義景は何度も信長を倒せるチャンスを自分でつぶしている。天下を取る気がなかったのか?
バカなのか?しかし、それに振り回された家臣たちはと思うと戦国時代ってつらいんですね。
ためになりました。優柔不断な朝倉義景を大河ドラマ「麒麟が来る」でユースケがやっていた意味が今分かった。