安土桃山時代

【暗殺を得意とした謀将】 宇喜多直家の暗殺ライフ

宇喜多直家の暗殺ライフ

画像 : 宇喜多直家木像 wiki c

下の人が上の人を倒す下克上の時代である戦国時代。

北条早雲松永久秀斎藤道三など、自分の力で国一つを手に入れる大名が続々と現れた。

その中でも、城一つ持っているかどうかの状態から数々の謀略を使い、最終的には今の岡山県全体を治める大大名となった武将が 宇喜多直家である。

今回は、そんな数々の謀略を使って下克上を成し遂げた宇喜多直家について解説していこう。

宇喜多直家ってどんな人?

宇喜多直家(うきた なおいえ)は、1529年に宇喜多興家の子として備前国(岡山県)に生まれた。

宇喜多家は備前、備中、美作を治める大名・浦上家の家臣だったのだが、直家が4歳の時、祖父の宇喜多能家が島村盛実によって暗殺されてしまい、宇喜多家は一時没落してしまった。

直家は父と一緒に放浪の旅を始めるようになり、一時は農民になりかけたこともあった。しかし直家はあきらめず、必ずこの手で祖父の無念を晴らすと心に決めた。

そしてチャンスは直家が元服してすぐやってくる。

直家は当時の主君である浦上宗景(うらがみむねかげ)に対し、島村盛実に謀反の疑いがあると讒言を言いふらしたのである。

この計画は成功し、島村盛実は謀反の疑いがあるとして殺された。見事に祖父の無念を晴らしたのである。

そして直家は先妻の父、敵の大名などを暗殺し、いつのまにか浦上家の家臣の中でトップとなっていく。

宇喜多直家の暗殺ライフと御家乗っ取り

宇喜多直家の最大のイメージと言ったら何といっても 暗殺である。

直家は祖父の敵である島村盛実を暗殺した後、これに味をしめたのか、妻の父である中山信正に濡れ衣を着せて暗殺した。

そして浦上家のライバルだった三浦家親を、当時のハイテク機器である鉄砲をつかって暗殺。龍口城を攻めた時は穝所元常(さいしょもとつね)を暗殺した。(毛利が暗殺したという説もある)

さらには娘の夫にも濡れ衣を着せて暗殺し、ショックを受けた娘は自殺するなど、自分のためなら家族の親戚を暗殺するなどなんでもありだった。

そしていつのまにか浦上家の家臣の中でトップとなっていたのである。

しかし直家の野望はとどまることを知らなかった。直家は1569年に浦上家を裏切り、信長と手を結んで浦上家を倒そうと謀反を起こしたのである。
しかしこの計画は事前にばれてしまい失敗し、直家は謀反人として処刑されそうになった。しかし浦上宗景は直家を許し、再び家臣として加えたのである。

宗景は直家の才能がなくなることを恐れ、謀反の恐れよりも直家を取ってしまったのである。
そして直家は1574年にまた浦上家を裏切り、ついに宗景を追放し浦上家を乗っ取ってしまった。

このように直家には類い稀なき暗殺の才能があったが、当然のように信頼関係には大きな悪影響を及ぼしてしまう。

直家は誰からも信頼されなくなっていた。

ちなみに直家の弟は、日記に

『兄は恐ろしい男だった。腹黒く、なにを企んでいるかわからないところがあった。それゆえ兄の前に出るときは、かならず衣服の下に鎖帷子をつけたものだ』

と書いており、暗殺されないように甲冑や鎖帷子を着たり、直家が食べたものしか食べない程の疑心暗鬼の状態になっていたそうだ。

しかし直家は敵には容赦なくても、農民になりかけた頃からの家臣たちはとても大切にしていた。

その家臣たちは決して暗殺することはなかった。直家にも人の心はあったようである。

宇喜多直家の最期と秀吉

宇喜多直家の暗殺ライフ

画像 : 豊臣秀吉 wiki c

勢力を拡大した宇喜多家だったが、西に毛利、東に織田という大大名に挟まれていた。

直家はどちらに着くか、重大な決断を下さなければならなくなった。
直家は最初の頃は毛利家に着いたが、1579年に毛利家が劣勢になっていくと織田に寝返り、配下となった。

しかし直家は1580年ごろから急激に体調が悪化した。

尻はすというお尻から血が大量に出る病気にかかってしまい、危篤状態となってしまった。そして直家はまだ幼い息子・秀家をとある人に託した。その男こそが秀吉である。

秀吉と直家の関係を表すエピソードがある。

秀吉は軍師の黒田官兵衛などの制止を振り切って、丸腰状態で病気で弱っていた直家がいる岡山城を訪問したことがあった。直家は自分のことを恐れず、さらに同じ低い身分から成り上がった秀吉に信頼を寄せるようになっていった。

さらに秀吉は、宇喜多家の信頼性がないことを重々承知な上で、主君信長に対して宇喜多家の弁明をすることもあった。

1581年、直家は自分の妻や息子の秀家を秀吉に託して死んでいった。享年52

宇喜多直家の暗殺ライフ

画像 : 直家の最期の地となった岡山城(焼失前)

直家亡き後、岡山城は秀家が引き継ぎ、岡山は日本有数の都市に成長していった。

後に秀家は元服し、秀吉が天下人となった後では五大老の一人として秀吉を支えていくことになり、岡山52万石を治める大大名へと成長していったのだった。

 

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