今回は前編のザビエルに引き続き、後編のフロイスである。
ルイス・フロイス
ルイス・フロイスは、1532年にポルトガルのリスボンで生まれ、16歳でイエズス会に入会した。
同年、インドのゴアへ派遣され、ザビエルやアンジローにも会っている。
フロイスは、第4次日本派遣宣教団の一員として永禄6年(1563年)に来日した。この時31歳であった。
横瀬浦(現在の長崎県西海市)に上陸した後に平戸に移った。
永禄7年(1564年)に平戸から京都に向い、翌年に京都に入って布教活動を行ったが、時は戦国時代の荒波の中、保護者と頼りにした将軍・足利義輝が「永禄の変」で殺害されてしまう。
フロイスたちは三好一党や正親町天皇に京都を追われ、堺に非難した。
フロイスは京都地区の布教責任者となり、永禄12年(1569年)運命的な出会いをすることになる。
15代将軍・足利義昭擁立を成し遂げた織田信長と初めて対面したのである。
フロイスは信長に銀ののべ棒を親展する、しかし、信長は「金も銀も必要ではない」と献上品を断った。
新しい物が好きな信長にとってキリシタンは興味の対象であり、キリシタンの教えや考え方に関心を抱いたのである。
また、既存の仏教界のあり方に辟易していたこともあり、何よりも信長は宣教師たちが乗ってくる南蛮船によって、鉄砲や火薬の原料が手に入れやすくなると考えた。
フロイスは信長の信任を得て畿内での布教を許され、多くの信徒を獲得したのである。
フロイスは信長について
「背丈は中位で華奢な体をしていた。髭は少なく良く声の通る人」
「信長は周りの者から恐れられており、その風格からもっと年上で、自分よりも2歳も年下だとは思わなかった。実に勤勉で明晰な判断力を持ち、正義を尊重する清廉なお方だった」
「ぐだぐだした前置きを嫌うため、話す時は気を付けねばならない」
など、詳細に信長について記述している。
その後、信長が京都から岐阜に戻ると、法華宗の高僧たちがフロイスたちの追放に乗り出した。
彼らは朝廷に働きかけ、正親町天皇からキリシタンの追放や財産の没収を命じる綸旨を出させたのである。
フロイスは信長に助けを求めるために美濃(岐阜)に頼みに行くと、信長はフロイスを厚くもてなし、彼らの保護を求める朱印状を朝廷と将軍にあてて書いてくれた。
これにより難を逃れたフロイスだったが、かつてザビエルが教えてくれた布教の難しさを痛感した。
その後、フロイスは九州において布教を続け、天正8年(1580年)布教状況を査察するため来日したアレッサンドロ・ヴァリニャーノの通訳として信長と安土城で再会し、豪華絢爛な安土城に驚嘆した。
天下取り目前の信長の威光を目の当たりにしたフロイスだったが、またも乱世の厳しさを思い知らされる。
天正10年(1582年)6月2日「本能寺の変」で信長が横死したのである。
フロイスは本能寺の近くにあった教会・南蛮寺から
「明智方は本能寺に侵入すると信長を見つけた。彼は背中に矢を射られながらしばらく槍で戦ったが、片腕に銃弾を受けると自室に退いて扉を閉じた。彼が切腹したという者もいれば、放火して死んだという者もいた」
と伝え聞いたという。
日本で伝え聞いている話とは少し異なるが、フロイスは信長の死を惜しみ、その偉業を讃えた。
その後、フロイスは布教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するように命じられる。
以後、フロイスはこの事業に精魂を傾けて、その記録が「日本史」と呼ばれることになる。
信長の死後、天下人となった秀吉は、やがてキリスト教の勢力拡大に危機感を抱きはじめ、伴天連追放令を出す。
フロイスは畿内を去って大村領長崎に落ち着き、慶長2年(1597年)長崎にて65歳で死去した。
おわりに
文筆の才があったフロイスは多くの著書を残し、特にザビエルの来日から1593年(文禄2年)までを書いた「日本史」は、当時の日本人とは異なった西洋人の視点から記述として、重要な研究資料となっている。
戦国時代に日本にやって来たザビエルとフロイス、彼らの目に映った日本は乱世の荒波の真っ只中であり、布教活動の難しさを痛感したはずだ。
現在の我々が戦国時代の一端を知ることができるのは、彼らの活動の影響も大きいのである。
参考文献 : 完訳フロイス日本史
関連記事 : 「外国人から見た戦国時代の日本」 フランスシスコ・ザビエル編
この記事へのコメントはありません。