エピローグ~ 謎多き長井隼人佐道利~
今回は、斎藤道三~義龍~龍興の美濃国主3代にわたり仕え、最後は越前刀根山で龍興に殉じたといわれる長井隼人佐道利(ながいはやとのすけみちとし)についてお話ししましょう。
美濃斎藤氏といえば、多くの人の頭に真っ先に浮かぶのは「美濃の蝮」こと斎藤道三でしょう。司馬遼太郎の代表作の一つ『国盗り物語』の主人公で、大河ドラマなどで映像化もされています。
しかし、その道三でさえ出自など不明なことが多いのが現実です。
道三は一般に、「一介の油売りから身を起こし、謀略と策略をもってわずか1代で美濃国の国主になった下剋上の先駆けのような人物」とされています。
だが、近年は資料の発見や詳細な研究により、父の長井新左衛門尉(後の西村勘九郎正利)と2代で美濃を国盗りしたことが明らかになってきました。
そのあたりは、またの機会に触れたいと思いますが、美濃の後斎藤氏を語るうえで重要人物でありながら、歴史の表舞台にあまり登場しない、謎多き長井隼人佐道利についてご紹介しましょう。
なお、斎藤氏に関しては、美濃守護代の斎藤氏を前斎藤、道三以降の斎藤氏を後斎藤と呼ぶことにします。
長井隼人佐道利は道三の長男か
長井隼人佐道利の出自には「長井長弘の嫡男説」「斎藤道三の嫡男説」「斎藤道三の弟説」など諸説あります。
そのうちどれが正しいのかは、いまだに判明していません。
先ずは「長井長弘の嫡男説」から解説します。
長井長弘は、前斎藤氏の重臣で藤左衛門家と称し、道三の父・新左衛門尉を家臣に取り立てた人物です。新左衛門尉は、後に土岐頼芸の寵臣となり、1530~1533年頃に長弘を謀殺しています。
長弘には景弘という嫡男がいました。この景弘が1534(天文3)年以降になると記録に現れることがなくなるので、隼人佐道利がその名跡を継いだ可能性が強いとされます。とすると、そこには新左衛門尉あるいは道三の画策が見え隠れするのですが、新左衛門尉の没年が1533(天文2)年であるなら、道三の仕業と考えるのが妥当でしょう。
続いて「斎藤道三の嫡男説」「斎藤道三の弟説」をみてみましょう。
「嫡男説」は『寛政重修諸家譜』、「弟説」は『寛永諸家系図伝・井上系図』によります。ちなみに井上家は、道利の子孫が名乗った苗字です。
『井上系図』には、道利は道三の嫡男だが、若年の時の子なので、道三は弟としたとあります。
では、この内どの説が一番可能性として高いのでしょうか。「道利」という名が正しいのであれば、藤左衛門家の「長弘」「景弘」と直接的な繋がりは弱いといえます。
では、後斎藤家の道三との血縁はどうでしょうか。道三は実名を「利政」と称し、義龍も初め「利尚」と称していたことから、むしろ後斎藤家との繋がりが強く、道三の一族としての可能性が高いと考えられるのです。
道三は、隼人佐道利を庶子扱いにしたため、初めに名乗っていた長井姓を継がせ、斎藤氏は次男の義龍に継がせたのではないでしょうか。
隼人佐道利が、道三の長男であれば龍興の時代になり、衰退著しい後斎藤氏を最後まで見捨てずに支え続けたとしても決して不思議ではないのです。
不遇だったと推測される義龍時代
隼人佐道利がいつ生まれたのかも、もちろん詳らかではありません。義龍は1529(享禄2)年の生まれなので、おそらくはその10数年前には生を受けていた可能性が高く、義龍にすれば兄というより叔父に近い感覚でいたのではないでしょうか。道三が弟としたという理由もこの辺りにあるのかもしれません。
道利が大きな動きを見せるのは、道三と義龍が不仲になった時です。『備藩国臣古証文』によると、1555(弘治元)年11月、義龍に異母弟孫四郎・喜平次の暗殺を提言し、2人を謀殺した首謀者の一人とされます。
ただ、その1ヵ月後の12月、義龍の知行状に使者として「長井隼人」の名が見えるものの、その後しばらくは姿を現しません。しかしながら、この約半年後の弘治2年(1556年)4月の長良川の戦いでは義龍側で道三と戦っていることから、道三滅亡後も義龍側にいたことは間違いなさそうです。
では義龍の時代になぜ道利が表立った活躍をしていないのか。それについては永禄別伝の乱が関係しているように思われます。
この乱は、京都妙心寺43世で、美濃崇福寺の住職・快川紹喜(かいせんじょうき)と義龍との間に起きた激しい宗教上の対立でした。
道利は、甲斐の武田信玄とも親しい紹喜と親交があり、それ故に義龍との間に齟齬が生じていた可能性が高いのです。
この頃、道利は金山城(岐阜県可児市)城主としてその一帯を知行し、美濃東部を押さえていました。道利はこの雌伏の期間に、紹喜を通じて信玄との誼を深めていたと考えられます。
『崇福寺文章』には、信玄から道利にあてた書状の中で「あなたとは特に親しいのでうれしい」との記述があり、ここからも道利と信玄の関係の深さを読み取ることができます。
そうした状況の中、1561(永禄4)年6月に、義龍が33歳という若さで急死するのです。
龍興の筆頭家老として表舞台へ登場
僅か15歳という若さで龍興が国主になった当時、武井夕庵(たけいせきあん)・氏家直元・伊賀守就(いがもりなり)などが重臣として合議制を敷き、龍興を支えていました。しかし、義龍が死亡した情報を得た織田信長は、早くも美濃侵略を開始します。
稲葉山城攻めの要として、有名な墨俣城を築いたのもこの頃と考えられ、龍興主従にとって喫緊の課題は、信長の侵略に対処することだったのです。
このような状況の中、道利は、突然頭角を現します。弱年ゆえに、父・義龍のようなカリスマ性がなく、軍事的・政治的にも未熟であった龍興にとって、後斎藤家の一門衆として家臣団をまとめる力があるのは道利だけだった。さらに、強兵を誇る武田信玄と通じていることは、何よりも大きな存在であったはずです。
道利自身も、義龍急死の直後から頻繁する信長の美濃侵略に憂慮し、信玄に援軍を要請する記録が残っています。
信玄はそれに応え「出動して欲しいとの知らせを受けたので、信州勢を加勢に派遣する準備を進めていた。」とし、「今後とも即応体制をとっておくので加勢や城米輸送についても遠慮なく申して欲しい。」と書状を送っています。
しかし、その後も信長の侵略は止むことなく、後斎藤氏は徐々に追い詰められていくのです。そして、1565(永禄8)年には、道利も織田家の武将となっていた斎藤新五利治に敗れ、中濃地方も信長に奪われました。新五利治は、道三の末子で道三滅亡の折に信長に保護され、その後近臣として臣従しています。
さらに1567(永禄10)年、西美濃三人衆の稲葉良通・氏家直元・安藤守就らが信長に内応。
ついに稲葉山城を信長によって落とされ、8月15日、道利は龍興を扶け、木曽川を船で下り北伊勢の長島へと退散しました。
後斎藤家復興を図るも主従で討死
利道は、龍興とともに長島一向一揆に加勢して信長に敵対を続けます。
さらに、堺へ赴き、三好三人衆に味方。1569(永禄12)年以降は、信長と不仲になった第15代将軍・足利義昭に仕えます。
そんな中、利道にとって待ち望んでいた吉報が届きました。1572(元亀3)年、武田信玄が義昭の信長包囲網の策に応じ、ついに上洛の兵を率いて甲府を出陣したのです。信玄は、三方ヶ原で徳川家康を撃破し尾張・美濃へと迫りました。
この報を知った利道は「ついにこの時が訪れた」と奮い立ったと思われます。いかに信長が強大な勢力を築いていようとも、四方八方を敵に囲まれた状況では、「信長滅亡の時刻到来」の好機と捉えたのです。
しかし、その夢は儚くも消え去ります。1573(元亀4)年4月12日、信玄は病のため陣中で没したのです。
信長はこの機会を見逃しませんでした。同年8月13日、越前に向けて侵攻。浅井長政を助けるため北近江に出陣していた朝倉義景は、一乗谷に退却。
利道と龍興は、刀根坂(福井県敦賀市)の戦いで、急追する信長勢と戦い主従ともども討死しました。
稲葉山落城から6年、龍興を美濃国主へ戻すという利道の夢は潰えました。だが、保身のためなら裏切りも当たり前の戦国の世にあって、長井隼人佐道利の生き様は称賛されるべきものではないでしょうか。
※参考文献
『斎藤道三と義龍・龍興』横山住雄著 戎光祥出版 2015年9月
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