戦国時代の時代劇や映画では、女性が武器を手にして戦う場面が描かれることが多い。
実際に武家の女性たちは武器を身につけていることが多かったようだ。
今では考えられないが、昔の武家の女性たちは武器が身近にあり、女性の武芸者も存在した。
今回は、武家の女性たちが使っていた武器や、女武芸者について触れていきたい。
懐剣について
日本の花嫁道具の1つに「懐(ふところ)」に「剣(つるぎ)」と書く「懐剣」がある。
「ふところがたな」とも呼ばれるもので、文字通り剣を身に付けてお嫁入りするのだが、男性ならいざしらず、なぜ女性が結婚の儀に身に付けるものになったのか?
白無垢や色打掛など、和装の婚礼衣装に合わせる小物のことを「花嫁和装小物」という。
懐剣は花嫁が打掛を着た時に差す短刀のことで、「筥迫(はこせこ)」「末広(すえひろ)」「抱帯(かかえおび)」「帯揚げ(おびあげ)」と共に一般的な花嫁和装の小物5品目に数えられている。
懐剣は元々武家社会において、武家に生まれた娘が外出時に護身用として短刀を懐に入れて携行していたことに由来する。
これは、武家社会の女性として「自分の身は自分で守る」という覚悟を持った習慣だった。
更に、いざという時に誇りを持って自害するためのものでもあった。
武家の男性が「武士の象徴」として二本差しをしていたのと意味合いは同じである。
懐剣が一般的な花嫁和装小物として発達したのは、実は明治以降の事である。
武家の社会は終わったが、武家の女性が持っていた心構えが「女性のたしなみ」として憧れとなり、取り入れられたとされている。
そして護身用だった懐剣は、もう1つの意味を持っていた。
それは「災いや邪悪なものから身を護る」ためである。
天皇が皇位の証として即位の際に継承される「三種の神器」は、「八咫の鏡(やたのかがみ)」「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」の3つである。
鏡は伊勢神宮内宮に、勾玉は皇居吹上の剣壐の間に、剣は熱田神宮にそれぞれご神体として安置され、古来より「刀剣」は武器であると同時に神器として崇められるものだった。
厄(災い)を切り、運を切り開く「護り刀」としても考えられていたのである。
娘がこれから新しい家庭を築いていくにあたって「幸多かれ」と願う、親の深い愛が形になったものとも言えるのだ。
武芸指南役「別式女」
江戸時代には「別式女(べっしきめ)」と呼ばれる女性の武芸者がいたという。
男子禁制の場所などで要人の警護を担う女性を指導する「プロの武芸指南役」のような存在であった。
別式女に就いた女性たちは、男性と同等の腕前と共に礼儀作法や教養も求められた。
別式女は「別式」「日本刀腰婦」「帯剣女」とも呼ばれた。
寛文年間(1661~1673年)頃から、各藩の大名家の奥方付きの女中に「武芸に秀でた女性」を召し抱える風潮が目立ってきたという。
書物「婦女勇義伝」によれば、別式女がいる大名家は17~18家あったと記されている。
また、大名家以外でも1,000石以上の旗本や藩の重臣の屋敷などでは、主とその家族が住む「奥」は、原則的に家族以外の男性の立ち入りが禁止されていた。
それは正室や側室が主以外の男性と関係を持って、もし男子が誕生してしまえばお家騒動の火種になりかねないからだ。
つまり、優れた武芸や腕前を持っていても男性に「奥」の警護を務めさせることはできなかったのである。
彼女たちは大名家などに仕えるために礼儀作法や教養が求められ、他家への訪問などの外出時には警備役として帯同した。
男子禁制の場所での警護の他に、武家の女性の教養の1つとして剣術指南してくれる女性剣術家の存在は必要だったのだ。
薙刀について
薙刀(なぎなた)は、柄先に反りがある刀身を装着した武具で、当初は「長刀(ながなた)」と表記されていたが、「長刀(ちょうとう)」と区別するために「薙刀」と表記されるようになった。
その後、時を経て昭和の時代に文部省の指導によって「なぎなた」と名称が変更された。
元々は曲線のある刃を長い柄に取り付けた刀剣を長刀として使ったことから始まり、騎乗の武士をなぎ払う歩兵が用いていた。
他の刀剣と一番違うのはその長さと独特の使い方で、「なぎ倒す」という言葉があるように斜めから斬り倒す。
語源はそこからきているとされている。
武蔵坊弁慶のような大男が持つにふさわしい武器だが、どちらかというと「女性にも扱いやすい刀剣」という形で発展していった。
特に江戸時代以降は、武家の婦女子の護身用として用いられるようになり、武家に嫁ぐ嫁入り道具の1つにもなった。
現代競技の「なぎなた」において女子が主流となっているのは、その流れからきている。
薙刀は応用範囲の多い武器で、刃の部分だけを用いて使う武器ではない。
刀と柄はそれぞれ攻撃にも防御にもなり、長さがあるために仕掛けも様々で、応じ方も様々である。
薙刀で有名な3人の女剣士
薙刀を用いた代表的な3人の有名な女剣士として、まずは源平合戦で木曽義仲と共に戦った「巴御前(ともえごぜん)」が挙げられる。
彼女は一人当千の猛将であったという。
2人目は九州の戦国大名・大友宗麟に仕えていた立花道雪の1人娘「立花誾千代(たちばなぎんちよ)」である。
夫の立花宗茂が合戦などで城を留守にした際には、腰元たちと共に「女子組(おなごぐみ)」を結成して薙刀を持って武装したという。
関ヶ原の戦いにおいても逸話があり、城の開城を求めてきた加藤清正の軍勢を薙刀で威嚇し、清正軍の進軍を妨害したという。
最後の1人は、会津藩士の黒河内兼則のもとで免許皆伝を受け「薙刀の名手」と言われた「中野竹子(なかのたけこ)」である。
戊辰戦争の会津討伐で決死隊となった婦女隊のリーダーとして男装姿で新政府軍を相手に奮闘したが、被弾して重傷を負い、妹に介錯させて自決した女傑である。
おわりに
戦国時代、斎藤道三の娘・濃姫が織田信長に嫁ぐ前、父の道三が「信長という男が本当にただのうつけならば、この短刀で刺して殺してしまえ!」と言って短刀を渡したが、濃姫は「この短刀で刺すのは父上かもしれませんよ」と言い返したという逸話もある。
何が起きても不思議ではなかった武家の女性たちは、護身用はもちろん、敵に囲まれた時の自害用として、また謀略で相手を殺すためにも武器を身につけていたのである。
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