信長の同盟者 浅井長政
浅井長政(あざいながまさ)は北近江を治めていた戦国大名であり、織田信長の同盟者としてその妹・お市の方を継室としたことでも知られている武将です。
しかし長政は、信長が朝倉氏を攻めたことで、先代より続いてきた朝倉氏との盟約に従って信長に反旗を翻すことになりました。
最終的に居城の小谷城を包囲された長政は、お市の方と自らの3人の娘を信長の下に返し、自らは自刃して果てました。
「信長公記」では天正2年(1574年)の正月、信長は長政と父・久政の頭蓋骨に金箔を施しものを酒の肴とした主席を催したとも伝えられ、信長の苛烈な性格を伝える逸話ともなっています。
15歳にして父を追放
長政は天文14年(1545年)に浅井久政の長男として、当時臣従していた南近江の六角氏の観音寺城下に生まれたと伝えられています。
しかし長政は六角氏の人質となっていたため、臣従した証として六角義賢の一字をとって「賢政」と名付けられていました。また同じく六角氏の家臣であった平井氏の娘との縁組みもさせられていました。
しかし長政は、父・久政がかつての臣下であった六角氏に臣従していることを快く思っていなかった家臣らと共に、僅か15歳の時の永禄3年(1560年)に久政を追放すると、平井氏から迎えていた娘とも離縁して六角氏からの独立を図りました。
初陣での大勝利
永禄3年(1560年)の8月、六角氏は長政の離反を制圧しようと、その数25,000人とも伝えられている大軍で攻め寄せました。
これに対し長政の浅井勢は約11,000人と寡兵でしたが、宇曾川を挟んでこれを迎撃すべく対峙しました。
この合戦は野良田の戦いと呼ばれています。
当初は数の多い六角勢が優位でしたが、長政の用兵の妙により浅井勢が勝利を収めました。
これが初陣にもかかわらず、寡兵で勝利を得た浅井家中の結束・士気は大いに高まったとされています。
この戦後の同年10月に、長政は追放した久政と和解し、正式に家督を譲り受けたとも伝えられています。
死後に将軍・家光の祖父となる
この後の永禄6年(1563年)頃から美濃攻めと上洛を視野に入れた信長が、北近江の地理的な価値を重視し、長政との同盟を打診しました。
永禄10年(1567年)、「浅井家の盟友の朝倉家は攻めない」と言う条件付きで同盟が締結されると、信長の妹・お市の方が、継室として長政の下へ送られました。
その後、長政とお市の方の間には茶々・初・江の3人の姫が生まれます。
後に末の江が徳川2代将軍・秀忠に嫁し、3代将軍の家光の母となります。
長政は家光の祖父となったことから、死後の寛永9年(1632年)に贈従二位中納言の官位を送られました。
信長からの離反
同盟から3年後の元亀元年(1570年)信長は同盟の約定を違えて、琵琶湖の西から越前の朝倉方の城を攻めました。
長政は朝倉との関係を選ぶと、信長勢に兵を向けました。この時の信長勢の撤退戦が木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の名を一躍世に知らしめた金ヶ崎の退き口と呼ばれる戦いでした。
この時、長政は藤吉郎らの奮戦によって信長を討ち漏らすことになりました。
同年6月、体制を立て直した織田・徳川連合軍は近江に侵攻し、浅井・朝倉の連合軍との姉川の戦いが勃発しました。
この合戦は浅井勢は善戦したものの、兵力で勝った織田・徳川勢が勝ちを収めています。
浅井氏の滅亡
その後、足利義昭が呼びかけた包囲網で窮地に陥った信長でしたが、西上を始めた武田信玄が病没したことで危機を脱し、天正元年(1573年)7月には3万の大軍を率いて北近江へと侵攻しました。
長政は朝倉義景に後詰を要請し、これを受けた義景は2万の兵で出陣したものの、信長勢は北近江の諸城を陥落させました。
これにより浅井氏家臣の離反が相次ぎ、形勢が不利と悟った義景は退却しました。
信長勢はこれを追撃すると刀根坂の戦いで打ち破り、続けて越前の朝倉氏の本拠地・一乗谷城を陥落させて滅ぼしました。
この後、北近江の長政の居城・小谷城も包囲され、再三の降伏の呼びかけを固辞した久政・長政父子は自刃して果てたのです。
参考文献 : 浅井長政と姉川合戦
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