武田信玄と甲陽軍鑑
武田信玄(たけだしんげん)は「甲斐の虎」と恐れられた大名で、ライバルの「越後の龍」こと上杉謙信との12年5回に及ぶ「川中島の戦い」は有名である。
戦国の魔王・織田信長さえ恐れた戦国最強の大名だった。
甲陽軍鑑(こうようぐんかん)とは、武田信玄・勝頼時代を中心とした戦略・戦術・合戦記事・軍法・刑法などを記した軍学書である。
成立の時期や過程については複数の異説があり、最も有力な説は、武田信玄の重臣である高坂弾正昌信(春日虎綱)の遺記を基に、春日惣次郎、小幡下野らが書き継ぎ、小幡景憲が集大成したとされている。
成立時期は、長篠の戦いの直前である天正3年(1575年)5月ごろから原本が書かれ、江戸時代の初期頃まで編纂が続いたと考えられている。
現在我々に伝わる信玄の人物像は、主にこの甲陽軍鑑から来ているものである。
原本は、信玄の死後に武田家遺臣の者たちが執筆したものだが誤りも多く、史料的価値は低いと見なされてきたが、近年は再評価されている。
今回は、甲陽軍鑑に書かれていなかった「武田信玄の知られざる真実」について掘り下げていきたい。
なお「信玄」は出家後の法名であり、元服後の主な活躍時期における名は「晴信」であるが、ここでは分かりやすく「信玄」と表記させていただく。
信玄は不良少年だった
信玄の異名は「甲斐の龍」でもあったという。
実は信玄は、辰年生まれで、ライバルの謙信が寅年生まれなのだ。
本来は、信玄が「甲斐の龍」、謙信は「越後の虎」という異名(あだ名)で呼ばれていたのだが、歴史研究家の間では長年の慣習や暗黙の了解で「甲斐の虎・越後の龍」とされているのである。
信玄は幼少期から優秀過ぎて、父・信虎から嫌われ、信虎は弟の信繁に家督を譲ろうとしていたという逸話がある。
しかし本当の信玄は「文弱の徒(学問や芸術にふけり肉体的・精神的に弱々しい者)」であり、なおかつ不良少年であったという。
20歳頃までの信玄は、毎晩のように自分の友達を集めて酒宴を開く、チャランポランな不良少年だった。
父・信虎はこんな息子に自分の跡を継がせることはできないと思い、弟・信繁を後継者にしようとしたのである。
しかし甲陽軍鑑には「信玄が優秀過ぎたのが原因」と書かれているのである。
甲陽軍鑑は主に江戸時代に書かれており、信玄については印象が良くなるように脚色されている箇所も多い。
例えば信玄は「10代で初陣を飾り大活躍した」とされているが、これも後世の創作とされている。
実際の信玄の初陣は20歳を越えてからで、戦場にはほとんど出ていなかったという。
家督相続
天文10年(1541年)、信玄は21歳の時に父・信虎を追放し、甲斐国の国主となった。
しかしなぜ不良少年だった信玄が、信虎を追放できたのだろうか?
信玄の父・信虎は戦は非常に強かったが、その戦で得た利益を全て自身のものとする強欲な男だったという。 信虎の下に仕える家臣団(豪族)たちは、そのことに強い不満を抱いていた。
甲斐の国は豪族たちの連合軍で形成されており、彼らは「もはや信虎の下では耐えられない」と考え、豪族連合軍(武田家家臣団)の重臣である板垣信方・甘利虎泰・飯富虎昌らは信虎を追放することを企てた。
しかしこの計画には、信虎の代わりとなる名目上の主君、つまり神輿(みこし)となる人物が必要だった。そして神輿を担ぐならば軽い方が楽である。
それにうってつけの人物が不良少年であり酒宴に明け暮れていた信玄だった。 加えて信玄は嫡男でありながら若く、戦歴もなかった。
そのため、重臣である板垣信方・甘利虎泰・飯富虎昌たちは、名目上の主君として信玄を担ぎ上げたのである。
信玄の兵法
信玄は生涯で130以上の戦に勝って「戦国最強の武将」と謳われた。
しかし、軟弱者で家臣たちからも下に見られていた信玄が、なぜ「戦国最強の武将」と言われるようになったのだろうか?
信玄は若い頃から書物が大好きで、中国の孫子の兵法に精通していた。孫子の兵法は「戦わずして勝つ」ことであり、それを地で行っていたのが信玄であった。
信玄は軍事のイメージが強いが、実際の信玄は「軍事を最後にした人物」だと歴史研究家たちは口を揃える。戦う前の用意と準備に力を注ぎ、軍事は最後と考えていた武将だったという。
「戦わずして勝つ」ことこそが、信玄の戦い方だったのだ。
戦わずして勝つ方法
信玄の本拠地・甲斐国の甲府、この地で信玄は戦国最強と謳われた軍団を作り上げた。
現在の甲府駅からまっすぐ伸びる武田通りを5kmほど進むと、そこには「武田神社」が目に飛び込んでくる。
武田神社は信玄の居城・躑躅ヶ崎館の跡で、武田信虎・信玄・勝頼3代の館があった場所だ。
国主であった信玄は、堅固な城ではなく館を本拠地としたのだ。
だが近年の調査・研究によって、この館は戦国時代に築城された城と同じように、幾重にも厳重な守りを固めていた館であることが分かった。
一つ目は空堀で、約10mの深さの堀と土塁が敵の侵入を阻んでいた。
二つ目は城の周囲を水堀で囲み、侵入する敵に対して攻撃する櫓を構えていた。
三つ目は門の外側に半円形の馬出(うまだし)を設け、しかもその周囲は三日月形の堀を作っていた。
この馬出を防御の前線として、慎重な守りで固めていたのである。
信玄の用意周到さは、戦場でも発揮されている。
一番の激戦だった「第四次川中島の戦い」において、永禄4年(1561年)8月16日に上杉軍が戦いの本陣である妻女山に入ったが、その2日後には武田軍は甲府を出陣している。
謙信がいた越後・春日山城と信玄がいた躑躅ヶ崎館は、その距離約100kmと離れていたが、なぜ信玄は謙信の動きを早く知ることができたのだろうか?
当時の武田軍の前線基地は海津城で、この城の裏手には富士山に形が似た山があった。
その山の通称は「狼煙山(のろしやま)」と呼ばれ、狼煙を使っていち早く情報を掴んでいたのである。
狼煙山から上がった狼煙は次々とリレーされ、あっという間に信玄のいる躑躅ヶ崎館に知らされた。
謙信の動きを知った信玄は、川中島で陣を張った謙信の動きを掴み、躑躅ヶ崎館から2時間~2時間半で川中島に到着したという。
さらに狼煙以外にも早馬を乗り継いできた者によって、より詳しい状況が信玄のもとに届いた。
それは戦いを有利に進めるために、情報収集する集団が「甲州透波(こうしゅうすっぱ)」と呼ばれる忍者集団であった。
彼らは僧侶や商人に化けて、敵の状況を探っていた。
また、信玄は「歩き巫女」という「女忍者・くノ一」部隊を300人ほど使っていたという。
歩き巫女の頭領は「どうする家康」で古川琴音が演ずる望月千代女である。歩き巫女は当時全国各所にいて、関所を素通りできるという利点があった。
信玄はその利点を活用して、全国各地の情報を収集していたのである。
「甲州透波」に「歩き巫女」は、まさに用意周到の極みである。
信玄のスカウト術
信玄の領国・甲斐には、僧侶や剣豪、情報を知る行商の商人など、様々な職種の人々が多数訪れていた。
驚くことに、信玄は直接彼らと会って話を聞き、優れた人材を自身の仲間に引き入れていたという。
塚原卜伝と共に剣聖と称される上泉信綱は、元々信玄と戦った武将の一人であった。
しかし、信玄はそんなことは気にせず、上泉信綱の主君を打ち倒した後に信綱たちを自身の家臣としてスカウトした。ただし、残念ながら上泉信綱とその弟子たちからは誘いを断られてしまった。
信玄はそのような経緯から、塚原卜伝から剣術を学び、伊賀忍者の上忍・藤林長門守から兵法と忍術を学んだ山本勘助を見出して採用している。(※ただし勘助の実在に関しては議論が続いている)
信玄はその広い視野と人材の発掘眼力により、優れた人物たちを自身の側に集めていたのだ。
また、信玄は優れた人材を見つけた際には、「この人物は武田家の味方になった」という嘘の情報を、敵方の諸将たちに広めたという。
優れた人材たちが敵対勢力に自身を売り込みに行っても、当然ながら仕官は断られ、諸大名たちから拒絶される結果となる。
信玄が狙いを定めた優秀な人材たちは、巧妙な策略によって最終的に信玄の元に集結することになるのである。
信玄の兵法はまさに孫子の兵法「戦わずして勝つ」を具現化したものであり、その結果、「戦国最強の大名」となったのである。
参考 : 偉人・素顔の履歴書
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