侵略戦争
文禄元年(1592)〜慶長3年(1598)にかけ、豊臣秀吉は明の征服をめざして朝鮮侵略戦争を行った。
この文禄・慶長の役は、現地では「壬辰・丁酉倭乱」と呼ばれ民衆を巻き込んで戦闘が繰り広げられた。この時、日本軍の捕虜となって連行された朝鮮人は2万人とも3万人ともいわれている。
大名達は秀吉に朝鮮出兵を命じられ、参戦を余儀なくされた。大名達は長期に渡る出陣で疲労しきっているうえに、農民達まで狩り出したために領内の田畑は荒れていき、農耕を行うにも人手不足に陥っていた。
この事態を乗り切るために、大名達は戦闘の合間に朝鮮の人々を捕らえて日本に送った。送られた朝鮮の人々は農耕に従事させられたばかりでなく、人買い商人に売り飛ばされる人もいた。
主にはポルトガル商人を経てマカオ、インドなどの南方市場に奴隷として売られていった。
このような人々も含め、朝鮮から海外へ流出した人々の数は5万人ともいわれている。
小西行長と少女
文禄の役の際、キリシタン大名・小西行長の率いる軍は、途中で、5歳前後の朝鮮人の少女を保護した。両親は戦渦で行方不明であった。
一説によると、彼女は名前を尋ねられると「オプタ(無い)」と答えたといい、これが転じて「おたあ」と呼ばれるようになったという。貴族の出身ともいわれるが詳細は不明である。
その後、おたあは小西行長夫妻の元で育てられることになった。
小西行長の妻・菊姫(洗礼名・ジュスタ)から読み書きや作法などを学び、その後の人生で必要な知恵を与えられた。そしてキリスト教徒になるために洗礼を受け、「ジュリア」という名前が授けられた。
小西行長は小西隆佐の次男とされている。隆佐はキリシタンであり、秀吉の側近の1人として軍奉行を務めている。そして堺の商人で薬種業界にも君臨し、さらに捨て子の養育や癩者の救済などの慈善事業も行っていた。秀吉はキリスト教政策を行う中で、小西氏を厚く信頼していたという。
行長は晩年、隆佐の後を受けて大坂や堺に病院をつくったり、捨て子のために年100石を計上して、キリシタン仲間の家庭に子供を預けて養育させるなど社会福祉に尽力した。
小西行長の死
秀吉が没すると慶長5年(1600)に、政権を狙う徳川家康率いる東軍と、家康を阻止しようとする石田三成率いる西軍に分かれ、関ヶ原で決戦が行われた。
関ケ原の戦いは、戦闘開始からわずか7時間程で東軍が勝利した。敗れた石田三成は京の六条河原で斬首され、小西行長も同じく処刑されてしまった。
行長の居城・宇土城は加藤清正によって攻め滅ぼされ、城の守備をしていた行長の弟・行景は城兵の命と引き換えに自決した。
清正は行長の遺臣を召し抱え、小西の領地を加増された。その際に清正は多くのキリシタンも家臣として抱えることになり、おたあ・ジュリアもその中の1人となった。
また文禄・慶長の役の際に連れて来られた朝鮮人捕虜達の中には、権力者の元へ送られ、侍女や小姓、あるいは妻妾として仕える者も多くいた。
おたあ・ジュリアは清正から伏見の家康の元に送られ、宮廷の侍女として仕えることになった。
家康は彼女がキリシタンであることはわかっていたが「たかが小娘の信仰」とさほど気にはしなかったという。
家康は政権を握った当初、ヨーロッパ貿易の確保と通商のための手引きとしてキリシタンを黙認していた。宣教師達が京都や長崎などに居住することを許し、貿易によって得られる莫大な利益を得ようとしていたのである。
宮廷の侍女
慶長10年(1605)の「イエズス会年報」の中の伏見教会に関する記述に、おたあ・ジュリアのことが記されている。
それによるとおたあ・ジュリアは、昼は宮廷の仕事をし、夜の大部分の時間を聖書を読んだり信仰の勉強にあてていたという。
彼女は誰にも知られていない隠れ場所に小さな礼拝堂を持っており、とても熱心な信者で、その信仰心の厚さに周囲の人々は感動していたと伝えられている。
彼女は若く美しい女性で、「茨のなかの薔薇」(旧約聖書の雅歌から取った比喩、潔白を守る意味)のようであり「もし自分の霊魂を損なうようなことがあるなら命を捨てた方が良い」と決意していたという。
この時のおたあ・ジュリアは17歳前後であり、奥向きに仕える侍女としては高い身分だったようである。仲間のキリシタンの侍女を導いたり、隠れた礼拝堂を持つなど自由に外出を許されており、大くの情報を入手出来る立場だった。
この年に家康は、息子の秀忠に将軍職を譲り、自身は大御所になった。その後、おたあ・ジュリアは家康に従って江戸に移ったとされる。
慶長11年(1606)に来日したアルフォンソ・ムニョス神父が記した「日本の布教において1606年に起こった最も注目すべき出来事に関する報告」の中では、「おたあ・ジュリアはとても信心深い慈悲の手本となるような立派なキリシタンである」と記されている。
この年に二代将軍・秀忠は、江戸を中心にキリシタンの探索を行った。
発見したキリシタンには棄教を命じたりしたが、この時の迫害は大事には至らなかった。
キリスト教の禁止
慶長12年(1607)おたあ・ジュリアは、家康の一行と共に江戸から駿府へ移った。
家康は駿府で隠居するという建前だったが実質は権力を持ったままで、江戸と駿府での二元政治が執り行われていた。
それから2年後の慶長14年(1609)、ある事件が起きた。
肥前(現・佐賀と長崎)のキリシタン大名・有馬晴信が、長崎に停泊中のポルトガルの貿易船マードレ・デ・デウス号を撃沈してしまったのである。(※ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件)
この前年、晴信の朱印船が占城国(現・ベトナム南部)からの帰国の途中、マカオで起きた日本人暴動事件に不幸にも関わってしまっていた。この時、晴信の家臣を含めて40人以上の日本人が殺害されている。この時のマカオの司政長官がデウス号の船隊司令官のアンドレア・ペッソアであった。
晴信は家康に家臣を殺されたことを訴え、船および乗組員への襲撃を願い出てデウス号を攻撃したのだった。
家康は、ペッソアのマカオ事件についての報告書の中で、日本人を殺害したことは伏せてあったことや、今後ポルトガル貿易からオランダ貿易に乗り換えを考えていたことなどもあり、襲撃を許可した。
晴信は船襲撃の恩賞として「旧領が取り戻せるのではないか」と期待していた。
しかしこれを家康の側近の家臣・岡本大八は利用し「晴信の望みを大御所様に取り次いでやっても良い」と偽って、運動資金を要求した。
これを知った家康は激怒し、晴信と大八は収賄・横領の罪で裁かれることになった。
慶長17年(1612)に大八は火刑、晴信も死罪に処されたのである。(※岡本大八事件)
そして2人がキリシタンであったことから、家康はこれを機にキリシタン禁制に踏み切った。
すぐに禁教令を発布し、江戸や長崎などの直轄領の教会の破壊・布教の禁止を命じたのである。
キリスト教徒への迫害
家康は自身の側近、小姓に至るまでキリシタンの者を探索した。城中に仕える侍女たちも例外ではなかった。
家康は家臣の中にキリシタンを発見するとまず改宗を迫ったが、従わないと全財産を没収して駿府から追放した。中には見せしめとして額に十字の焼印を押され、手足の指を切断されて追放された者もいた。
侍女たちの中には何人かのキリシタンがおり、主要な人物としておたあ・ジュリア、ルチア、クララがいたという。
家康は棄教を命じたが、彼女達はキリストの教えを守るためならいかなる拷問にも耐える決意でいた。家康はジュリアを寵愛していたが、宮廷の人々からも尊敬されていた彼女が、自分の命令に従わないことが許せなかった。さらに家康はおたあ・ジュリアに側仕えを命じていたが、彼女は「自分はデウスに仕える身であるから」と断っていたのだった。
そして、とうとうおたあ・ジュリアは大島へと流されることになった。しかし家康は、彼女を再び宮廷に呼び返すつもりでいたという。
だが、おたあ・ジュリアはキリシタンでいることを望み、断固として棄教はしなかった。彼女は大島で30日程過ごした後、新島へと移され、最後は神津島という小島に送られた。
しかしおたあ・ジュリアは宮廷にいた時よりも、神に従事することが出来ることに満足し、島に住む人に献身的に尽くした。唯一辛かったことは告解も出来ず、ミサに与ることが出来ないことであったという。
おたあ・ジュリアのその後
おたあ・ジュリアは遠島後も教会との連絡を保ち、彼女の元には海外へ追放されたキリシタンなどから施物が送られてきた。
元和8年(1622)2月付のフランシスコ・パチェコ神父の書簡「日本発信」の中には
「おたあ・ジュリアは神津島を出て神父の援助を受けながら大坂へと行き、その後は長崎に移った」
という記述がある。
しかしこの書簡が発見される前の1950年代に、神津島の郷土史家・山下彦一郎が「おたあ・ジュリアは神津島で生涯を終えた」という主張をした。
そのため神津島では毎年5月に彼女を偲び、日韓のカトリックの人々を中心にして、ミサ聖祭を取り入れた行事「ジュリア祭」が行われるようになり、今も続いている。
参考文献 おたあ・ジュリアのアリランが聞こえる (毎日新聞社)
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