時は天正3年(1575年)5月21日。織田・徳川連合軍の銃火に壊滅させられた、甲州武田の騎馬軍団。
世に言う設楽原の戦い(長篠の戦い)で、武田勝頼(演:眞栄田郷敦)は多くの名将たちを喪ってしまいました。
今回はその一人、いわゆる武田四天王の一翼を担った馬場信春(ばば のぶはる。氏勝、信房)を紹介。
武田信虎(のぶとら。信玄父)・武田信玄(演:阿部寛)そして三代に仕えた猛将で「鬼美濃」「不死身」などと恐れられました。
これまで大河ドラマ本編には登場しませんでしたが、最期くらいは魅せ場を描いてくれるのでしょうか。
(退却する勝頼をかばい、織田の大軍を食い止めたと伝わります)
今回はそんな馬場信春が、後世どのように伝えられたのか、江戸時代の系図集『寛政重脩諸家譜』をひもといてみましょう。
信長さえ賞賛した「不死身の鬼美濃」馬場信春の最期
馬場氏勝(うじかつ)
美濃守 信盈が呈譜に、はじめ玄蕃民部大輔政光、後美濃守信房につくる。
武田信玄をよび勝頼につかへ、天正三年五月二十一日長篠合戦のとき討死す。
妻は小田切下野守某が女。※『寛政重脩諸家譜』巻第184 馬場 武田支流(清和源氏義光流)
……え、これだけですか?しかも諱は信春じゃないんですね(文献により異なる)。
もう少し何か書くことあるでしょうよ、と前後も探してみました。
……信保が長男を美濃守信房はじめ民部氏勝とし、武田家の老臣馬場伊豆守虎貞が家名を継、信虎、信玄勝頼に歴仕し、はじめ信濃国高遠、後同国槇嶋の城に住す。三百騎の士をあづかり、士大将に列し、武田家の一族につらなり花菱の紋をうく。
天正三年五月二十一日長篠の役に戦死す。法名乾忠。甲斐国恵林寺に葬る。……※『寛政重脩諸家譜』巻第184 馬場 武田支流(清和源氏義光流)
そうそう、ごくざっくりながら、こういうのが読みたかったのです。大活躍によって、武田一門に並び評価されたことがよく分かりますね。
生涯数十回もの合戦に参加しながら、かすり傷一つ追わなかった強運の持ち主で、まさに「不死身の鬼美濃」でした。
勝頼が安全なところまで逃げ延びたであろう段階で自ら抵抗をやめ、敵に首を差し出したと言います。
その強さと潔さに、かの織田信長(演:岡田准一)さえ賞賛を贈らずにはいられませんでした(『信長公記』)。
鬼美濃の子孫たち6代
さて、そんな「鬼美濃」馬場信春の子孫たちはどんな人生をたどったのでしょうか。
【馬場氏略系図】
氏勝(信春、信房)―房勝―房家―房頼―房次―六郎左衛門-源五郎(断絶)
馬場房勝(ふさかつ)
生没年不詳、通称は右馬助、または左近源蔵。
武田家滅亡後、北条氏直(ほうじょう うじなお)の庇護を受けて武蔵国岩槻城に暮らしたと言います。
天正18年(1590年)に羽柴秀吉(演:ムロツヨシ)の命を受けた平岩親吉(演:岡部大)らに攻められ、その後は不明です。
馬場房家(ふさいえ)
生没年不詳
北条氏房(うじふさ。氏直弟)と共に小田原城へ入ります。実質的に人質ですね。
北条の滅亡後、しばらく浪人していたようですが、後に徳川秀忠(ひでただ)に仕えたそうです。
馬場房頼(ふさより)
生年不詳〜寛永18年(1641年)没
通称は源右衛門。第3代将軍・徳川家光(いえみつ)に仕え、小十人(こじゅうにん。親衛隊の一部署)をました。
寛永13年(1635年)12月23日には御納戸番となり、蔵米200俵を賜わります。
馬場房次(ふさつぐ)
生年不詳~延宝4年(1676年)没
通称は源三郎、もしくは左次兵衛。寛永18年(1641年)に家督を継ぐも、役が得られず小普請(こぶしん)に。
小普請とは雑用、転じて無役の御家人を言います。何とかお役目をいただけるよう、必死にアピールしたのでしょうが、その甲斐はなかったようで記録が残っていません。
馬場六郎左衛門(ろくろうざゑもん)
生年不詳~元禄2年(1689年)没
諱(いみな。実名)は不詳、通称は宇右衛門(うゑもん/いえゑもん)。元は岩佐善兵衛武清(いわさ ぜんべゑたけきよ)の次男で、馬場家へ養子入りしました。
延宝4年(1676年)に家督を継いで、天和元年(1681年)2月26日に大番(おおばん。将軍親衛隊の一部署)にお役目を頂きます。やりましたね!
しかし何かやらかしたようで謹慎処分に。元禄元年(1688年)12月18日に再び許されるも、間もなく世を去ってしまいます。
馬場源五郎(げんごろう)
生年不詳~元禄10年(1697年)没
馬場家へ養子入りしましたが、諱どころか、実家も不詳。まさに「どこの馬の骨」状態です。
元禄2年(1689年)に家督を継ぐも、子供はおらず養子も確保できないまま世を去ったため、馬場家は断絶してしまったのでした。
終わりに
以上「不死身の鬼美濃」馬場信春の子孫たちを紹介してきました。代を経るごとに苦しくなる中、それでも懸命に家門の再興を図り奮戦する様子がうかがえました。
ちなみに馬場の家紋は信玄から許された花菱(はなびし)に加え「三筋山路(みつすじやまみち)」と「揚羽蝶(あげはちょう)」があります。
もし武田家がらみの合戦図屏風など見た折には、これらの紋があったらもしかすると馬場家かも知れません。
NHK大河ドラマ「どうする家康」にも、チラッと出てくれると嬉しいですね!
※参考文献:
- 高柳光寿ら編『新訂 寛政重脩諸家譜 第3』平文社、1964年8月
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