どうする家康

関ヶ原の戦いは史上最大の情報戦だった 〜後編 「勝敗を決した吉川広家の決断」

前編では、日本を東軍と西軍に分けた天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、史上最大級とも言える情報戦が繰り広げられていたことを解説した。

開戦2ヶ月前からの両陣営から全国へ送られた書状の数は、見つかっているものだけでもなんと500通。

全国の諸大名にとっても、どちらにつくかで今後の命運が大きく分かれることとなり、非常に難しい選択だったはずである。

キーマンは、亡き秀吉のもとで活躍した武勇に優れた福島正則であり、両陣営は正則を味方につけるために必死に動いていた。

そのような情報戦の中で家康は、あえて正則を「日和見」と挑発することによって、味方に引き入れることに成功したのである。

書状に現れる性格

画像 : 石田三成 public domain

石田三成の書状は、とても長い文章であった。

真田昌幸に送った書状は約2mもあり、個人的な思いから作戦まで延々と書かれていたという。

対する家康の書状は、とても短いものが多かった。

例えば伊達政宗に宛てた書状には

心遣いに感謝する。西軍が挙兵したので江戸に帰った。息子・秀忠に会津方面への攻略を指示した。詳しい説明は使者が話す

とだけ書かれている。

三成は自身の感情の赴くままを正直に書く長い文章であるが、家康は自身の感情はさておき、相手の感情に訴えかけるような短い文章となっている。

2人の性格の違いは書状にも表れているのである。

前日の情報戦

9月14日、関ヶ原の戦いの前日、家康の3万の軍勢が遂に姿を現した。
すぐにでも三成を討ち取りたい家康だったが、東軍は関ヶ原に入ることができなかった。

それは、関ヶ原の入口である南宮山を、西軍の毛利勢らが押さえていたからである。
この南宮山の先陣に構えていたのは、毛利輝元の重臣・吉川広家であった。

彼らは西軍の総大将・毛利輝元の別動隊であった。

画像 : 吉川広家の肖像 public domain

ここで最後の情報戦が繰り広げられることになる。

吉川史料館には、黒田長政から吉川広家に宛てた密書が残されている。
長政は西軍の大名たちが東軍に寝返るように暗躍しており、この密書にはある工夫がされていた。

吉川広家に宛てた密書は、誰にも内容が分からないように4つに細長く切り分かれていた。
そして使者は、その4つに着られた密書を腰の帯の紐のところに編み込んでいたという。

その密書には「戦いが始まってからでは東軍への寝返りは間に合わない」と書かれていた。
長政は吉川たちを東軍に引き込むことで、関ヶ原への突破口を切り開こうとしたのである。

吉川たち西軍勢が待ち望んでいたのは、総大将の毛利輝元が豊臣秀頼を連れての出陣であった。

しかし、戦う気満々であった輝元は、前日になっても大坂城から動こうとはしなかった。

画像 : 毛利輝元 public domain

輝元は、東西両軍が関ヶ原に集中している今こそが領土拡大のチャンスだと考え、この隙に四国や九州に密かに兵を送っていたのである。

輝元を待つか?東軍に寝返るか?吉川広家は南宮山で悩んだに違いない。
そんな広家に、長政は駄目押しの条件を出したのだ。

それは「戦いに参加しなければ毛利家の領地は保証する」というものであった。

広家は「輝元が大軍を率いて関ヶ原に現れれば共に家康を叩き潰せばいい。もし現れなかったとしても、南宮山から動かなければ毛利の領地は守られる」と考えたことが推測できる。

そしてこの夜、広家は密かに東軍と不戦の起請文を交わした。
それは、毛利勢は戦いに一切関わらないという密約だった。

黒田長政が仕掛けた情報戦で、東軍は南宮山を通過して関ヶ原へと入ることができたのだ。
この時点で、ある意味西軍の勝ちは無くなっていたのかもしれない。

関ヶ原 本戦

画像 : 関ヶ原の戦い 布陣図 public domain

慶長5年(1600年)9月15日の朝、東軍が関ヶ原に姿を現した。

それを見て一番驚いたのは、石田三成であっただろう。
どうして家康がここにいるのだ。毛利勢は何をしているのか?」と驚愕したはずである。

吉川広家の決断が、この戦いを大きく変えた。
吉川が先陣と決定しているために、その後ろに陣を張っていた毛利秀元、長曽我部盛親らは動くことができなくなっていた。

この決断は、南宮山から離れた松尾山に陣を張っていた小早川秀秋にも大きな影響を与えただろう。秀秋は毛利勢が動かないのを見て、毛利輝元が来ないことを確信し、勝ちそうな東軍に寝返ることを決めたと考えられる。

小早川軍1万5,000が東軍に寝返ったことで西軍は壊滅状態になり、たった1日で関ヶ原の戦いは終わってしまったのである。

おわりに

このように関ヶ原の戦いは、情報戦により勝敗が決したと言っても過言ではない。
本戦の前日の夜まで情報戦は続いていた。

勝ち馬に乗りたい大名たちは、本戦が始まってもギリギリまで様子を伺っていたのだ。

戦後、毛利輝元は四国や九州の兵を撤退させたが、総大将として西軍を指揮していた咎で、山陽・山陰8ヶ国から周防・長門2ヶ国の29万8千石へと減封され、隠居となった。

周防、長門の2ヶ国は、吉川広家に与えられるはずであったが、領地を毛利宗家に譲る形となり毛利家は存続したのであった。

関連記事 : 関ヶ原の戦いは史上最大の情報戦だった 〜前編 「西軍についた毛利輝元は実はやる気満々だった?」

 

rapports

投稿者の記事一覧

草の実堂で最も古参のフリーライター。
日本史(主に戦国時代、江戸時代)専門。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 岡崎体育が全力疾走!鳥居強右衛門こと鳥居勝商の壮絶な最期【どうす…
  2. 亀姫(演 當真あみ) は史実ではどんな女性だったのか? 【母・…
  3. 石川数正(松重豊)まさかの裏切り! その理由と対策がこちら 【ど…
  4. 時代劇の作り方について調べてみた 〜「どうする家康」はどうやって…
  5. 【大坂夏の陣】14歳が二度あるか! 初陣で男泣きした徳川頼宣(家…
  6. 徳川家康に保護され、生き永らえる今川氏真。その子供たちを一挙に紹…
  7. いざ江戸城へ!家康のお国替え『徳川実紀』を読んでみよう【どうする…
  8. 今川氏真の子孫は、徳川の旗本として存続していた 【どうする家康】…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

謎の絵師・東洲斎写楽の正体?斎藤十郎兵衛とは何者か【大河ドラマべらぼう】

謎の絵師として、ほんの一年足らずで浮世絵界に衝撃を与えた東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)。…

チャップリンはロリコンだった 【喜劇王の4人の美人妻】

チャールズ・チャップリン は、世界的に有名な、俳優、コメディアンであり、監督、脚本家さらに作曲家とし…

毛利敬親【多くの維新の人材を見出した そうせい候】

「そうせい候」毛利敬親(もうりたかちか)は、長州藩の第13代の藩主を務め、激動の幕末期におい…

戦国武将たちは戦のない平時(1日)をどのように過ごしていたのか?

戦国武将といえば戦ばかりしていたイメージがある。しかし平時には、大名は領地の内政や外…

日本三大奇襲の一つ『河越城の戦い』とは 【天才・北条氏康の夜襲】

「日本三大○○」という言葉はよく耳にするが、戦国時代が好きな人にとっての「三大○○」とは何だろう…

アーカイブ

人気記事(日間)

人気記事(週間)

人気記事(月間)

人気記事(全期間)

PAGE TOP