どうする家康

本能寺の変の黒幕は誰? 「朝廷、足利義昭、秀吉、家康~様々な説」

本能寺の変の実行者が明智光秀であることは、様々な史料からも間違いのない事実であろう。

しかし、現在でも本能寺の変には黒幕がいたのではないかと多くの説がある。

信長を討った下剋上の真の首謀者は誰なのか? 今回は本能寺の変の黒幕説についていくつか掘り下げていきたい。

様々な黒幕説

本能寺の変の黒幕は誰?
[画像.織田信長]

黒幕説については、次のような説が主流となっている。

①朝廷関与説
②足利義昭説
③羽柴秀吉説
④徳川家康説
⑤長宗我部元親説
⑥本願寺説
⑦高野山説
⑧堺商人説
⑨イエズス会説

現状でいえば、いずれも決定打といえる史料的な根拠がないので、未だに定説はない。いずれも状況証拠に基づき、それぞれの論が展開されているのが実情だ。

その中で冒頭の朝廷説足利義昭説は有力な説として認知されてきたが、近年における本能寺の変の研究の進歩によって、その地位は揺らぎつつある。例えば朝廷説については織田信長の対朝廷政策に関する評価が大きく変化したので、否定的な見解が強くなった。

他の説については状況証拠となりうる史料的な根拠が薄弱で、なかには拡大解釈や我田引水的な解釈によって成り立っているものも少なくない。

⑨のイエズス会説もかつては一世を風靡した説であるが、あまりに荒唐無稽だとして現在では否定されている。

したがって、それぞれの黒幕説については、史料を丹念に読み解き、慎重に検討する必要があろう。

朝廷と足利義昭説

本能寺の変の黒幕は誰?
【※足利義昭坐像】

では、もう少し具体的に検証してみることにしよう。ここでは代表的な朝廷説と足利義昭説について解説する。

①の朝廷関与説は、これまで信長による皇位纂奪とセットになって考えられてきた。つまり信長は朝廷を圧迫し続け、その最終目標は自身が天皇になろうとしたということだ。信長が正親町天皇に子息への譲位を迫ったという話が根拠の一つとなっていた。

しかし当時の慣例では天皇は早々に上皇となるのが自然であり、逆に正親町天皇本人が譲位を求めて信長がこれに反対していたという説もある。他の天皇を圧迫したという事例も解釈が誤っており、朝廷関与説は成り立たないとされている。

②の室町幕府最後の将軍・足利義昭関与説は、光秀と義昭があらかじめ綿密に連絡を取って本能寺の変を起したという説である。共に信長に対して深い恨みを持っていたので、手を取り合ったということになろう。

この説の根拠は、本能寺の変から10日後の6月12日に光秀が雑賀衆の土橋重治に送った書状であり、この書状では「光秀より身分の高い人物の入洛」について話し合われているという。

他には足利義昭が6月13日に毛利輝元小早川隆景に入洛を促す書状を送っていることも根拠とされている。

画像 : 細川藤孝(細川幽斎像) public domain

しかし本能寺の変後、光秀が味方を増やすためにおそらく真っ先に送ったであろう、細川藤孝忠興親子に送った書状には足利義昭のことが一切触れられていないのである。細川藤孝と光秀はかつては共に足利家に仕えた旧知の仲であり婚姻関係も結んでいる。細川藤孝は文武両道の優れた人物で、もしこの時、光秀の味方になっていれば歴史の流れは大きく変わっていたかもしれない。

しかし細川藤孝は光秀からの再三の要請を断り、剃髪して幽斎玄旨と号して隠居してしまった。

光秀は細川藤孝をなんとか味方にしようと説得に必死だったはずである。
もし本能寺の変が義昭からの命令ならば、これ以上ない大義名分であり、光秀が義昭のことを説得材料として引き合いに出さないのは不自然すぎるのである。

加えて義昭のもとにも、本能寺の変を報告する密書が届けられた形跡がなく、当時の光秀関連の書状も見つかっていない。

毛利氏と義昭に関しても、もし義昭が黒幕であるならば当然毛利氏も光秀の襲撃を知っていたはずであり、そうなると秀吉が毛利軍と停戦して中国大返しを成功させたことにも大きな矛盾が生じる。

もし毛利氏が事前に本能寺の変を知っていれば、間違いなく秀吉軍を追撃したはずである。あえて停戦し秀吉軍を退却させた後に追撃すれば、光秀軍と挟み撃ちにできる。一気に織田軍の主力を殲滅できる大チャンスだったのである。

そもそも当時の義昭は毛利氏の庇護下にあり、毛利氏に秘密裏のまま光秀と結ぶ必要性もない。

そういった理由で、足利義昭説も成り立たないとされている。

長宗我部元親と四国政策

本能寺の変の黒幕は誰?
【※長宗我部元親】

むしろ重要なのは、信長による四国政策の転換だ。

当初、信長は土佐の長宗我部元親に対して「四国の切り取り自由」を承認していた。そして光秀は配下の斎藤利三の妹を元親の妻として送り込み、同時に取り次ぎの役を担っていた。

ところが1581年(天正9年)信長は四国政策を転換し、元親の「四国切り取り自由」を撤回したうえに、光秀の取り次ぎ役も解任した。

これにより光秀は、将来に大きな不安を抱いたと考えられる。この説は比較的良質な史料に恵まれているうえ、近年、関連資料である「石谷家文書(いしがいけもんじょ)」が発見されたこともあり、さらに進展が期待される。

光秀の謀反については、ことさら黒幕を強調する必要がないのかもしれない。

光秀が謀反を起こす以前、すでに多くの大名たちが信長に反旗を翻していた点も非常に重要である。

信長に勝てると思う者は多くいた

本能寺の変の黒幕は誰?
【※錦絵 本能寺焼討之図】

かつて波多野秀治、荒木村重、別所長治らは命をかけて信長に戦いを挑んだが、結局は失敗した。

3人は毛利氏、足利氏、本願寺と結託して反旗を翻したのだが、勝利の芽はあると信じていたはずだ。

つまり現代から見れば信長が圧倒的に強いという印象があるが、当時の人々は必ずしもそう思っていなかったと考えられる。

本能寺の変が勃発する以前も、信長と敵対勢力との戦争は各地に広がっており、信長に勝てると思って歯向う大名は多数存在していたのである。

光秀が何らかの理由で信長に不満を抱いていたのは間違いないだろう。そこに偶然、信長がわずかな従者を伴い、本能寺に宿泊することを光秀は知った。

その後の光秀の行動が迷走しているところを見ると、特に計画性がなかったと考えられる。

本能寺の変には黒幕説は数多くあるが、やはり光秀自身が起こしたと考えるのが自然と言えそうだ。

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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