昔から「腹が減っては戦ができぬ」と言いますが、戦に限らず何をするにも、腹が減っていると力も気合いも入りません。
平時ですらそうですから、有事ともなればなおのこと。
心身が辛い時、よく食欲をなくしてしまう方もいますが、ここ一番で状況を立て直すためには、何はともあれ食って力を取り戻すのが先決です。
今回は戦国乱世を生き延びて、ついには天下人となった徳川家康の三大窮地と言われる「神君伊賀越え」でのエピソードを紹介。
食欲こそは生への執念、果たして彼は何を貪り食ったのでしょうか。
殉死(後追い自殺)を図る家康
時は天正10年(1582年)6月3日。家康たちは堺の地を外遊中でした。
「徳川様、一大事にございまする!」
血相を変えて駆けつけたのは、懇意にしている商人の茶屋四郎次郎(ちゃや しろうじろう)。一体何事でしょうか。
「昨日、京都本能寺にて、織田様が謀叛により自刃なされた由!」
昨6月2日、家康の盟主であった織田信長が、重臣の明智光秀に攻められ、横死を遂げたというのです(本能寺の変)。
今すぐにも仇を討ちたい家康でしたが、いかんせん手元には数十名の家来しかおりません。
「これでは明智を討つどころか、生きて三河へ帰ることすら覚束ぬ。土地勘のない他国をさまよった挙句、落ち武者狩りに殺されるくらいなら、今すぐ上洛して腹を切ろう」
一度はそう決めた家康。しかし家臣の本多忠勝に諌められます。
「何を弱気な。ただ腹を切ったところで、それで織田様が喜ばれましょうか。ここは何としても生き延びて三河に帰り、兵を集めて明智を討ち果たしてこそ、織田様への御恩に報いられましょう」
忠勝の言葉に感じ入った家康は計画を変更、一路三河を目指すことにしました。
これが後世に伝わる「神君伊賀越え」。険しい山々が連なる道中には、賞金首を狙う落ち武者狩りがウジャウジャ。
まさに四面楚歌の状況下を、わずかな家来たちと共に切り抜けねばなりませんでした。
献立その一・赤飯
「……これはこれは徳川様、ようおいでなすった」
ボロボロになった家康ご一行を出迎えたのは、多羅尾光俊(たらお みつとし)。信長の家臣として、この辺りを治めていました。
「道中、まこと難儀されましたな。お腹も空いてございましょう。ただいま食事をご用意いたします」
……このとき赤飯を供せしに。君臣とも誠に飢にせまりし折なれば。箸をも待ず手づからめし上られしとぞ……
※『東照宮御実紀附録巻四』「天正十年家康伊賀路之危難」
【意訳】多羅尾光俊が赤飯を献上した。飢餓に苦しんでいた家康と家臣たちは、箸(はし)が来るのも待ちきれず、みんな手づかみで貪り食ったのであった。
それはもう、腹が減っていたのでしょうね。気持ちはとてもよく解ります。
しかし極端な飢餓状態からいきなり食い物を詰め込むと、死んでしまうこともあるため注意が必要です。
まぁ『徳川実紀』にそのような記述はないため、みんな無事だったのでしょう。
これでひとまず落ち着いた家康たちは、逃避行を再開したのでした。
献立その二・雑穀飯
さて、何やかんやで伊賀越えを果たした家康たちは、白子の浜より船で脱出。
ここまで来れば、とりあえずは一安心です(時化や海賊の襲撃などがないとは言いきれませんが)。
「あぁ、草臥れた。安堵したら、なんだか腹が減ってきた。おい船頭よ、何か食うものはないか」
そう言われたら、出さない訳にも行きません。船頭は自分の食事に用意していた雑穀飯を献上しました。
……船中にて飯はなきかと尋給へば。船子己が食料に備置し粟黍米の三しなを一つにかしぎし飯を。つねに用ゆる椀に盛て献る……
※『東照宮御実紀附録巻四』「天正十年家康伊賀路之危難」
【意訳】家康が「飯はないか」と尋ねたので、船頭はアワとキビと米を混ぜて炊いた雑穀飯を、自分の椀に持って渡した。
船頭さんが日ごろ使うような食器ですから、それはまぁ粗末なものです。
この表現に家康の苦労が強調されるところでしょうが、食事をとられた船頭の方に同情してしまいますね。
献立その三・蜷の塩辛
船頭の雑穀飯を食って落ち着いた家康ですが、もうちょっと何か食べたくなったのでしょう。
「おい、菜(おかず)は何かないか?」
まだ要求してくるのか……しかし嫌とも言えない船頭は、内心渋々?蜷(にな。巻貝)の塩辛を献上したのでした。
……菜はなきかと尋給へば。蜷の塩辛を進む。風味よしとて三聞しめす……
※『東照宮御実紀附録巻四』「天正十年家康伊賀路之危難」
「おぉ、これはよい風味じゃ」
家康はこの塩辛を気に入ったようで、ちょっとつまむつもりが三つも平らげてしまいました。
塩っぱくはないのだろうか、そして船頭への遠慮はないのか……こうなったら、後でうんとご褒美にあずかるほかありません。
船頭はきっと、そんなことを考えたのではないでしょうか。
終わりに
……かくて御船大濱に着ければ。長田平左衛門重元をのが家にむかへ奉り。こゝに一宿したまひ明る日岡崎へ御帰城ましましける。抑この度君臣共に思はざる大厄にあひ数日の艱苦をかさね。からうじて十死をいでゝ一生を得させ給ひしは。さりとは天幸のおはします事よと。御家人ばら待迎へ奉りて悲喜の泪を催せしとぞ……
※『東照宮御実紀附録巻四』「天正十年家康伊賀路之危難」
そうこうしている内に船は三河国大浜に到着。家臣の長田重元(おさだ しげもと。平左衛門)に出迎えられてその日は一泊。
明くる日に岡崎城へ生還し、家臣たちは感激の涙に濡れました。
「こたびの大厄に数日間の辛苦を重ね、十死に一生を得られたことは、まこと天の思し召しにございましょう!」
さぁそれでは明智を討とうと思ったら、時すでに遅く、羽柴秀吉(はしば ひでよし)に先を越されてしまったのです。
しかしどんな逆境も乗り越えてきた我らが神の君。
天下人となるまではまだまだ長い道のりですが、たくさん食って英気を養うのでした。
織田がつき 羽柴がこねし 天下餅
座りしままに 食うが徳川
……お後がよろしいようで。
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
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