時は天正12年(1584年)3月、羽柴秀吉(はしば ひでよし)による織田政権簒奪に立ち向かった徳川家康(とくがわ いえやす)。
世に言う小牧・長久手の戦いは半年以上にわたって繰り広げられましたが、勝負の行方は一向に見えませんでした。
このままでは埒が明きません。何としてでも家康を臣従させたい秀吉は、ひとまず戦を終結させるべく、家康が担ぎ上げている織田信雄(おだ のぶかつ)に調略を仕掛けることにしたのです。
目次
言い出しっぺの織田信雄を懐柔し、戦いの大義名分を失わせる
……この後秀吉さまざまと手だてをかへて戦つれども。事ゆくべくも見えざれば。心中また謀を考へ出し。信雄をすかしこしらへて和議をぞ結びたりける。かゝりしかば 君も浜松へかへられ給ひ。やがて石川数正を御使にて信雄へも秀吉へも和平を賀せられける。……
※『東照宮御実紀』巻三 天正十二年「秀吉養秀康」
「織田殿が?」
「はい。羽柴めに懐柔されてしまったそうで……」
聞けば秀吉は信雄と和議を結んでしまったとのこと。元はと言えば信雄が家康に泣きついたことが戦の原因。にもかかわらず、その言い出しっぺが先に和議を結んでしまっては、家康には戦う理由がありません。
「……まったく、これでは梯子を外されてしまったようなものだ。バカバカしい。浜松へ帰るぞ」
早々に兵を退いた家康。しかし戦が終わったことはひとまずめでたいので、石川数正(いしかわ かずまさ)に命じて信雄・秀吉の双方にお祝いの使者へ発たせたのでした。
家康の次男・於義丸を養子に迎える
……秀吉今は従三位の大納言にのぼり。武威ますます肩をならぶる者なし。浜松へ使を進らせて。信雄既に和平に及ぶうへは。秀吉 徳川殿に於てもとより怨をさしはさむ事なし。速に和平して永く好みを結ぶべければ。 君にも御上洛あらまほしき旨申入しかど。聞召入られたる御かへり言もなかりしかば。秀吉深く心をなやまし。又信雄につきて申こされしは。秀吉よはひはや知命にいたるといへども。いまだ家ゆづるべきおのこ子も候はず。あはれ 徳川殿御曹司のうち一人を申受て子となし一家の好をむすばゞ。天下の大慶此上あるべからずとこふ。 君も天下のためとあらんにはいかでいなむべきとて。於義丸と聞え給ひし二郎君をぞつかはさる。秀吉卿なのめならずよろこびかしづき。やがて首服加へて三河守秀康となのらしむ。……
※『東照宮御実紀』巻三 天正十二年「秀吉養秀康」
「やれやれ。あの猿めのこと、このまま引き下がったままではおるまい……」
そう懸念する家康の元へ、近ごろ従三位・大納言となった秀吉から使者がやってきます。
「先刻、織田殿と和平に及んだが、徳川殿に対しても元から怨みはない。速やかに和平したいのだが、仲直りのためご上洛いただけまいか……」
などと言われてホイホイ上洛する家康ではありません。そこで秀吉は次のように申し出ました。
「わしはもう知命(ちめい。50歳)にもなるのに、家督を譲る男児がおらぬ。そこで徳川殿の御曹司を養子に頂き、両家が一家のごとくよしみを結べば、天下の喜びこの上もなかろう……」
これを聞いた家康、そういう事なら喜んで、と次男の於義丸(おぎまる)を秀吉の養子に出したのです。この子は以前、側室の於古茶(おこちゃ。お万の方)に産ませたものの、永く不遇をかこっていたのでした。
そもそも於義丸という名前がナマズ(ギギ)からとっており、あまり可愛がっていなかったことがよく分かります。
「実質的には人質なのだから、この子でよかろう」
ともあれ秀吉は於義丸を大歓迎して元服させ、羽柴三河守秀康(みかわのかみ ひでやす)と改名させたのでした。
上洛を求めるも、鷹狩りをしながら使者をあしらう家康
……其頃秀吉卿は正二位内大臣にのぼり。あまつさへ関白の宣下あり。天兒屋根の尊の御末ならでこの職にのぼらるゝ古今ためしなき事とて。人みなめざましきまで思ひあざみたり。関白いよいよ和平の事を申進らせらるゝといへども。いまだ打とけたる御いらへもましまさねば。十三年の冬重ねて浜松へ使まいらす。 君この頃泊狩にわたらせ給ひければ。関白の使御狩場へ参り対面し奉る。 君鷹を臂にし犬をひき給ひながら。我織田殿おはせし時既に上洛し。名所舊蹟ことごとく見たりしかば。今さら都恋しき事もなし。又於義丸の事は北畠殿天下のためとてとり申されしゆへ。秀吉の子にまいらせたり。今は我が子にあらざれば対面せまほしとも思はず。秀吉我上洛せざるを憤り大軍をもて攻下らむ時は。我も美濃路のあたりに出むかへ。この鷹一据にて蹴ちらさんに更に難からずと仰ながら。又鳥立もとめて立出たまふ。……
※『東照宮御実紀』巻三 天正十二年「秀吉促家康上洛」
さて、秀吉はその後も正二位・内大臣に昇進し、とうとう関白となりました。これまで天児屋根命(あめのこやねのみこと)の末裔すなわち藤原氏にのみ許されたこの位に上り詰めたことは、天下の耳目を驚かせます。
しかしそれでも家康はあくまで和平を受け入れておらず、秀吉は又も使者を発しました。
「そろそろ意地を張るのをやめて、ちょっと上洛しませんか?京都には珍しいものもたくさんあるし、何よりご子息の様子も気になりませんか?」
しかし家康は使者を出迎えるどころか、鷹狩りをしながら答えたと言います。
「京都見物なら織田殿(信長)ご存命の折に堪能しましたし、於義丸はもう羽柴殿へ差し上げた他所の子です。お気に召さぬなら美濃の辺りで『お出迎え』いたしましょうぞ」
言うなり家康は、また鷹を追って行ってしまったのでした。まったく取り付く島もありませんね。
秀吉の妹・朝日姫を家康の正室に嫁がせる
……かの使かへりて斯と申せば。関白重て信雄とはかられ。 君の北方先に御事ありし後。いまだまことの臺にそなはらせ給ふ方も聞えず。秀吉が妹を進らせばやと懇に申こはる。浅野彌兵衛長政などよくこしらへて。終には御縁結ばるべきに定まりしかば。浜松より納采の御使に本多忠勝をつかはさる。これも関白のあながちに忠勝が名をさしてよびのぼせられしなり。四月十日かの妹君聚楽のたちを首途し給ひ。おなじ廿一日浜松へつかせたまふ。先榊原康政がもとにて御衣裳をとゝのへられて後入輿し給ふ。御輿渡は浅野長政。御奥請取は酒井河内守重忠にて。其夜の式はいふもさらなり。廿二日御ところあらはしなど。なべて関白より沙汰し給ふをもて。萬に美麗をつくされしさまいはむかたなし。これ後に南明院殿と申せしは此御事なり。……
※『東照宮御実紀』巻三 天正十三年「家康娶秀吉妹」
「まったく、あの狸親父め……」
つれない態度に頭を悩ませる秀吉。今度は妹の朝日(あさひ。旭姫)を家康の正室(継室)に嫁がせようと縁談を持ちかけました。
家康には以前、築山殿(つきやまどの)と呼ばれた正室がいたものの、天正7年(1579年)に処刑。以来家康には正室がいなかったのです。
さすがの家康もこれを断り切れず、浅野長政(あさの ながまさ)らが仲立ちとなって何やかんやと縁談がまとまったのでした。
仕方がないので家康は納采(結納)の使者として本多忠勝(ほんだ ただかつ)を派遣します。これは前の小牧・長久手合戦で特に目覚ましい武勇を見せて以来、秀吉が大層気に入ったためです。
かくして天正13年(1585年)4月10日に朝日姫らは京都を出発。4月21日に浜松へ到着しました。
衣裳は榊原康政(さかきばら やすまさ)が調え、出迎えは酒井重忠(さかい しげただ)が担当。何から何まで贅を尽くした婚儀の様子は、まさに天下人の威信をかけたものだったようです。
しかし、そこまでしてもやはり家康がなびくことはありませんでした。
ついには母親まで人質に差し出して……
……此後は関白彌 君の御上洛をひたすらすゝめ申されしが。遂にこしらへわびて母大政所を岡崎まで下し進らすべきに定まりぬ。 君は宗徒の御家人をあつめられ。関白其母を人質にして招かるゝに。今はさのみいなまんもあまりに心なきに似たり。汝等思ふ所はいかにと問せ給ふ。酒井忠次等の宿老共は。秀吉心中未だはかりがたし。かの人御上洛なきを憤り大軍にて攻下る共。京家の手際は姉川長湫にて見すかしたればさのみ恐るゝに足らず。御上洛の事はあながちに思召とまらせ給へと諫め奉る。(さきに眞田安房守昌幸がそむきしを誅せられんとて御勢をむけられし時。眞田は秀吉に内々降参せし事ゆへ。秀吉越後の上杉景勝をして眞田を援けて御勢を拒がせ。又 当家の舊臣石川数正は十万石を餌として味方に引付たり。されば上杉と謀をあはせ新降の眞田小笠原を先手とし。数正降参の上は 徳川家の軍法は皆しるべければ。是を軍師とし三遠に攻下らんとの計略ありと世上専ら風説すれば。普第の御家人等は秀吉をうたがひしもことはりなり。)
君聞召。汝等諫る所尤以て神妙といふべし。然りといへども本朝四海の乱既に百餘年に及べり。天下の人民一日も安き心なし。然るに今世漸くしづかならんとするに及び。我又秀吉と平盾に及ばゝ。東西又軍起て人民多く亡び失はれん事尤いたましき事ならずや。然れば今罪なくて失はれん天下の人民のため我一命を殞さんは。何ぼうゆゝしき事ならずやと仰せらるれば。忠次等の老臣等。さほとまで思召定められたらんにハ。臣等また何をか申上べきとて退きぬ。是終に天下の父母とならせ給ふべき御徳は。天下万民のために重き御身をかへ給はむとの御一言にあらはれたりと。天下後世に於て尤感仰し奉る事になん。既に御上洛あるべしと御いらへましましければ。関白よろこばるゝ事斜ならず。……※『東照宮御実紀』巻三 天正十三年「秀吉質母于岡崎」
「もうこうなったら、母上を『見舞い』に出すよりあるまい!」
秀吉はあくまで上洛を拒否する家康を何としてでも動かそうと、母の仲(なか。大政所)を朝日の元へ「見舞い」に出させました。実質的な人質です。
ここまですれば、家康に手を出すことはないと信じてもらえるのではないでしょうか。どうしたものか、家康は家臣たちを集め相談しました。
「これまで何度も戦ってきましたが、上方の連中は恐れるに足りません。殿に何かあってからでは手遅れですから、ご上洛はおやめなされませ」
先年には真田昌幸(さなだ まさゆき)をけしかけて謀叛を起こさせたり、また石川数正を寝返らせて徳川家の軍事機密を引き抜いたりなど、実に油断ならない状況が続いていたのです。
家臣たちが秀吉を疑いに疑い倒すのも道理ですが、家康は意を決して言いました。
「そなたたちの諫めるところ、もっともである。しかしながら天下は乱れてすでに百年が経とうとしており、民は一日として心安らぐ時がなかった。今ようやく天下が収まりつつある中、再び事を起こせば罪なき命が多く失われることになろう。たとえ我が一命を落とそうと、それで民の命が救われるなら、何を惜しむことがあろうか」
家康の決意を知った家臣たちは、これ以上言う事はないと引き下がります。
こうしてついに家康の上洛が決まり、秀吉は大層喜んだのでした。
終わりに
養子を迎えることはできたけど、上洛は断られる。
妹を嫁がせることはできたけど、上洛は断られる。
そして母親まで人質に差し出して、ようやく家康の上洛にこぎつけた秀吉。まるで三顧の礼みたいですね。
一応は秀吉への臣従を誓った家康ですが、忍従の末に天下を奪い取ろうとは、この時誰が思っていたでしょうか。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」ではこの流れがどのように描かれるのか、今から注目ですね!
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
徳川家康が善人のように描かれているけれど。
本当なのかな。
狡猾虐殺の織田信長に追随している時点で、見えていない性質があったのでは。
天下を取った戦勝側の徳川は、戦記も手記も何とでも有利に言え、書ける、そして都合の悪い史実は燃やせたのだから。
徳川家康側の史実研究者は、家康は誰にも追従せず、武田信玄や勝頼からの同盟打診を拒否したのは信用できなかったからなどと言うが。
家康こそ落ち目の今川を裏切り織田信長へ接近し、織田信長に追従し今川、朝倉攻め、信長に東方を任され遠江への侵攻を進めたり、信長による三河焼き討ちや皆殺しや焼き討ちには何も言わず、浅井長政の件で信長が家康を見捨て逃げた時、そんな信用できない信長に対して家康は「敵に忍耐」で同盟破棄すらしなかった。おかしいんじゃない?
家康は、織田だけでなく、根回しや被害者になりきる狡猾な説得力を持ち同盟を破らせるように誇張したり敵の悪口吹聴のやり方を持っていたのでは。
家康が秀吉の悪口の立て札を立てまくり、朝廷の弱みを握り権力を持ち、豊臣家や朝廷、大名らの規制と懐柔したのと同じようなやり方で。
信長が信玄の目を駿河に向けさせ密かに足利義昭を奉じ上洛したり、今川領を分割すべく信玄と家康の密約斡旋せた後に武田軍の秋山が領地を踏んだとか踏まないとかで家康が難癖を付けたのも、結局すべて家康と織田による作戦、策謀だったのでは。
信長はチャンスとばかりに度重なる賄賂を送り懐柔しかけていた正親町天皇へ信玄を朝敵とするよう働きかけて(源家の参拝し信仰する)岩清水八幡などで呪いをかけさせ、朝廷後ろ盾どころか天皇の権利へ狙いを定めていたようだが、最初から家康の入れ知恵では?
巧みな策謀で織田/徳川は共に武田を失脚させるよう北条家や武田家臣を背かせるように動いており、その成果により家康は武田家臣を離反謀反させるリクルートを展開しながら四方から攻め込み武田家皆殺しに参加。
信長なんぞ家康の被害者話術にかかるとコロッと騙されたり激昂するような性質で、家康はそれを分かっていたのかもしれない。
しかも家康はその後々、武田信玄そっくりの立ち振る舞い、武田の治水技術、貨幣技術、戦闘技術、法度、武田家臣ら、武田家訓までもを集めほぼ全てをパクっているのだが。
結局のところ秀吉と信長、信長と家康、狡猾腹黒さも「類は友を呼ぶ」だったのでは。