内藤正成とは
内藤正成(ないとうまさなり)とは、「弓矢の腕では並ぶ者なし」と言われ、「徳川十六神将」の1人として数えられた武勇に優れた武将である。
元来内藤家は弓の名手を輩出する家柄であったが、正成の弓矢の器量は特に傑出しており「軍神四郎左衛門」と敵軍から畏怖された。
2回に渡った小豆坂の戦いにおいて、正成は若干16歳で織田軍200人以上を死傷させたと伝わっており、戦国一の弓の名手と言っても過言ではない。
今回は、あの猛将・本多忠勝を「かす」呼ばわりしたとも伝わる、内藤正成の生涯について掘り下げていきたい。
出自
内藤正成は、享禄元年(1528年)徳川家康の祖父・松平清康とその子・広忠に仕えた内藤義清の弟・内藤忠郷の次男として生まれた。
幼名は「四郎左衛門」、初めは叔父・内藤義清に仕えたが、家康の父・松平広忠に弓矢の力を買われ、広忠の死後は家康の近侍として仕えた。
前述したように内藤家は弓矢の名手を輩出する家柄で、特に正成はその才に恵まれ、15歳の時には尾張の織田信秀の侵入を矢で退かせたほどの弓矢の名手であった。
2回に渡った小豆坂の戦いでは、わずか16歳の正成が織田軍に矢継ぎ早に弓矢で攻撃し、何と200人以上を死傷させ戦局を左右させたほどの武功を挙げている。
正成の弓矢に関する逸話は多い。
永禄6年(1563年)の牛窪合戦では
「正成が最後尾(殿)を務め、進んでくる敵を射た。その矢が鞍の前輪から後ろまで抜けたので、敵兵は恐れをなして進むことができずに退いた」
という逸話がある。
高天神城攻めにおいては
正成が射った1本の矢は、武田軍の敵兵2人を射抜いて殺した。武田軍は「並大抵の射手ではない」と、その射抜いた矢をわざわざ徳川軍に送り返し、武田軍がその剛弓を褒め称えた。
と言い伝えられている。
舅を弓矢で
家康の三大危機の一つとされる「三河一向一揆」では、主君・家康と一向宗を信仰する家臣で、徳川家が二つに割れた。
正成は、一揆前に家康の家臣・石川十郎左衛門の娘を娶っていたが、舅の石川十郎左衛門は一向宗側についた。正成は主君・家康側へついたために、義父(舅)が敵となってしまった。
「例え舅と争うことになっても致し方ない」と思っていた正成であったが、何とそれが現実となってしまう。
舅の石川十郎左衛門が、主君・家康を討ち取ろうとしていたのだ。
正成は瞬時に「主君」か「舅」を選ぶしかなかった。
義父・石川十郎左衛門は、娘婿の正成が真正面で弓矢を構えるのを見たという。その時、正成の額には大粒の汗が浮かび上り、一筋流れたところで「主君の大事、舅上御免!」と叫んで弓矢が放たれた。
その矢は舅(十郎左衛門)の両膝を射抜き、その傷によって舅は命を落とした。
いくら主君のためとはいえ、誰もが行える事ではない。
重臣・石川数正は、家康に対して「決して(あの者の行いを)忘れませんように」と強く言ったという。
本多忠勝を「かす」呼ばわり
家康を支えた忠臣として「徳川十六神将」は有名である。中でも徳川四天王の酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政は別格だった。
本多忠勝は、生涯57の戦で傷一負わなかったとして「戦国最強の武将」との呼び声も高い。
そんな忠勝をタジタジにし、何と「かす」呼ばわりした男が正成だという。
正成の忠義心が引き起こした逸話を紹介する。
天正3年(1575年)6月、家康は遠江国の二俣城を攻めた。
正成も本来は家康と共に出陣する予定だったが、直前に足を怪我してしまい、家康から浜松城の守りを任せられた。
従軍できない分、正成は余計に気合いを入れて浜松城を死守しようとした。
出陣した徳川軍だったが、途中で風雨が激しくなり先に進むことが困難となり、夜中に急遽浜松城に引き返すことになった。
そして風雨の中を行軍し、ようやく浜松城にたどり着いた。
家康と共に出陣していた本多忠勝は、「一刻も早く城門を開けるように」と家臣を走らせた。
しかし、一向に城門は開かなかった。
それは城門の内側で正成が鬼の形相で仁王立ちし、城門の鍵を開けようとしなかったからである。
「夜中に戻ってくるのは絶対に怪しい。これは我々を騙して城門を開けさせる敵の策略だ」
と正成は思ったのである。
忠勝は風雨の中、主君・家康を城門の前で待たせる訳にもいかず、仕方なく自ら城門に行き、「殿が帰ってきたから城門を開けろ!」と激しく門を叩きながら催促したが、一向に門は開けてはもらえなかった。
そして正成は、何と櫓に上り
「この暗夜に誰が殿のお帰りなどと偽っているのか!そこの『かす』を撃ち殺せ!」
と火縄銃を構えたのである。
さすがの忠勝も、どうすることもできなかったという。
やむを得ず、主君・家康の出番となった。
家康は風雨の中、直々に城門まで行って正成を説得しはじめた。
家康は「四郎左よ、私が帰ってきたぞ」と、本人であることをアピールした。
正成は、確かに家康の声だと思ったが尚も不審に思い、隙間から提灯を出して、その尊顔を照らして確認した。
そして主君・家康だと分かると、急いで城門を開けたという。
家康本人の声でも信用しない正成の用心深さに忠勝は苦笑いしたが、家康は大満足して「お前のような者に城を守らせれば大変安心だ」と正成を褒めたという。
晩年の内藤正成
織田信長や豊臣秀吉からも、その剛弓で一目置かれていた正成だったが、実は禄高が少なく700石だった。
家康が関東に移封になると、正成は武蔵国埼玉郡栢間村などに5,000石を与えられ、栢間村に1万坪を超える陣屋を構えた。
嫡男を戦で亡くした正成は、天下分け目の関ヶ原の戦いには従軍しなかった。
それは「我が殿が負けるはずがない」と思っていたからだという。
主君・家康が天下人になったのを見届けた慶長7年(1602年)、正成は病に倒れた。
正成を心配して、家康の嫡男・秀忠が医師の久志本左京亮常衝を差し向けたが、治療の甲斐なく同年4月12日、正成は亡くなった。
享年75であった。
正成は、長年弓矢で家康(徳川家)を支え続けたが、その後、孫が不祥事を起こし、内藤家は寛永8年(1631年)に改易となった。
しかし幕府は、正成の別の孫・内藤正重に5,000石を与え、大身旗本として内藤家は幕末まで続いたという。
こんなすごい武将がいや家康が天下人になったのは当たり前。、やっぱり秀吉と決着をして欲しかった。