どうする家康

【戦国一の正直者】 仏の高力清長とは ~秀吉も欲しがった三河三奉行 「能力値が高いマイナー武将」

高力清長とは

高力清長(こうりききよなが)とは、徳川家康とその父・松平広忠に仕えた譜代家臣である。
家康が今川家の人質だった頃から支え、三河三奉行に任命された。

家康からの信頼は厚く、数々の戦に参戦して徳川家を支えた忠臣であった。

その性格の良さから「」と称されるほどの人物である。

今回は、そんな高力清長の逸話について解説する。

出自

仏の高力清長とは

画像 : 高力氏(桓武平氏貞盛系熊谷氏流)の家紋「対い鳩」 wiki c Greenland4

高力清長は、家康の祖父・松平清康に仕えた高力安長の長男として、享禄3年(1530年)に三河国に生まれた。

しかし、尾張の織田信秀が三河に侵攻した際に祖父と父を同時に亡くし、叔父の高力重正に養育されて家康の父・松平広忠に仕えた。

家康が今川家の人質になると、12歳年上の清長は家康と共に今川家に行った。
桶狭間の戦い
後は家康に同行して、織田家との同盟締結に尽力したという。

三河一向一揆で活躍したために、家康から三河三奉行の1人として抜擢され、「仏の高力清長、鬼の作左こと本多重次、どへんなき(公平)天野康景(三郎兵衛)」と呼ばれた。

仏の高力清長

「仏」という異名がついたのは、清長が大変慈悲深く、寛容、寛大な人物だったからである。

また、三河一向一揆での清長のある行動から、「仏」という異名がついたともいわれている。

仏の高力清長とは

画像:「大樹寺御難戦之図 三河後風土記之内」幕末~明治の浮世絵師 月岡芳年作

清長は三河一向一揆において、岡崎城の南・額田郡高力の守備を任され、土呂の一揆軍を平定した。

当然、戦場となった場所は荒廃したが、清長はそんな状態を見かねて散乱していた経典などを拾い集め、それを持ち主に返したという。
しかも、仏像や経典などの保護に努め、破却された寺社を元の姿に戻したのだ。

この行為が評判となり「仏の高力清長」と呼ばれるようになったという。

清長のモットーは「どんな時でも神仏を敬い、心を磨くことを怠けてはならぬ。それが真の武士というものだ。」というものであった。
それを実際に行動で示したことから、三河の民は大いに尊敬したという。

また、小牧・長久手の戦いにおいて、秀吉と和睦交渉をしたのは清長であったという。

秀吉に目をつけられる

仏の高力清長とは

画像 : 豊臣秀吉 public domain

人たらしの秀吉はさっそく清長の能力に目をつけ、京都の聚楽第の造営奉行(普請奉行)を勤めさせた。

朝鮮出兵では名護屋城にまでわざわざ呼び、渡海用の造船にも携えさせたというから、秀吉にはかなり買われていたようである。

当然、秀吉は猛烈なアプローチをして豊臣姓を与えようとしたが、清長は「家康以外に主君はいない」と断っている。

小田原征伐では、北条氏政・氏直親子の交渉役にも抜擢されていることから、相当抜きん出た外交能力があったのだろう。

正直者

清長の「正直者」としての逸話は多い。

それは、朝鮮出兵で渡海用の造船を任された時であった。
清長には、事前に家康から多額な造船費用が渡されていた。

しかし、実際に船を造ってみると、なんと金貨20枚が余ってしまった。
その金貨20枚を自分の懐に入れることもできたはずだが、正直者の清長は余った金貨をそのまま家康に返した。

この正直さに感心した家康は清長を褒め称え、返上された金貨20枚はそのまま清長に与えられたという。

また、秀吉が亡くなる前に岩槻に立ち寄った際に、清長は秀吉を寛大に饗応した。
それに感心した秀吉は、和歌を清長に贈っている。

預け地

小田原征伐後、清長は武蔵国岩槻2万石を領したが、実はこれと同時に足立郡浦和1万石も預けられていた。

このような土地を「預け地」と呼ぶのだが、一般的に預けられた領地は、ほぼ自分の領地同然の扱いとして問題はなかった。
つまり、「預け地」から上がる年貢は、自分のものにするのが通例であった。

しかしながら、清長はこの「預け地」からの年貢に一度も手をつけなかったという。
徴収した年貢は、そのまま江戸城に直接運ばせていたというのだから、驚くほどの正直者である。

清長には一切後ろめたいところがなく、「仏の高力清長」の異名通りの人物だったのである。

晩年

慶長4年(1599年)清長の嫡子・正長が早世してしまう。

これに心を痛めた清長は、翌年の関ヶ原の戦いには参戦せずに隠居し、嫡孫の忠房に家督を譲っている。

没年に関しては、慶長9年説と慶長13年説があるが、いずれも享年79だとされている。

おわりに

徳川家康には数多くの忠臣がいたが、高力清長ほど清廉潔白で信頼できる人物はいなかったであろう。

余談ではあるが、コーエーの歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」において、清長は全体的にかなり高い能力値となっている。

 

この投稿をInstagramで見る

 

@irumina777がシェアした投稿

通常、マイナー武将は優れた逸話があっても能力値が低くされがちだが、高力清長の外政値を「91」にしているところは、さすがコーエーといったところか。

 

アバター

rapports

投稿者の記事一覧

草の実堂で最も古参のフリーライター。
日本史(主に戦国時代、江戸時代)専門。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2023年 10月 07日 7:28am

    こんなひと

    高力清長なんて武将知りませんでしたが、大河ドラマにも出ない優秀な人材が家康には一杯いたのですね

    0
    0
  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 「子供をポンポン」暴言にショックを受けていた瀬名(築山殿)、実は…
  2. 【どうする家康】 本能寺の変に“黒幕”はいるのか? 「世界史の法…
  3. 徳川家康の三大危機「神君伊賀越え」を助けた多羅尾光俊とは何者?そ…
  4. 穴山梅雪は、なぜ武田勝頼を裏切って家康についたのか? 後編 「勝…
  5. 家康を大激怒させた大岡弥四郎への「おぞましい処刑法」とは
  6. 裏切り者は許すまじ!三河一向一揆で離反した大見藤六と、水野太郎作…
  7. 現地取材でリアルに描く『真田信繁戦記』 第6回・大坂夏の陣編 ~…
  8. 【どうする家康】 瀬名(築山殿)を自害に追い込んだ武田勝頼の哀れ…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

何やってんの!?合戦の最中、おじと甥で同士討ちを始めた北条朝時の子孫たち【太平記】

合戦と言えば天下の大義を掲げ、あるいは一族の存亡を賭けて死に物狂いで臨むもの……とイメージしますが、…

【アメリカの聖女から世界一の悪女へ】 ジャクリーン・ケネディの特権階級すぎる人生

ジャクリーン・オナシス(ジャッキー)は、20世紀で最も有名な女性の一人と言っていいかもしれま…

【2500人の多重人格】で父の虐待から生き延びたジェニ・ヘインズ 「世界初の別人格証人」

2019年2月21日、オーストラリア・シドニーの地方裁判所において、ジェニ・ヘインズさん(当…

人間も大型動物も食い殺すアリ 「最強軍隊アリの生態」

軍隊アリとは、強い攻撃性を持ち軍隊のように隊列を組んで進み、時には人間や象をも襲うアリである。…

二・二六事件とはどのような事件だったのか? 【元総理暗殺事件】

1936年(昭和11年)2月26日未明、降り積もった雪を踏みしめながら、約1400名の陸軍の青年将校…

アーカイブ

PAGE TOP