高力清長とは
高力清長(こうりききよなが)とは、徳川家康とその父・松平広忠に仕えた譜代家臣である。
家康が今川家の人質だった頃から支え、三河三奉行に任命された。
家康からの信頼は厚く、数々の戦に参戦して徳川家を支えた忠臣であった。
その性格の良さから「仏」と称されるほどの人物である。
今回は、そんな高力清長の逸話について解説する。
出自
高力清長は、家康の祖父・松平清康に仕えた高力安長の長男として、享禄3年(1530年)に三河国に生まれた。
しかし、尾張の織田信秀が三河に侵攻した際に祖父と父を同時に亡くし、叔父の高力重正に養育されて家康の父・松平広忠に仕えた。
家康が今川家の人質になると、12歳年上の清長は家康と共に今川家に行った。
桶狭間の戦い後は家康に同行して、織田家との同盟締結に尽力したという。
三河一向一揆で活躍したために、家康から三河三奉行の1人として抜擢され、「仏の高力清長、鬼の作左こと本多重次、どへんなき(公平)天野康景(三郎兵衛)」と呼ばれた。
仏の高力清長
「仏」という異名がついたのは、清長が大変慈悲深く、寛容、寛大な人物だったからである。
また、三河一向一揆での清長のある行動から、「仏」という異名がついたともいわれている。
清長は三河一向一揆において、岡崎城の南・額田郡高力の守備を任され、土呂の一揆軍を平定した。
当然、戦場となった場所は荒廃したが、清長はそんな状態を見かねて散乱していた経典などを拾い集め、それを持ち主に返したという。
しかも、仏像や経典などの保護に努め、破却された寺社を元の姿に戻したのだ。
この行為が評判となり「仏の高力清長」と呼ばれるようになったという。
清長のモットーは「どんな時でも神仏を敬い、心を磨くことを怠けてはならぬ。それが真の武士というものだ。」というものであった。
それを実際に行動で示したことから、三河の民は大いに尊敬したという。
また、小牧・長久手の戦いにおいて、秀吉と和睦交渉をしたのは清長であったという。
秀吉に目をつけられる
人たらしの秀吉はさっそく清長の能力に目をつけ、京都の聚楽第の造営奉行(普請奉行)を勤めさせた。
朝鮮出兵では名護屋城にまでわざわざ呼び、渡海用の造船にも携えさせたというから、秀吉にはかなり買われていたようである。
当然、秀吉は猛烈なアプローチをして豊臣姓を与えようとしたが、清長は「家康以外に主君はいない」と断っている。
小田原征伐では、北条氏政・氏直親子の交渉役にも抜擢されていることから、相当抜きん出た外交能力があったのだろう。
正直者
清長の「正直者」としての逸話は多い。
それは、朝鮮出兵で渡海用の造船を任された時であった。
清長には、事前に家康から多額な造船費用が渡されていた。
しかし、実際に船を造ってみると、なんと金貨20枚が余ってしまった。
その金貨20枚を自分の懐に入れることもできたはずだが、正直者の清長は余った金貨をそのまま家康に返した。
この正直さに感心した家康は清長を褒め称え、返上された金貨20枚はそのまま清長に与えられたという。
また、秀吉が亡くなる前に岩槻に立ち寄った際に、清長は秀吉を寛大に饗応した。
それに感心した秀吉は、和歌を清長に贈っている。
預け地
小田原征伐後、清長は武蔵国岩槻2万石を領したが、実はこれと同時に足立郡浦和1万石も預けられていた。
このような土地を「預け地」と呼ぶのだが、一般的に預けられた領地は、ほぼ自分の領地同然の扱いとして問題はなかった。
つまり、「預け地」から上がる年貢は、自分のものにするのが通例であった。
しかしながら、清長はこの「預け地」からの年貢に一度も手をつけなかったという。
徴収した年貢は、そのまま江戸城に直接運ばせていたというのだから、驚くほどの正直者である。
清長には一切後ろめたいところがなく、「仏の高力清長」の異名通りの人物だったのである。
晩年
慶長4年(1599年)清長の嫡子・正長が早世してしまう。
これに心を痛めた清長は、翌年の関ヶ原の戦いには参戦せずに隠居し、嫡孫の忠房に家督を譲っている。
没年に関しては、慶長9年説と慶長13年説があるが、いずれも享年79だとされている。
おわりに
徳川家康には数多くの忠臣がいたが、高力清長ほど清廉潔白で信頼できる人物はいなかったであろう。
余談ではあるが、コーエーの歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」において、清長は全体的にかなり高い能力値となっている。
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通常、マイナー武将は優れた逸話があっても能力値が低くされがちだが、高力清長の外政値を「91」にしているところは、さすがコーエーといったところか。
こんなひと
高力清長なんて武将知りませんでしたが、大河ドラマにも出ない優秀な人材が家康には一杯いたのですね