日本を東西に分けた天下分け目の関ヶ原の戦い。
序盤は兵数、布陣共に西軍が有利であったが、徳川家康率いる東軍がなんと半日で勝利した。
その大きな勝因は、西軍の4人の武将(小早川秀秋・島津義弘・毛利輝元・吉川広家)たちの裏切りにあったと言っても過言ではない。
前編では小早川秀秋、島津義弘の裏切りについて解説した。
今回の後編では毛利輝元、吉川広家の裏切りについて掘り下げていきたい。
毛利輝元
中国地方の約半分の120万石を領していた毛利輝元は、九州征伐で成果を挙げて秀吉の天下統一に貢献し、豊臣政権を支える五大老を家康らと共に努めていた。
輝元が、関ヶ原の戦いで西軍の総大将に就任したのは、反家康の狼煙を上げた三成に要請されたからである。
慶長5年(1600年)7月、輝元は大坂城に入る。三成は幼い秀頼の補佐を輝元に任せ、決戦の際には共に出陣させようと考えていた。
合戦間近の9月、三成は輝元に出陣を要請した。
しかし、輝元は大坂城に留まったままで、代わりにやって来たのは輝元の養子・毛利秀元が率いる1万5,000の軍勢だった。
なぜ輝元は関ヶ原に来なかったのか?
その理由は諸説がある。
1. 秀頼の母・淀殿が幼い秀頼の参戦を拒んだために、補佐役の輝元も出陣できなかったという説。
2. 家康と内通していると噂されている増田長盛の動向を大坂城内で見守っており、秀頼を守るために大坂城に留まったという説
3. 実のところ、家康を気にして関ヶ原で戦う気など無かったという説。
実際に輝元は、家康に「三成殿の謀と当方とは関係ない」という手紙を送っている。
輝元が「戦わない」という姿勢を家康に見せた真意とは何だったのか?
輝元の頭の中には、自分が総大将である西軍が勝つ確信や、逆に東軍が勝つ確信もなかったのだ。
つまり輝元は、西軍と東軍を両天秤にかけていた。
しかもこの時、輝元は自国の領土を拡大するために裏で動いていたのだ。
家康方に同行していた四国の蜂須賀家や、加藤家の領地を攻めていたのである。
「東西両軍への面目を保ちながら、自らの領地拡大を行う」という戦略だったと考えられている。
吉川広家
関ヶ原にある標高104mの桃配山は、東軍の総大将である家康が最初に陣を敷いた場所である。
家康はこの周辺に、3万の軍勢を配置した。
その背後にそびえるのは標高およそ420mの南宮山である。西軍の多くの武将たちがここに陣を構えていた。
長宗我部盛親・安国寺恵瓊・長束正家・毛利秀元、その数合わせておよそ3万、西軍の主力とも言える軍勢であった。
その中で最初に戦を仕掛ける先陣(一番槍)を任せられたのが、毛利家の家臣・吉川広家で、家康に最も近い場所に布陣した。
毛利秀元・安国寺恵瓊・長束正家・長宗我部盛親の軍勢は、開戦後、南宮山を下って家康軍本体に、背後から襲い掛かろうとしていた。
ところが、先陣の吉川広家の軍が、戦いが始まっても一向に動こうとしないのだ。
後ろにいた武将がその理由を問いただすと、広家は「霧が立ち込めて敵の姿が見えん」と言った。
しかしその後、霧が晴れても広家は陣に留まったままであった。
これに激怒したのが、毛利軍の後ろにいた長宗我部盛親であった。
盛親は「何故早く出陣しないのだ!」と激怒した。
広家に代わって盛親に答えたのは、毛利秀元であった。
家臣である広家のために「今ちょうど兵に弁当を食べさせているところじゃ」と言い訳をしたのである。
毛利秀元の役職が宰相であったことから、このエピソードは「宰相殿の空弁当」と言われている。
この当時、一番早く敵に突撃する者を決めるのは戦の慣例で、今回の先陣は吉川広家であり、それを破るのはご法度だった。
つまり広家が動かなければ、後ろの毛利・長宗我部・安国寺たちも動くことができなかったのだ。
広家が全く動かないために、南宮山の約3万の大軍勢はその場に釘付けとなった。
広家の裏切りの理由とは?
広家は西軍の総大将・輝元と同じ毛利元就の孫にあたる。2人は従兄弟同士で、吉川家は父の代からの家臣として毛利家を献身的に支えてきた。
その一方で広家は、家康に近い黒田長政とも通じていて、2人が交わした書状には「行動を共にしていこう」とあった。
東軍が有利と見た広家は、主君・輝元に「東軍につくように」と進言しようとしたが、その前に輝元は西軍の総大将に担ぎ上げられてしまった。
仕方なく西軍についた広家だったが、決戦を前に黒田長政の父・黒田官兵衛から「上方の大名も皆、家康公に味方します。貴方の判断が第一」という書状が届いた。
この書状で東軍の勝利を確信した広家は、寝返ることを決意し、家康と密約を交わしていたのである。
この密約が関ヶ原の戦いの前に交わされていたことは、家康が敷いた陣の位置からも分かる。
上記画像の通り、広家たちが陣取っていたのは南宮山の頂上付近で、家康の桃配山とは峰続きである。背後から3万の軍で攻められてはひとたまりもない。
戦慣れしている家康がそんな無防備な布陣ができたのも、広家の寝返りのおかげであった。
広家は、東軍が勝った場合には主君・輝元に寛大な処遇(領地の安堵)をしてもらう密約を内々に取りつけていた。
広家が裏切ったのは、主君である毛利本家を守りたかったからである。
自分が3万の軍勢を動けないようにすれば、東軍の勝利は確実なものとなる。
さらに輝元に「大坂城に留まるように」と進言したのも広家だった。
小早川秀秋は、南宮山で広家が動かないことを知っていた。
正午まで戦況を伺い、家康の本陣が前進するのを見て寝返りを決断したのだ。
こうして広家は、西軍の総大将・毛利輝元とその軍勢を大坂城に留め置き、関ヶ原に出陣させなかった。
そして、関ヶ原では家康の背後の西軍3万の軍勢をブロックし、東軍優勢の状況を作り出したことで、結果として小早川秀秋の裏切りを誘発させた。
裏切り者の中で最も西軍にダメージを与えたのは、吉川広家だとも言える。
こうして関ヶ原の戦いはわずか半日で終結し、東軍が勝利を収めたのである。
その後
家康は東軍の武将たちに褒賞を与えると共に、西軍方の処遇を決めた。
小早川秀秋は筑前30万石から岡山50万石に加増となったが、その2年後に秀秋は22歳の若さで亡くなる。
島津義弘に対して家康は討伐を考えるが、周囲の取り成しによって中止になり、義弘の隠居を条件に島津家は本領安堵となった。
毛利輝元は吉川広家の根回しもあり、お咎め無しとも思われていた。
しかし家康が下した処遇は、何と毛利家の改易であった。
家康は、その領地の一部を吉川広家に与えようと考えていたが、これを聞いた広家は「輝元様は直接西軍には関わってはいません」と、毛利家の存続を直談判し、自分の褒賞を辞退して毛利家に与えるように家康に懇願した。
その甲斐あって、毛利家は120万石から30万石と大幅に減封されたが、改易だけは免れた。
そして毛利家のために尽力した広家には、毛利家から岩国3万石が与えられたのだ。
おわりに
兵の数・布陣において最初は優っていた西軍だが、多くの裏切りによって戦は負けてしまった。
天下分け目の戦いでどちらにつくか?それは大名たちにとって裁量が試される運命の時でもあった。
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