大岡弥四郎とは
大岡弥四郎(おおおか やしろう)とは、徳川家康の嫡男・松平信康に仕え、町奉行を務めながら武田勝頼と通じて謀反を計画した人物である。
その計画がバレたことで家康を大激怒させてしまい、世にもおぞましい処刑をされた。
戦国の魔王・織田信長も、自身を火縄銃で狙撃した杉谷善住坊に同じ処刑方法を用いたという。
今回は、家康を大激怒させた大岡弥四郎への処刑法について解説する。
出自と出世
「三河物語」の影響を受けた「朝野旧聞裒藁」や「徳川実記」では彼の名を大賀弥四郎としているが、「岡崎東泉記」や「伝馬町旧記録」では大岡弥四郎としている。
どうやら大岡弥四郎とする見解が今は有力であるため、ここでは大岡弥四郎と記させていただく。
大岡弥四郎は、家康の家臣であり中間(ちゅうげん)という身分だった。
中間(ちゅうげん)とは、侍と小者の間の身分である。
大岡弥四郎は、生まれた身分が高い訳ではなかった。
しかし、彼は生まれ持った能力が高く、農村のことに通じていて計算も得意で、何よりとても気が利く男だったという。
※文献によっては家康の馬丁を務めたとある。矢作川が氾濫して河水が濁り、水深がかなり深くなった際に弥四郎が真っ先に瀬踏みを敢行したために、家康から200石を与えられたとある。
弥四郎は計算が得意だったため、会計や租税に関する役職を任せれば器用にこなし、ついには登用されて三河奥郡20余か所村の代官になった。
浜松城と岡崎城を往来して家康・信康の双方に仕えた後に、岡崎城の町奉行として家康の嫡男・信康に仕えたという。
性格が悪かった
弥四郎は元々の身分低かったため、権力を持つにつれて態度が尊大になり、いつの間にか驕り高ぶるようになっていった。
さらに人の戦功にまで口を挟むようになり、自分の意にそぐわない者を取り立てないこともあったという。
つまり、弥四郎はかなり性格が悪かったのだ。
ある時、近藤某(なにがし)という者が戦功を挙げて恩賞の土地を賜ることになったが、弥四郎は「全ては私が取り成したおかげだ」と言ったという。
この言い草に近藤は激怒し「新恩の土地などいらぬ!受け取れば武士としての汚名だ」と返答し、恩賞の土地の返上を申し入れたという。
謀反がばれる
近藤から土地の返上を願われて困った徳川家の老臣は、とうとう一連の流れを家康の耳に入れることを決意する。
話を聞いた家康は、さっそく近藤を召して事情を問うた。
すると近藤は、弥四郎の悪事を次から次へと告発したのである。
家康は「これは聞き捨てならない」と弥四郎を捕まえて、家財の全てを没収した。
ここで、まさかの展開が待っていた。
弥四郎の家財没収の際に、1通の書状が見つかったのである。
その書状の相手は敵国の甲斐であり、なんと弥四郎は武田勝頼と密通していたのである。
その内容は以下である。
「この度、親友の小谷甚左衛門、倉地平左衛門、山田八蔵などが弥四郎と一味同心して武田勝頼の出馬を勧め、勝頼が設楽郡築手まで進軍して先鋒を岡崎まで進めれば、弥四郎が勝頼勢を徳川殿と偽り岡崎城門の門を開けさせ、勝頼勢を城に引き入れて三郎殿(松平信康)を殺害する。その上で城中に籠っている三河・遠江両国の人質を奪えば、三河・遠江戸の者たちは皆味方になるはずだ。そうなれば徳川殿も浜松から尾張か伊勢に立ち退くだろう。これにより勝頼は戦わずして三河・遠江を手に入れることができる」
この密通が露見すると、弥四郎の仲間であった山田八蔵は寝返って詳細を報告し、弥四郎たちが企てた計画は全て露見した。
家財没収をきっかけに、この謀反は未遂に終わったのである。
家康のおぞましい処刑法とは
弥四郎は小悪党ではなく大悪党であった。
家康は弥四郎を信頼して、目をかけてやっていただけに大きなショックを受けた。
徳川家を脅かす大罪に怒り心頭となった家康は、まず弥四郎の妻子5人を磔の刑に処した。
弥四郎にとって一番大事な妻子が磔にされる様子を見せつけたのだ。
当の本人である弥四郎は、まずは馬に縛り付けられ浜松城下を引き廻しにされた。
こんなもので家康の怒りが収まる訳はなく、次は弥四郎を「竹鋸(たけのこぎり)の刑」に処した。
弥四郎を岡崎町口に生き埋めにして、通りを往来する者に竹の鋸で首を挽かせたのである。
まず、土の中に埋めた箱に弥四郎を入れ、首だけを地上へと出す。
そして、隣に竹の鋸と大鋸を置き、通りを往来する者たちが頭や首を鋸で挽けるようにした。しかし竹の鋸なので、中々死なない。
弥四郎が息を引き取るまでに7日間かかったとされ、その間、弥四郎は痛みと恐怖に苦しみながら絶命したのである。
おわりに
家康に限らず、当時の戦国大名はかなり残酷な方法で処刑を行っている。
前述した信長も同じ処刑方法を行っているし、斎藤道三は罪人を「牛裂き」「釜茹で」の刑に処している。他にも例を挙げればきりがない。
これは、謀反や裏切りを防ぐための見せしめであり、ここまで過激な方法をとってもなお裏切りが絶えない時代だったのだ。
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