現代の日本社会で「日本」を思い浮かべるとしたら、北は北海道から、南は沖縄あるいは「沖ノ鳥島」を思い浮かべる人が多いだろう。
しかし、国の領域というのは歴史上、幾度も変わっている。
太平洋戦争中は、日本は大陸や台湾にも領土を持っていたし、東南アジアの島々にも委任統治領や租借地を持っていた。
この中に、北海道にほど近い場所にある「樺太」も含まれている。
歴史の授業などでは幾度か「樺太」の名前は目にするものの、実際にどのような島で、そこはどのように利用されていたのかなど、詳しく知られていない部分も多いことだろう。
そこで今回は、この「樺太」について解説する。
目次
樺太(サハリン)とはどのような島か?
樺太は、日本語で「からふと」と読む。ロシア語の読みである「サハリン」も広く知られた読み方だ。
北海道よりはやや小さいものの、面積は76,400平方キロメートルとかなりの広さがあり、南北に948kmもの距離がある縦長の島だ。
オホーツク海と日本海に面しており、北海道とは宗谷海峡を挟んでほど近い場所にある。
かつての日本が喉から手が出るほど欲しかった石油や金属などの資源はないが、石炭や林業が重要視された時期もある。
そのほかには、樺太の天然記念物としてマリモや、天然資源としてのカラフトマス、フレップ(コケモモ)などが価値のある資源といえるだろう。
日本の記録に残る古代~中世樺太の記載とは?
かつての日本、といっても、古代から中世と呼ばれるような時代には、日本という国の支配領域は現代よりもずっと狭かった。
日本人や、至近のアイヌ民族が樺太に進出したのは鎌倉時代以降といわれ、それ以前には続縄文人・オホーツク文化人(日本側では「粛慎 – みしわせ」と呼称)などが生活していたとみられている。
また、ウィルタ民族やニヴフ民族と呼ばれる北方少数民族もいたとされる。
もっとも古い記録の中で粛慎が登場するのは660年のことで、阿倍比羅夫が渡島の蝦夷を助けるために「幣賄弁島」まで渡って粛慎と戦ったとの記録がある。
この「幣賄弁(ヘロベ)島」というのがどこなのかについては、奥尻島説が研究者の間でも有力説である一方、これこそが樺太のことだとする説を唱える研究者もいる。
本格的に樺太が記録に登場し始めるのは鎌倉時代で、1295年には日蓮宗の僧、日持が樺太へ渡り、布教活動を行ったという記録があるほか、南北朝時代の甲冑が樺太から出土しているため、武士の進出があった、あるいは交易が行われていたことは間違いないだろう。
1485年には、樺太アイヌの「乙名」が、蝦夷管領・安東氏の代官、武田信広との間で交易を結んでいる(ウイマムと呼ばれる儀式)
松前藩を通してのかかわり~近代樺太
武田信広は松前家の祖であったことから、日本と樺太の関わりは、以降は松前藩を通してのものが主となる。
1644年に松前藩が江戸幕府に提出した所領地図と、それを基にした「正保御国絵図」には、北海道の北に樺太が描かれている。
1679年には、松前藩の陣屋が樺太の久春古丹(クシュンコタン)に設けられ、漁場の開拓と交易拠点として整備された。
また、1715年の所領報告において、松前藩は北海道や千島列島とともに、カムチャッカ半島、樺太も松前藩領であると報告している。
この地をめぐって日本が外国と初めて衝突したのは1807年のことで、ロシア海軍士官らが択捉島、礼文島とともに、樺太の南端に位置する留多加郡を襲撃した。
幕府は警固のため、秋田藩・弘前藩・仙台藩・会津藩などの奥羽諸藩に蝦夷地への出兵を命じた。
ただしこのロシア海軍士官らの襲撃行為は、ロシア帝国政府の命令ではなかったとされ、1813年にはロシア側の県知事・長官の釈明書の提出により、事件は落着している。
ロシアが樺太への具体的な行動を起こしたのは1853年のことで、久春古丹に「ムラヴィヨフ砦」を築き、一方的に樺太全島の領有を宣言した。
なお、類似の事件は1861年にも対馬で発生しており(ポサドニック号事件)、不凍港を求めるロシアの南下政策の一貫であったことがうかがえる。
話を樺太に戻すと、この後1855年に締結される日露和親条約においても樺太の国境は明記されず、未確定のままだった。
日露両国人が部分的に雑居するような状態の樺太であったが、1859年にはロシア側は軍艦7隻を率いて品川へ来航し、樺太全土はロシア領であると威嚇、幕府側がこれを拒絶して退けるなど、緊張状態が続いた。
この後、幕府は各藩から人員を送り込んで警固に当たらせたり、警固所を築くなどの対処を行い、一方ロシア側も囚人を送り込むなど樺太の自国領化のために既成事実を作ろうとした。
これらの一連の鍔迫り合いが一応の解決を見るのは1875年の「樺太・千島交換条約」によってであり、樺太は全土がロシア領となった。
南樺太日本領時代~日露戦争とポーツマス条約
次に樺太に大きな動きがあるのは1905年7月、日露戦争末期のことだった。
日本軍は樺太島に侵攻し、地元アイヌと協力しつつ樺太全域を制圧することになった。
ただし、そのまま全島を日本領としたわけではなかった。
これは、日露戦争の結果締結されたポーツマス条約により、北緯50度以南が日本領となったためであった。
以降、樺太は「樺太庁」が管理し、あくまで本土とは区別された形式で管理されていた樺太が内地行政に編入されるなど、日本の領土の一部として認識されていったことがわかる。
樺太との交通は、主に稚内港からの航路で結ばれていた。
参戦してきたソ連~樺太の戦い
さて、南半分を日本領としてきた樺太であったが、その北半分を支配するソ連と睨み合ってきた北緯50度の国境に異変が起こる。
それが太平洋戦争の最終期、1945年8月11日から起こった「樺太の戦い」であった。
日本は8月15日にポツダム宣言受諾が布告され、太平洋戦争の終結に向け、各地の部隊は停戦に向かった。
ところが、樺太を含めたソ連軍との戦闘は止まらず、むしろソ連軍は新たな上陸作戦などを展開したために、戦線が拡大することすらあった。
当時の樺太を守るのは第88師団であったが、当時の戦況では樺太に多くの兵器を残しておく余裕はなく、肝心の航空機・艦船はほとんど樺太から引き抜かれて九州などに転用されていた。
第88師団を擁する第5方面軍(北海道・札幌)は、北方を守る各部隊に積極的な戦闘を慎むよう「自重命令」を出し、その翌日に解除されたのだが、この解除命令が通信の遅延から各部隊に届かなかった。
そのため、樺太においても日本軍側は最後まで消極的な行動を取らざるを得なかった。
実際の戦闘においては、第88師団はまず防衛招集を行い、地区特別警備隊を動員、さらに太平洋戦争において唯一、一般住民による「国民義勇戦闘隊」の招集が行われた。
8月11日に最前線の半田集落では、歩兵2個小隊と国境警察隊28名の計100名ほどの守備隊が戦車と航空機を駆るソ連軍と交戦し、なんとソ連軍先遣隊をほぼ丸一日足止めすることに成功し、12日に全滅した。
ソ連軍はこの半田集落での頑強な抵抗に対して、要塞が存在するのではないかと記録させるほどであったという。
さらに12日、ソ連軍第179狙撃連帯に対しては、訓練用の木銃(もちろん発射機構はない)に剣を取り付けた銃剣で武装した輜重兵第88連帯第2大隊、および憲兵隊の突撃によって足止めを敢行した。
13日にはソ連軍が日本軍125連隊に対して包囲攻撃を行ったが、日本軍側は性能に劣る速射砲も活用して頑強に抵抗し、ソ連軍は数百メートル前進しただけで防御態勢に移行したとされる。
北西部の恵須取町では、避難民を援護するため警備隊や国民義勇戦闘隊をかき集めて市街入り口に布陣、ソ連海軍歩兵2個中隊を阻止し、一度は撃退に成功した。
悲劇的な結末となったのは南西部真岡町だった。
真岡町は避難民を本土へ引き上げる乗船地として使用しており、防御陣地などはほぼ構築されていなかった。
この真岡町に対し8月20日、ソ連軍船団は艦砲射撃を加えて市街地に侵入、軍人ではなく民間人への攻撃が行われた。
郵便・電信という当時の情報通信の重要な役割であった「真岡郵便局」は退避が遅れ、電話交換手の女性12名のうち9名が局内で薬物などによる自決をした「真岡郵便局事件」はここで発生した。
この後、ソ連軍は逢坂集落や豊原駅周辺にも徹底した艦砲射撃と焼夷弾投下を行った。
残存する日本軍守備隊は遅滞戦術を行い、8月22日までソ連軍の足を鈍らせ続けた。
降伏命令が樺太の守備隊に到達したのは8月22日夕刻であり、23日までに武装解除が終了した。
なお、この武装解除の交渉の際にも、軍使(交渉役)一行がソ連軍からの銃撃を受け死傷者を出している。
こうして樺太での日本軍最後の戦闘は終結したのだった。
現在の樺太
現在の樺太は「サハリン州」とされ、ロシアが実効支配している。
樺太の戦いで徹底的に破壊された豊原は、現在ではユジノサハリンスクとして約50万人のロシア人が生活する場所となり、「サハリンプロジェクト」とする油田・ガス田の開発プロジェクトが展開されている。
なお、戦後の領土問題というと北方領土として国後、択捉、色丹、歯舞諸島が注目され、樺太の領土返還要求は日本政府によっても行われていないが、樺太についてもサンフランシスコ講和条約において引き渡し先が明記されていない。
そのため、南樺太の領有権の帰属先は未定のままというのが本来は正しい。
なお、無論ロシア側は南樺太と千島列島の占領・領有は「戦争の結果」であり、すでにソ連国内法により編入されている、という立場である。
サハリンと北海道の交通については、コルサコフと稚内との間に定期航路が開かれていたが、2019年からは休止となっている。
おわりに
太平洋戦争当時は、日本はアジア方面ばかりでなく北方にも現在とは異なる領土を持っていた。
サハリンについてもそのうちの一つであろう。
サハリンは常にその至近の超大国、ロシアとの間に無視できぬ関係があった。
太平洋戦争によって失い、近年まで返還交渉が続けられてきた北方領土は北海道外の人々にもよく知られているが、サハリンについてもまたこの戦争で日本が失った領土のひとつだ。
すでに停戦が成立していると思っていた現地守備隊の目には、艦砲射撃や空襲を繰り返しながら迫りくるソ連兵は如何に映っただろうか。
また、艦船や航空機もない状態で、住民の退避の時間を作るため奮戦した軍人たちの心中にはどのような思いが去来していたのであろうか。
最後の瞬間まで通信のための電話交換を行った女性職員たちは、いかなる覚悟でその地にとどまったのだろうか。
現代にあっては、想像するほかない。
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