青少年による凶悪事件が起こるたびに「昔の方がもっとモラルがあった」といった、昔を美化する声を耳にすることがあります。
しかし、戦前の少年犯罪は実は過激なものが多く、小学生が猟銃をぶっ放す、幼児が乳児を殺害、親殺し、猟奇殺人、心中、となんでもありで、いじめによる自殺や援助交際なども、すでに当時からありました。
管賀江留郎氏の著者『戦前の少年犯罪』は、戦前の新聞記事を丹念に調べ上げた少年犯罪の実例集です。
今回は氏の著書と、WEBサイト『少年犯罪データベース』から、戦前の少女による犯罪をいくつか取り上げてみたいと思います。(少年犯罪については、また別の機会に取り上げます)
1. 赤ちゃん殺し
戦前の少女による犯罪で断トツで多いのが、なんと「赤ちゃん殺し」です。
予期せぬ妊娠をした少女が赤ちゃんを産んで殺す、という事件は現代でも時折見られますが、戦前は頻発していました。
なお、昭和25年1月以前は、新聞の年齢表記はすべて数え年です。満年齢は、文中の年齢よりも1歳から2歳低くなります。
【昭和8年、18歳女子(満年齢16~17歳)が、実兄と関係して赤ちゃん殺害、琵琶湖に捨てる】
滋賀県阪田郡の自宅で、女子(18)が赤ちゃんを産み、兄の会計係(40)と2人で圧殺した。その後、墓地に埋めたが掘り返して琵琶湖に死体を捨て、5月16日に自供した。
兄は元小学校教師で4人の子どもがいるが、実の妹と関係して妊娠したため処置に困った。妻は2月に死亡している。『戦前の少年犯罪』【昭和26年、19歳女子が我が子を生き埋め】
東京都足立区で、無職女子(19)が産み落としたばかりの赤ちゃんを、墓地に首だけ出して生き埋めにし、発見が早くて助かったがその後、肺炎で死亡した。父無し子で処置に困ったため。『少年犯罪データベース』※こちらは終戦直後の事件です。
2. 毒殺
少女による殺人の手段では、「毒殺」が圧倒的に多く見られます。
【昭和8年、20歳女子(満18~19歳)と兄が、父親を毒殺】
三重県宇治山田市の青物問屋宅で、次女(20)と次男(23)が、実の父親(55)を毒殺した。2月に母親の違う長男(29)にも薬を飲ませて重体としたが未遂に終わり、6月13日に逮捕された。
高等女学校を卒業した次女が、「中学を神経衰弱で中退して、ぶらぶらしている次男に家を継がせよう」と考え、大阪で薬品を買って風邪薬として父に飲ませた。その結果、父は重体となり、看護している親類の目を盗んで、さらに何度も無理やり毒薬を口に入れた。
それまでも、薬品入りの酒を繰り返し飲ませていた。
また、昨年7月に次男が、就寝中の父親の頭をカナヅチで殴って重体としたが、医者が脳出血と誤診したので「殺害してもわからない」と考えていた。『戦前の少年犯罪』
この家はかなりの資産家で、次男はクリスチャンで相当変わった人物だったようです。
母親は次男に甘く、ねだられるままに5千円の小遣いを与えていました。ちなみに当時の大卒銀行員の初任給は70円です。
次男は親からもらった金のうち2千円を新聞社に送って、「自分は世界を統一する大英雄である」という広告を出そうと目論んでいたそうです。
次男と次女は成績優秀で、薬物や犯罪の専門書を熱心に読んで研究しており、次女は兄を神だと信じていました。
事件が発覚したのは、敬虔なクリスチャンである次男が大阪の教会で懺悔したためで、「神に代わって父を滅ぼした」「悪いとは露とも思わない」「死刑を覚悟している」といった談話が、大阪毎日新聞に記載されています。
戦前の家督相続では、親の財産はすべて長男が相続することになっていたので、相続がらみの犯行と思われます。
この事件で使われた薬品の種類は明らかになっていませんが、他の毒殺事件では殺鼠剤の「猫イラズ」や「ヒ素」がよく使われたようです。
ちなみに、小説やドラマなどでおなじみの「青酸カリ」が日本で初めて殺人に使われたのは、昭和10年11月21日に起きた「浅草青酸カリ殺人事件」で、当時は薬局などで手軽に青酸カリを購入できる時代でした。
3. 女学生の桃色遊戯
戦前の女学生というと、「良妻賢母を目指す品行方正な女の子」といったイメージがあります。
しかし、中には貞操観念の低い女学生もいて、彼女たちの行動は「桃色遊戯」と呼ばれ、紙面を賑わせていました。
【昭和2年、女学生が30円の報酬でヌード写真を撮らせる】
山形県米沢市で、米沢高等女学校の生徒750人中200人が、写真館で「男装」だとか「マリア様」だとかのコスプレ写真を撮って風紀を乱している。眼科医の令嬢は30円の報酬をもらって全裸写真を撮らせ、写真家は売りさばいていた。『戦前の少年犯罪』※コスプレは意訳
【昭和5年、樟蔭女学校5年生(満16~17歳)ら8人が、桃色交遊】
大阪府大阪市で、樟蔭高等女学校5年生(18)ら8人が、不純異性交遊を繰り返していて逮捕された。天王寺中学生などを紹介させて次々引き込み、樟蔭生は何十回も関係を持っていた。『少年犯罪データベース』
コスプレは近年になって流行した印象がありますが、今から約100年前の昭和2年(1927年)でも、流行っていたことがわかります。
もちろん今とは形態は全く異なるでしょうが、コスプレをして楽しむ彼女たちの姿を思い浮かべると、どこか既視感を覚えます。
その他にも、昭和13年の「女学生、美貌の留学生をめぐってアパートに描く桃色行状(女学生十数名がアパートの一室で、満洲国の留学生男子を中心に情痴を繰り広げる)※読売新聞」など、やりたい放題で「堅実な中流家庭の子女」というのは、むしろ新しい傾向だったようです。
とにかく、この時代の女子学生は活発だったようで「女学生10数人が、教師への恨みや不満から学校で暴動を起こす」、「女子中学生が男子中学生と決闘」といった事件もあります。
男子中学生に「束になってかかっていらっしゃい」と啖呵を切って、翌日果たし合いとなったというのですから、スケ番の元祖のような女学生です。
4. おわりに
日本の少年犯罪には、昭和26年(1951年)、昭和39年(1965年)、昭和58年(1983年)と3つのピークがあり、昭和58年を最後に、少年犯罪は減少を続けています。
少年少女による犯罪が頻発し、殺伐としていた昭和初期に比べると、現代は平和な時代といえるのかもしれません。
とはいえ、戦前から戦後へと社会状況が大きく変わっても、人間の本質はあまり変わらないようです。
参考 :
管賀江留郎『戦前の少年犯罪』築地書館
『少年犯罪データベース』
文 / 草の実堂編集部
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