毒舌で正論をズバッと言う茨田りつ子。
NHK「ブギウギ」で菊地凛子さん演じる茨田りつ子のモデルは、“ブルースの女王”と呼ばれた淡谷のり子です。
生家が没落し苦労しながら音楽学校を首席で卒業。10年に一人のソプラノと言われた淡谷のり子はクラシックを捨て、当時低俗と言われていた流行歌手の道を選びました。
人生のすべてを歌にかけた昭和の歌姫・淡谷のり子が「ブルースの女王」と呼ばれるようになるまでの足跡をたどります。
目次
淡谷のり子の生い立ち ~青森の豪商の娘として生まれ、贅沢三昧な暮らしを送る
淡谷のり子は1907年(明治40年)、青森有数の呉服商・「大五阿波屋」(だいごあわや)の長女として生まれました。
豪商の長女として、着るものから食べるものまで贅を尽くした暮らしぶりで、特に祖父母に寵愛されて育ちます。
淡谷家には、子供が朝起きたときにお菓子を与える「おめざ」という習慣がありました。
のり子の「おめざ」は三段重ねのお重で、一段目には外国製の干しブドウ、二段目がチョコレート、三段目がマシュマロという豪華なものでした。
目覚めたときに「おめざ」がないと、のり子は手が付けられないほど泣きわめき、女中を困らせたそうです。
1910年(明治43年)、青森市内の大半を焼きつくした「青森大火」によって生家が全焼。財産を失い家業は倒産してしまいます。
再建を試みるも父親の放蕩により生家は没落し、1923年(大正12年)、母親はのり子と妹を連れて上京しました。
上京後の淡谷のり子 ~音楽学校とヌードモデル
のり子は東京で画学生をしていた母親の弟を頼って借家に住まい、私立東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に通い始めます。
16歳で結婚してから夫の放蕩に苦労してきた母親は、手に職さえあれば自活できるという思いを強く抱いていました。
そのため、娘には「音楽の先生になって自立してほしい」と考え、のり子に音楽学校を勧めたのでした。
当時音楽よりも文学に興味があったのり子ですが、学校に通い始めると音楽の魅力に取り付かれ、どんどんのめり込んでいきました。
しかし、上京時に3年くらいは持つだろうと思っていたお金は、あっという間に底をつき、母親は針仕事を増やして夜なべをし、質屋通いもするほど家計は困窮していました。
極貧生活の中、妹が栄養失調のため目を病んでしまいます。
治療しなければ失明すると医者から言われ、生活費すらままならない状況に治療費が重くのしかかってきました。
つらい生活に疲れ、親子三人で死ぬことも考えたといいます。
しかし「死ぬ気になれば何でもできる」そう考えたのり子は、1年間画家のヌードモデルとして働くことを決意。音楽学校に休学届を出しました。
女性が就ける職業が少なかった当時、画家のモデルは手っ取り早くお金を稼ぐことができる仕事の一つで、美術学校のモデル代は、20分ポーズして10分休みを6回繰り返し4円60銭。研究所では7円20銭。個人のモデルは10円でした。
初仕事の日、のり子は人前で肌をさらすことへの緊張のあまり、気絶してしまったそうです。
つらい仕事でしたが、懸命に働き続けるうちに画家の田口省吾に気に入られ、専属モデルとして雇われます。
のり子が貧しい音大生だと知った田口は、妹の治療費やのり子の学費の工面をしてくれました。
淡谷のり子の人生の転機~クラシックから流行歌手へ
復学したのり子は、1929年(昭和4年)東洋音楽学校を首席で卒業。卒業生によるコンサートで初舞台を踏み、彼女の歌声は、「10年に一人のソプラノ」と絶賛されました。
音大の研究科で学ぶのり子の元へ、他大学の音楽部から出演依頼が来るようになります。
やっと音楽で身を立てられるようになりましたが、出演料だけでは家計を支えることはできません。
もっと高い収入を得たいと思っていたのり子は、流行歌手の道を考え始めます。
当時、芸能人には警視庁から鑑札が発行されていました。流行歌手の鑑札は「遊芸稼人(ゆうげいかせぎにん)・八等技芸士」。芸能人の中で最低ランクでした。
クラシックをとるか、流行歌をとるか。生活のために、のり子は流行歌手への道を選びました。
1930年(昭和5年)レコード会社「ポリドール」で初のレコードを吹き込みます。音大出身なのだから当然クラシックの曲だろうと思っていたのり子に与えられたのは、新民謡『久慈浜音頭』でした。
芸名を「淡谷のり子」にし、次から次へとレコードを吹き込み続け、30曲ほど吹き込んだ頃700円のギャラが支払われました。
おしゃれが大好きなのり子は、お金を手にするや銀座へ直行。香水や洋服、バッグなど、それまでの我慢を払しょくするかのように好きなものを買いあさりました。
それでもギャラの十分の一も使いきれなかったそうです。
のり子は流行歌主の道を突き進み、親子3人の暮らしに十分な給料を稼ぐようになりました。
『別れのブルース』発売~ブルースの女王へ
日中戦争が始まった1937年(昭和12年)、淡谷のり子は『別れのブルース』をリリースします。
この年にコロムビアに入社した服部良一は、「自分が作曲したブルースをどうしてものり子に歌って欲しい」と懇願しますが、のり子は「キーが低すぎる」と断り続けました。
「ブルースにアルトもソプラノもない」という服部の熱心な説得に根負けし、しぶしぶレコーディングを承諾したものの、今度は「地声で歌ってくれ」という服部の願いに、「それではブルースの味が出ない」と言い返します。
収録前夜、のり子はお酒とタバコをしこたま飲んで声をつぶし、翌日レコーディングにのぞみました。
発売当初パッとしなかった『別れのブルース』は、満州の兵士たちの間で大流行。大阪へ逆輸入され、日本全国で大ヒットとなりました。
一気に大スターの地位を獲得したのり子は、翌1938年(昭和13年)『雨のブルース』を発売。この曲もヒットし、淡谷のり子は「ブルースの女王」の称号を手にしたのでした。
参考文献:淡谷のり子『淡谷のり子・いのちのはてに』.学習研究社
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