村山興業の女社長・村山トミのモデルは、吉本興業創業者の吉本せいです。
夫と二人三脚で始めた1軒の寄席を皮切りに、類まれなる才覚で次々と事業を成功させ、「吉本興業」を築いた凄腕女社長です。
ドラマの中で坂口が「村山トミを敵に回すつもりか」と言っていましたが、当時の芸能界で強大な影響力を持っていた吉本せいとは、どのような人物だったのでしょうか?
夫と二人三脚で始めた寄席で商才を発揮する
吉本せいは、明治22年、大阪生まれ。
明治40年、老舗の荒物問屋「箸吉」の次男・吉本泰三と結婚しますが、泰三は芸人や芸事に夢中で家業をおろそかにしたため、「箸吉」は破産。二人は天満へ引っ越します。
売りに出ていた寄席を買いたいと言い出した泰三に、せいは寄席の経営を承諾。「天満八軒」の中でも二流どころの「第二文芸館」を全額借金で借り受けます。
名前を「文芸館」に改め、明治45年4月1日開場。当時15銭が普通だった木戸銭を5銭にし、剣舞やものまね、女講談、怪力、義太夫などの色物芸人をそろえ、従来の落語中心の演目とは一線を画した「安くて楽しめる演芸」を目指しました。
せいは「文芸館」で類まれなる商才を発揮します。
自ら「お茶子」となって接客し、客席にちょっとした隙間があれば、大きなお尻でドンっと客を脇に寄せ、すぐに座布団を敷いて一席分作りました。
座布団の敷き方を工夫して、客席をすし詰め状態にし、ひとりでも多く客が入れるように工夫したのです。
また、客の回転率を上げるための努力もしています。
寄席の中の風通しを悪くして客を長居させないようにしたり、芸人の出番にも一工夫し、ところどころにつまらない芸人の出番をはさみ、そこで客が帰るように仕向けたりしました。
さらに限られた時間で、できる限り収入を増やすため、飲み物や食べ物の販売も始めます。
それまで扱っていた甘いものは一切やめて、おかきやあられにせんべい、焼きイカなど喉の渇きやすいものを中心に販売。相乗効果でラムネの売り上げを伸ばしました。
夏場には、店先で氷の上に瓶の飲み物を並べました。
ゴロゴロと転がして冷やしながら売ると珍しがられ、飲み物の売り上げが飛躍的に伸びました。また客寄せの効果もあったそうです。
また冬には、客が捨てて行ったみかんの皮を乾燥させて「陳皮」を作り、近くの薬屋に売って収入の一部にするほどでした。
せいの機転と努力によって「文芸館」は名物小屋となり、借金も減っていきました。
寄席のチェーン展開と花月の誕生
「文芸館」開場の翌年、吉本夫妻は南区笠屋町に居を構え、「吉本興行部」の看板を掲げました。
大正3年には、5件の寄席を傘下に収めチェーン展開を図ります。さらに、高い格式を誇る「旧金沢亭」の買収に成功し「南地花月」と名付けました。
これを機に所有していた寄席すべてに「花月」をつけて改名しています。
大正6年、せいの弟・林正之助が入部しました。正之助はのちに吉本興業を率いて行く重要人物です。
大正10年には、「吉本花月連」を発足し興行主の名乗りを上げます。その後、人気落語家・桂春団治の獲得など快進撃は続き、夫妻の悲願であった大阪随一の寄席「紅梅亭」の買収に成功します。
大正11年、大阪のほとんどの寄席を手中にした吉本夫妻は、「文芸館」創業から10年余りで大阪興行界制覇を成し遂げたのでした。
月給制の導入
当時の大阪の寄席では、一日の入場料の収入を寄席の主人と芸人が一定の比率で分配していました。
しかし、木戸銭の安さを売りにしていた吉本興業では芸人の収入が減ってしまう恐れがあり、芸人たちは不安や不満を抱えていました。
出演料でその日暮らしの生活を送っている芸人の収入は不安定で、借金まみれになっている者が多いことに目をつけたせいは、月給制を導入。芸人たちの不満や不安を抑えることに成功します。
さらに芸人たちが方々に作った借金も一本化して吉本から借金させ、自分たちの管理下に芸人を置きました。
これが後に「吉本は金で芸人を縛った」と言われる所以です。
固定給を提示することで芸人の家族を安心させ、せいは給料の前借りの相談にも応じていたそうです。
夫の死後も快進撃は続く
大正13年2月、夫・吉本泰三が亡くなり、34歳で未亡人となったせいは、6人の子どもと28軒の寄席を抱え、経営の陣頭指揮をとることになります。
せいは弟たちに協力を求め、自身は交渉や芸人の世話を担当、実務は林正之助が仕切り、東京進出は林弘高に任せました。
せいには12人の兄弟がおり、正之助はせいより10歳年下、弘高は18歳年下でした。
昭和7年、「吉本興行部」を「吉本興業合名会社」に改組し、せいが正式に社長になります。
この時点で会社が所有していた寄席、劇場の数は47軒。夫の遺した寄席を潰してなるものかと無我夢中で働いた結果、潰すどころか、さらに19軒の寄席を手に入れるという快挙を成し遂げたのでした。
せいは、新会社の総支配人に林正之助、東京支社長には林弘高を就任させ、事業拡大を図りました。
正之助は、「萬歳(まんざい)」に早くから目をつけ、落ち目だった落語に代わり、「萬歳」重視の戦略を推し進めていきます。
正之助の読みは当たり、エンタツ・アチャコの人気沸騰とともに空前の萬歳ブームが到来します。
それまで庶民層中心だった寄席の客層が、インテリ層や中産階級へと広がり、演芸大国吉本の地位は確固たるものとなりました。
東京では林弘高の活躍によって、「マーカス・ショー」の成功、「東京花月劇場(浅草花月劇場)」の開場、レビュー団「吉本ショウ」の設立などの快進撃が続き、音楽とダンス主体の興行を推し進めた東京吉本は、松竹、東宝と肩を並べる興行会社となっていました。
※林弘高について詳しくはこちら
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弟たちに事業を任せ、経営の第一線から身を引いていたせいは、昭和13年「通天閣」を買収。大阪のシンボルも手に入れたのでした。
昭和23年、せいは社長から会長に退き、林正之助が社長に就任。
昭和25年、持病の肺結核が悪化し帰らぬ人となりました。享年60でした。
女傑・吉本せい
長年の篤行が認められ、せいは昭和3年に「紺綬褒章」を、昭和9年には大阪府から「節婦」として表彰を受けています。
せいは「御寮人さん」と慕われ、芸人の家族の面倒まで見る情け深い性格で、芸人がよその興行主からスカウトの話をもちかけられても、家族が「ご寮人さんを裏切ったら罰が当たる」と反対し押しとどめたと言います。
芸人が入院した時は付きりで看病し、芸人の家族に不幸があった時には社員総出で葬儀の手伝いもするほどでした。
ただし、こうした気遣いをするのは会社の役に立つ芸人に限られており、吉本の威光を笠に着て働かない芸人は容赦なく首を切りました。
「女傑」といわれた女興行師・吉本せいは、やはり敵に回してはいけない人だったようです。
参考文献
廣田誠『「わろてんか」を商いにした街 大阪』.NHK出版
矢野誠一『新版 女興行師 吉本せい』.筑摩書房
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