「福来スズ子とその楽団」のマネージャー五木の後任として登場した山下達夫。
山下のモデルは、戦後、笠置シヅ子のマネージャーを務めた山内義富と思われます。
『東京ブギウギ』の大ヒットでブギの女王となったシヅ子を支え続けた山下に、シヅ子は全幅の信頼を寄せていました。
淡谷のり子が「笠置シヅ子ほど、作曲家とマネージャーにめぐまれた人はいない」と羨んだという敏腕マネージャー・山内義富とは、どのような人物だったのでしょうか?
笠置シヅ子と山内義富の出会い
笠置シヅ子と山内義富の出会いは、松竹楽劇団時代に遡ります。
昭和14年(1939年)6月、服部良一は「面白い歌手がいるから」と言って、山内義富に松竹楽劇団の公演を見に来るよう勧めます。
山内は、服部の知人で同じ大阪出身。コロムビアレコードの制作部に勤めていました。
面白い歌手とは、当時「ラッパと娘」が評論家から大絶賛され、「スイングの女王」と呼ばれていた笠置シヅ子(当時は笠置シズ子)です。
昭和14年(1939年)7月、シヅ子は服部の肝いりでコロムビアの専属歌手になり、「ラッパと娘」、「センチメンタルダイナ」などのヒット曲を吹き込みました。
そのプロデュースを担当したのが制作部の山内義富でした。
終戦後、シヅ子のマネージャーとして活躍
昭和20年(1945年)11月、笠置シヅ子は日本劇場の舞台に立っていました。
戦前「日劇ダンシングチーム」による華やかなショーでその名を轟かせた東京・有楽町の日本劇場(通称日劇)は、昭和19年(1944年)に閉鎖され、風船爆弾を作る工場になっていました。
空襲や占領軍による接収も免れた日劇は、戦後すぐに復旧工事を行い、再び「映画と演劇」の劇場を目指します。
その記念すべき再開第1回公演「ハイライト」には、笠置シヅ子、灰田勝彦など錚々たるメンバーが出演。
人びとは娯楽に飢えていたのでしょう。8月に終戦を迎えてからたった3ヶ月にもかかわらず、焼け野原に佇む劇場の周りを群衆が囲み、行列はどこまでも続いていたといいます。
昭和21年1月、雑誌『東宝』は、「ハイライト」に出演した笠置シヅ子について次のように書いています。
”日本劇場の「ハイライト」それは笠置シズ子の凱歌であった。あらゆる観客が、好むと好まざるとに関わらず、彼女のダイナミックな「二人で歩けば」に圧倒されたであろう。彼女は正に水に帰った魚であった。”
戦時中に封印されていた本来の笠置シヅ子が復活し、シヅ子は歌手としての多忙な日々を送ることになりました。
楽団の解散以来マネージャーのいなかったシヅ子を心配した吉本穎右は、彼女のためにマネージャーをつけることを考案。
昭和21年(1946年)、早稲田大学を中退し、吉本興業東京支社に入社した穎右は、コロムビアレコードから吉本興業にスカウトされた山内義富をマネージャーに勧めます。
誠実で親身に世話をしてくれる山内を、シヅ子は兄か叔父のように感じており、全幅の信頼を寄せるようになっていました。
山内はシヅ子と穎右の交際も承知していて、忙しい仕事の合間に穎右と山内、シヅ子の三人で箱根に静養に訪れたり、穎右が帰阪する際には、山内とともにシヅ子は琵琶湖まで見送りに行ったりしています。
山内はシヅ子にとって、公私にわたって支えてくれる貴重な存在でした。
「ブギの女王」の功労者
昭和23年1月に発売された「東京ブギウギ」は爆発的なヒットを記録。シヅ子は一気にスターダムへと駆け上がります。
昭和23年度の「文学音楽および芸界の年収長者番付」では、小説家・吉川英治に次いで2位。高額納税者となりました。
昭和24年6月発売の雑誌『真相』の記事「一声千両 百万円歌手の実情は」で、シヅ子は次のように書かれています。
“笠置シヅ子などは、4か月先の8月まで、一日も残さず、予定がすっかりうずまってしまっているありさまで、出演料もこの一年間、グーンとうなぎのぼりに昇ってしまった。”
“東北の興行師が笠置に交渉にゆくと、マネージャーの山内義富にニベなく、「一日4万円いただきますよ」と念を押されて、二度ビックリ、さすがは売れっ子だわいと舌を巻いて引き下がったという。”
出演料4万円の歌手は笠置シヅ子と岡晴夫だけで、渡辺はま子、藤山一郎、ディック・ミネ、灰田勝彦、霧島昇が3万円、淡谷のり子は2万円でした。
ちなみに昭和23(1948)年当時の初任給は、銀行500円、公務員2300~4863円、東京の公立小学校2000円です。
スターが興行を成功させるにはマネージャーの手腕がカギとなり、インテリでやり手だった山内は、地方興行から舞台、ラジオ、映画、レコードと、次から次へと類まれなるマネジメント能力を発揮し、シヅ子を押しも押されもせぬ大スターへと導きました。
またもや裏切られた笠置シヅ子
昭和25年(1950年)、シヅ子は服部良一らとともに日本人慰問公演のため渡米を予定していました。ハワイ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、オークランド、ニューヨークを巡る4か月の旅でした。
しかし、この頃、山内義富の横領が発覚します。
山内は、シヅ子が新居建設のために用意していた350万円を持ち逃げしたのです。当時の350万円は、現在では億を超える金額です。
実直で仕事熱心なマネージャーだった山内は、いつの頃からかギャンブルにのめり込むようになっていました。
連日連夜賭け麻雀をするようになり、多額の借金を抱え込んだ山内はシヅ子の金に目をつけたのでした。
山内一家と同じ屋根の下に住み、生活を共にしていたシヅ子にとって、山内は家族も同然です。裏切られたシヅ子は、断腸の思いで山内を解雇しました。
笠置シヅ子の成功の裏には、辣腕マネージャー・山内義富の存在がありました。シヅ子をブギの女王にした陰の功労者・山内のその後の消息は不明のままです。
参考文献:砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』.現代書館
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