ヤマトタケルは日本神話のなかで、最大のヒーローといっても過言ではあるまい。
勇猛果敢で美形で向かうところ敵のない完璧な勇者でありながら、わずかなミスを犯して命を落としてしまう。しかし白鳥となって生き返り、飛び去って行く。まさしく英雄譚である。
ヤマトタケルと父の第12代景行天皇の関係は、『古事記』と『日本書紀』とでまったく異なっている。
『古事記』での父は息子に怯え、『日本書紀』では息子を賞賛している。
そこで『古事記』と『日本書紀』での描かれ方を比べてみた。
ヤマトタケルは『古事記』では名を小碓命(おうすのみこと)、別名を倭男具那命(やまとおおぐなのみこと)という。『日本書紀』では小碓尊(おうすのみこと)、別名を日本童男(やまとおぐな)という。ここではヤマトタケルと統一する。
『古事記』でのヤマトタケル
ヤマトタケルの母は針間の伊那毗大郎女(いなびのおおいらつめ)で、彼は3人目の王として産まれる。
景行天皇はヤマトタケルに、彼の兄の大碓命(おおうすのみこと)が朝夕食に同席するように「ねぎ(ていねいに教え諭す)なさい」と命じた。
しかし5日経っても大碓命が出てこないので尋ねたら、「もうねぎ(握りつぶして手足をもぎとる)ました」と答えた。すでに薦にくるんで捨てていた。
これを聞いて天皇は自分も殺されると怯え、「西の方へ行って2人の熊曽建(くまそたける)を殺してこい」と命じる。※熊曽建とは地域の強い男
ヤマトタケルは叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)の衣装を借り、美少女に変装して熊曽建の酒宴に潜り込んだ。
宴もたけなわの頃、熊曽建の兄の方を懐中の剣で殺し、弟の方も「あなたを“倭建御子”と讃えます」の言葉を聞いたのち、2つに斬り裂いた。
このときから小碓命は倭建命(やまとたけるのみこと)と称されることになった。そして都に戻るついでに西国を平定していった。
追放したはずのヤマトタケルに戻ってこられた天皇は、次は東の方の12カ国を平定せよと命じる。
途中、伊勢神宮に寄って天照大御神に手を合わせ、斎王を務める叔母の倭比売命に「お父さんは私に死ねと言っている」と言って泣き、倭比売命は草薙の剣を授けた。
尾張国でヤマトタケルは美夜受比売(みやずひめ)と婚約し、相模国を草薙の剣で草を払い、火打ち石で国造らをもろとも焼き払って平定した。
さらに東に進むが、海峡の神の妨害に遭って船が進めない。后の弟橘比売命(おとたちばなのひめのみこと)が海に身を投じ、船は進むことができた。
東に進んで荒々しい神々や蝦夷を平定し、甲斐国から信濃国へ行き、尾張国に戻って美夜受比売と結婚した。
次は伊吹山の神を殺すことにしたが、「素手でも殺せる」と美夜受比売のもとに草薙の剣を置いていった。山登りの途中、白い猪に出会ったが放置した。この猪こそが伊吹山の神で、ヤマトタケルは大粒の雹に降られて病気になってしまう。
足どりが重くなり、杖をついて三重に着き、能煩野に着いたとき有名な望郷の歌を詠った。
「倭(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば たたなづく 青垣(あをかき) 山籠(やまごも)れる 倭し麗(うるは)し」
そして崩御した。
訃報は都に残る后と御子たちに届き、彼らは能煩野へ行って御陵を作って泣き悲しんだ。するとヤマトタケルの霊魂は白い千鳥になり、浜へ向かって飛んでいった。
千鳥は河内国の志紀に止まったので、御陵を作った。そして天高く飛翔していった。
『日本書紀』でのヤマトタケル
ヤマトタケルの母は皇后である播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいなつめ)で、双子の次男として産まれた。兄は大碓皇子(おおうすのみこ)で、ヤマトタケルは幼い頃から雄々しい性質だった。
16歳のとき、景行天皇に平定されたはずの熊襲が従わないため、天皇から討伐の命令を受けた。
美少女に変装して、熊襲の川上梟帥(かわかみのたける)の酒宴に潜り込んだ。梟帥の酔いが回った頃、懐中の剣で胸を刺し、「あなたを“日本武皇子”と申し上げたい」の言葉を聞いてから突き刺して殺した。
このときから日本武尊と称されることになった。
ヤマトタケルは海路で都に戻りながら、抵抗する神々を平定した。都に戻った彼から報告を受け、天皇はますます彼を愛した。
次に東国を平定することになった。
ヤマトタケルは兄の大碓皇子を指名したが、兄は草むらに逃げ隠れてしまった。そこでヤマトタケルが雄々しく申し出たので、天皇は将軍の位を授けて「我が子の形をしているが、本当は神人(かみ)だ」と讃えて送り出した。
ヤマトタケルは伊勢神宮に参拝して叔母の倭媛命(やまとひめのみこと)にあいさつをし、倭媛命は草薙剣を授けた。
駿河の賊を焼き滅ぼし相模から上総に渡ろうとした際、暴風が起きて船が進まなくなった。付き従っていた妾の弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に身を投じ、無事に接岸できた。海路で蝦夷の国に着き、服従させた。
常陸から甲斐に入り武蔵・上野を巡り、信濃に入った。山の中で道がわからなくなったが、白い犬に助けられた。
美濃に入り、尾張まで戻った。ここで宮簀媛(みやずひめ)を娶って暮らした。
伊吹山の荒ぶる神の話を聞き、媛の家に剣を置いて行った。大蛇が道を塞いでいたが、踏み越えて進んでいった。
この大蛇こそが伊吹山の神で、雹が降り深い霧がかかって、ヤマトタケルは病気になった。
尾張に帰ったが媛のもとには戻らず、能褒野に着いた。ますます病は重くなり、捕虜の蝦夷は伊勢神宮に献上した。
ここで天皇に使いを送り「御前にお仕えできなくなるのが残念」と復命して崩御した。30歳だった。
天皇は知らせを聞き、食べ物の味もわからないほど嘆き、昼も夜も泣き暮らした。家来に命じて伊勢の能褒野に御陵を作ると、ヤマトタケルは白鳥になって倭国に向かって飛んでいった。
白鳥は倭の琴弾原と河内の古市邑にもとどまったので、計3箇所に御陵を作った。白鳥陵という。白鳥は高く空に飛んでいったので、衣冠だけを葬った。
10年後、天皇は「自分の愛した子を思い偲ぶことは、いつになったらやむのだろうか」と言って、ヤマトタケルの平定した国々を巡幸した。
第13代成務天皇に皇子がなかったため、ヤマトタケルの息子の足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)が第14代仲哀天皇として即位した。
仲哀天皇は父を思い偲ぶため陵に白鳥を飼おうとしたが、異母弟に白鳥を横取りされたため、彼を殺した。
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