日本史上最大のクーデターと言える本能寺の変で主君織田信長を討った明智光秀
信長同様、誰もが知る戦国武将の一人であるが、そのイメージは裏切り者、良識的で真面目な人間がブチ切れたといった感じである。
あまり良くない印象の光秀であるが、信長配下の武将の中で、極めて優秀な出世頭No.1の武将であった。
どれだけ有能な武将であったかを検証していきたい。
文化、軍事、鉄砲、築城、商業、情報、人脈、全て一流
光秀の前半生は不明であるが、若き日は斎藤道三に師事したと言われている。
織田家に士官した頃には40才を超えていたとされているが、それ以前に既に歌や茶など教養人としても名高く、鉄砲術、部隊戦術や築城技術、都市開発術なども身につけていたとされる。また足利将軍家や公家、豪商や宗教人など人脈も幅広く、そういった人脈の中でますます様々な技術や教養を高めていったと思われる。
信長に仕える頃には既に十分なバックボーンができていたわけである。
仕えた後も、各合戦での戦術、鉄砲隊の指揮や、坂本城や亀山城などの強固な築城、将軍家や公家との橋渡し、丹波国の平定、その後の見事な治世など優秀っぷりを発揮し続けていた。
明智光秀が織田家に士官するまでの流れ
信長に仕えるまでになった流れは少し複雑なのだが、なるべく簡単に表すと
斎藤家の道三・義龍父子の争い → 敗北した道三側だった明智家離散 → 称念寺という時宗の寺でニート →
文武に秀でた奴がいると近隣で評判に → 領主の朝倉家に召し抱えられる → 将軍になりたい足利義昭が自身擁立の為、朝倉家に使者(細川藤孝)を送る →
光秀、足利義昭と接触を持つ → 朝倉義景が全然動かないので足利義昭は信長を頼る事に → 道三つながりで信長と縁のある光秀が細川藤孝と共に織田への使者に →
足利義昭と織田信長、両方に気に入られ両属の家臣となる → 足利義昭と織田信長が対立し、信長の家臣となる
といった流れが通説であるが、これは明智軍記からの説であって、明智軍記は本能寺の変から100年以上経ってから書かれたものであり、史料価値は低いとされる。
ルイス・フロイスの日本史では、明智光秀は細川藤孝に仕える足軽だったという記述がある。それだと光秀はそもそも足利家の末端であり、朝倉家に仕えていたかは少し微妙になってくる。そもそも朝倉家に仕えていたはずの光秀が、いくら足利義昭に頼まれたとはいえ、急に信長への使者となるのは少し不自然である。
そう考えると細川藤孝の配下であったとする方が、ごくごく自然となる。
ルイス・フロイスの日本史は史料として評価が高く、現実に信長や光秀にも会っている人物であるし、個人的にも外国人からの視点で客観性が強い史料ではないかと思う。
どのみち当時の光秀はかなり身分が低かったので、当時の史料に詳しい記述はなく、朝倉家に仕えた後に細川藤孝に出会い配下になったのかも知れないし、細川藤孝の配下として朝倉家と関係をもったのかもしれないが、上記を踏まえたところで考えてみても、
明智光秀は細川藤孝と共に足利義昭と織田信長の橋渡しをしていた のは間違いなさそうである。
明智光秀の戦歴
実際の光秀の戦歴はどのようなものであっただろうか。参加し部隊指揮した合戦を全てあげてみる。
勝利した合戦は赤字、引き分けは黒字、敗北は青字
本圀寺の変(vs三好三人衆)1569年
金ヶ崎の戦い(vs朝倉軍)1570年
比叡山焼き討ち(vs延暦寺山門衆)1571年
小谷城の戦い(vs浅井軍)1572年
今堅田・石山の戦い(vs一向宗)1573年2月
槇島城の戦い(vs足利義昭)1573年7月
石山本願寺平定戦(vs本願寺)1574年
高屋城攻略戦(vs三好康長)1575年4月
長篠の戦い(vs武田勝頼)1575年5月
越前一揆平定戦(vs越前一揆衆)1575年8月
黒井城の戦い(vs赤井,波多野軍)1576年1月
天王寺の戦い(vs石山本願寺・雑賀衆)1576年5月
紀州攻め(vs雑賀衆)1577年3月
信貴山城の戦い(vs松永軍)1577年10月
神吉城攻略戦(vs神吉軍)1578年7月
有岡城の戦い(vs荒木軍)1578年11月
氷上城攻略戦(vs赤井軍)1579年5月
八上城攻略戦(vs波多野軍)1579年6月
弓木城攻略戦(vs一色郡)1579年7月
黒井城攻略戦(vs赤井軍)1579年8月
本能寺の変(vs織田信長)1582年6月
山崎の戦い(vs羽柴秀吉)1582年6月
なんと16勝2敗4分けである。
もちろん信長配下という性質上、多くは光秀単独で指揮した合戦ではないが、少なくとも光秀は参加した合戦においてヘマらしいヘマは殆どなかった事が伺える。
中でも光秀中心といっていい初戦の本圀寺の変では約5倍の敵の侵攻に耐えているし、八上城攻略戦では難攻不落の山城であった八上城を、兵糧攻めと人質交渉で見事攻略。
そのまま黒井城も攻略し、ついには丹波全土を平定している。この功績は非常に大きい。
しかもその丹波平定作戦中も、信長から一向一揆や松永久秀鎮圧などで度々駆り出されるハードワークぷりである。
山崎の戦い以前の唯一の敗北である黒井城の戦いは、信長に恭順を示していた波多野秀治の突然の裏切りによるもので、光秀の失態とはいいにくい。
そして何よりも謀反とはいえ、あの「織田信長を討った」という事が何よりも非常に驚くべきことなのである。信長に反旗を翻した身内はそれまでもごまんといたし、外も常に敵だらけ。日本で一番命を狙われ続けていた人間であったが、どんな勢力も誰も信長を討つことはできなかったのだ。
本能寺の変が起こった理由は様々な説があり長くなるので、また別の機会に書くとする。
もう一人の極めて有能な人間
本能寺の変にて織田信長を討った光秀であるが、その後は知られるとおり山崎の戦いで羽柴秀吉に破れ、最後をとげる。
光秀の誤算というか不運だった事は、もうひとり極めて有能な人間、羽柴秀吉が存在していた事だ。信長軍団はみな優秀な武将の集まりであったが、秀吉は極めて優秀であった。
言い方は変だが、並の優秀な武将であれば、「本能寺の変」を知ってもすぐに帰ってこれない。なぜならその頃、信長軍団は各地に侵攻中で柴田勝家は上杉、秀吉は毛利、神戸信孝は長宗我部、滝川一益は北条とバラバラに侵攻しており、退却すれば背後を狙われるし休戦交渉も迅速にできるわけではない。そもそもすぐに退却するという決断自体、通常できないであろう。
秀吉にそれが可能だったのは、常に頭の中のどこかで「天下」を描いていた武将だったからであろうし、好機にすぐ対応できる準備と野心があったからであろう。
秀吉の中では本能寺の変→天下という絵図が、誰よりもまっさきに繋がったのである。
歴史でifを言っても仕方ないが、もし秀吉の存在がなかったら三日天下とならなかったかもしれない。
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