西洋史

『ナポレオンが警戒した美しき王妃』プロイセンの希望となった王妃ルイーゼとは

画像:ルイーゼの肖像(1798年) public domain

1810年7月19日、国民から絶大な人気を誇りながら34歳の若さでこの世を去った、プロイセン王妃ルイーゼ

優柔不断であった国王に代わり、激動するヨーロッパ外交の舞台で奮戦した彼女は、その美しさと強い意志、そして揺るぎない愛国心から、かの強者ナポレオン1世をして「美しき敵対者」「プロイセンの雌豹」と評されました。
また、フランス側のプロパガンダの中では、「戦いに飢えたアマゾネス」として揶揄されることもありました。

今回はこのナポレオンの美しき敵対者、プロイセン王妃ルイーゼについて触れてみたいと思います。

不釣り合いな「おしどり夫婦」

画像:プロイセン国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世 public domain

ルイーゼは1776年3月10日、現在のドイツに位置するメクレンブルク=シュトレーリッツ公国で生まれました。

父親は同国の初代大公カール2世、母親フリーデリケはヘッセン=ダルムシュタット方伯家の侯女でした。ルイーゼは家族の中でも優れた教育を受け、特に母親から精神的な支えを得て育ちます。

輝くばかりに美しく成長したルイーゼは、国家間の外交的な結びつきを強化すべく、1793年プロイセン王太子フリードリヒ・ウィルヘルムと結婚します。

その4年後、夫がウィルヘルム3世として即位するに伴い、彼女は21歳の若さで王妃として君臨することになりました。
この結婚は政治的な意味合いが強いものでしたが、次第にルイーゼは単なる王妃にとどまらず、国王を支える重要な存在となっていきます。

夫ウィルヘルム3世は内向的で消極的、対するルイーゼは有言実行で明るく積極的、人を惹きつける魅力にあふれていました。

また、ウィルヘルム3世は漁色家であった父ウィルヘルム2世とは全く異なり、ルイーゼ以外の女性には見向きもしませんでした。ルイーゼもその真摯な愛に応えるよう、2人の結婚生活の間には9人の子どもが産まれます。

こうして夫妻は対照的な性格でありながら、強い絆で結ばれ、仲睦まじい家庭を築いていきました。

迫りくるナポレオン

画像 : ナポレオン1世 public domain

しかし、この国王夫妻の穏やかな生活も、ヨーロッパの激動する情勢の影響を受けずにはいられませんでした。

1800年代初頭、ナポレオン1世ことナポレオン・ボナパルトがフランス帝国を築き、ヨーロッパ各国に対する支配を強めていく中で、プロイセン王国もその余波を大きく受けることになります。

一方、きわめて敬虔なキリスト教徒であったウィルヘルム3世は、戦争を絶対悪とみなし、平和の維持を固持するあまり、国家にとって必要な決断を下すことをためらい続けました。

フランス側か、反ナポレオン側か、どちらにつくのかはっきりしないウィルヘルム3世の優柔不断な態度は、反ナポレオンで燃え上がる欧州にとって、一種の挑発にもなり得る状態だったのです。

当初、政治には積極的に関与していなかったルイーゼも、夫が維持しようとする「中立」の立場が、プロイセンにとって不名誉であり、危険なものであることに気づきます。

厳しい現実に目を背け、流されるままになっている国王とは対照的に、ルイーゼは戦争への備えが必要であると認識し、積極的に周囲の意見に耳を傾けるようになりました。

あえなく都落ち

画像:ロシア皇帝アレクサンドル1世 public domain

こうした国王の優柔不断さに対するルイーゼの危惧は、やがて現実のものとなりました。

フランスにも、その敵対勢力であるロシアにも肩入れしないウィルヘルム3世の態度は、かえってナポレオンを苛立たせ、ついに進軍を招いてしまったのです。

ルイーゼはこの危機に際し、ロシア皇帝アレクサンドル1世に宛てて、「わたしは神を信じるように、陛下を信じております。わたしの心も魂も陛下に捧げます」との熱烈な書簡を送り、プロイセンへの支援を懇願しました。

一方、ルイーゼのこうした外交活動はナポレオン1世の反感を買い、彼女を「反フランスの象徴」として危険視するようになります。
フランス側のプロパガンダでは、彼女を「戦争を煽る女王」として風刺し、「戦いに飢えたアマゾネス」と揶揄しました。

こうしてルイーゼは必死に同盟国への支援を求めましたが、戦況は芳しくなく、1806年10月、アウエルシュタットの戦いでプロイセンは決定的な敗北を喫します。

プロイセンの敗北後、ウィルヘルム3世とルイーゼは、ナポレオンの圧力から逃れるため、東方のケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)へ避難を余儀なくされました。

奮闘する王妃

画像:(左から)ティルジットでのナポレオン、アレクサンドル1世、ルイーゼ、ウィルヘルム3世 public domain

ルイーゼにとって、この時期は非常に辛いものでした。

国の存亡が危うくなった状況においても、民衆の前では冷静に振る舞わねばなりませんでした。
ルイーゼはプロイセン王妃として国民に希望を与え続け、戦いの最中でも常に前向きなメッセージを送りました。

特に、彼女の美しさと人格は、ナポレオンの支配に屈しない強い意志の象徴となり、多くの国民が彼女に期待を寄せました。

敗軍の将の妻となったルイーゼでしたが、成す術の無い夫に代わり、講和条件を何とか緩和すべく懐柔策を図ろうとします。

1807年7月、ティルジットで行なわれたナポレオンとの会談では、存在感を発揮できない国王に代わって果敢に交渉に臨みました。彼女は毅然とした態度でナポレオンと対峙し、プロイセンの領土削減を少しでも緩和しようと試みました。

結局、講和条約自体はプロイセンにとって圧倒的不利な条件で取りまとめられたものの、プロイセンは亡国を免れ、最後まで不屈の姿勢を崩さなかった王妃ルイーゼにはナポレオンも一目置かざるを得ませんでした。

早すぎる最期

画像:ルイーゼの肖像画(1801年) public domain

王妃として全力でプロイセンの精神的支柱となったルイーゼでしたが、1810年、父である大公カール2世のもとで穏やかな時間を過ごした後、突然発熱し、たった3週間の間に肺炎をこじらせ、34歳で永遠の眠りについてしまいました。

ルイーゼの早すぎる死は、夫フリードリヒ3世だけでなく、国民にも深い衝撃と哀しみを与えました。

しかし、一時は亡国の危機に瀕しながらも、やがてプロイセンが復興し、後のドイツ統一へとつながる道を歩み始めた背景には、ルイーゼの存在が大きく影響を与えていたと言えるでしょう。

参考文献:ロイヤルカップルが変えた世界史 下:フリードリヒ・ヴィルヘルム三世とルイーゼからニコライ二世とアレクサンドラまで/ジャン=フランソワ・ソルノン(著),神田 順子(翻訳),清水 珠代(翻訳)
文 / 草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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