西洋史

【ホロコーストの犠牲者】アンネ・フランクが受けた迫害と15年の人生「アンネの日記」

1933年から1945年にかけて、ナチス・ドイツ政権と同盟国では、ユダヤ人の迫害、大量虐殺が行われました。

ユダヤ人であることを理由に逮捕し、強制労働を課したり、劣悪な環境下に置いたことは非常に有名です。

この激動の時代を生きた少女がいました。彼女の名はアンネ・フランク

ユダヤ人が身を潜めた隠れ家での生活や、当時の様子が書かれた「アンネの日記」の作者です。

彼女はこの激動の時代を生きて15年という短い人生を終えました。アンネはどのような人生を歩んだのでしょうか。

今回は、アンネ・フランクの人生とその背景を紹介します。

幼少期のアンネとナチス

画像:幼少期のアンネ(右)。左は姉のマルゴー、真ん中は当時の友人。 Frank Behnsen CC BY-SA 3.0

アンネ・フランクは1929年6月12日、ドイツのフランクフルト・アム・マインで生まれました。

アンネ・フランクはいわゆる通称で、本名はアンネリース・マリー・フランク。

銀行商である父のオットー・フランクと、資産家の娘だったエーディト・フランクの間に生まれました。

3つ上の姉であるマルゴット・ベッティ・フランクも合わせて4人家族で、生まれ故郷であるフランクフルトで生活していました。

画像:1933年3月握手を交わすアドルフ・ヒトラー(左)とパウル・フォン・ヒンデンブルク Bundesarchiv, Bild 183-S38324 / CC-BY-SA 3.0

この頃のドイツは、世界恐慌によって急速に景気が悪化し、大量の失業者が出た関係で治安が悪化していました。

そんな中で台頭したのがアドルフ・ヒトラーです。

彼は反ユダヤ主義を公然と掲げており、フランクフルトでも、ナチ党主導による反ユダヤ主義的な街頭行動が行われていました。

そして1933年1月、ヒトラーが首相に任命され、ドイツの政権を掌握します。

これを契機に、反ユダヤ主義的な街頭活動や商店ボイコットが各地で激化し、ナチスが政権を掌握した1933年だけで、約63,000人ものユダヤ人が国外へ亡命しました。

反ユダヤ主義の政策は進められ、同年4月に制定された職業官吏再建法によってユダヤ人の子どもの隔離も進められます。

アンネと姉のマルゴーは、ドイツでまともな勉学を受けられなくなってしまいました。

こうした状況を憂いたのが、アンネの叔父であるエーリヒ・エリーアスでした。

彼は義弟であるオットーに、ジャムで使うペクチンを取り扱う会社の仕事をすすめます。そして、それを理由にオランダのアムステルダムに亡命しないかと持ちかけたのです。

オットーは、ドイツで反ユダヤ政策が本格化しつつある現実を前に、このまま国内にとどまるのは危険だと判断しました。

こうしてフランク一家は1933年6月にドイツを離れ、オランダのアムステルダムへと移り住みます。

オランダでの生活

画像:オランダ・アムステルダムのメルウェーデ広場とアンネ・フランク像 Franklin Heijnen – Merwedeplein CC BY-SA 2.0

元々人見知りしない性格だったためか、アンネはオランダの生活にすぐに慣れました。

1935年9月にモンテッソーリ・スクールに入学し、勉学に励みます。

モンテッソーリ・スクールは、自由な教育方針で、時間割を設定せずに生徒たちの自主性に任せる学校でした。

アンネは椅子に座ってじっとするのが苦手だったようで、自由な校風のモンテッソーリ・スクールはアンネに最適の学校でした。

アンネは当時から陽気な性格で、友達も多かったといいます。学校ではクラスの中心人物だったかもしれません。

オットーはペクチンの会社を経営しながら、香辛料の販売を行う会社も設立しました。
のちに隠れ家生活を共にするファン・ペルス一家とは、ここからの付き合いになります。

決して裕福な暮らしではありませんでしたが、この頃のフランク一家は比較的穏やかに過ごせていたようです。

オランダ侵攻

画像:1940年5月、アムステルダム市に入るドイツ軍を歓迎するアムステルダム市民。 Bundesarchiv, Bild 183-L23001 / CC-BY-SA 3.0

オランダに亡命してから平穏に過ごしていたフランク一家ですが、その生活が脅かされる事件が起こります。

それが、1940年5月に起きたドイツ軍のオランダ侵攻です。

この約1年前、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が発生しました。

ドイツ軍は勢いを付けてオランダにも侵攻してきたのです。
結果、オランダは5日間の抵抗の末に降伏し、ナチスドイツの手に落ちました。

それをきっかけに、ドイツ軍は徐々にオランダに住むユダヤ人に制限をかけていきました。

映画館や公園、プールなどの娯楽施設の利用が禁じられ、ユダヤ人が会社を経営することも禁止されたため、オットーは会社を手放さざるを得なくなりました。

さらに、1941年8月にはユダヤ人の一般学校への通学も禁止され、マルゴーとアンネはユダヤ人学校への転校を余儀なくされます。

画像:ユダヤ人が着用を強制されたダビデ星 Nagle CC BY-SA 3.0

ナチスによる迫害政策は、さらに激化していきました。

1942年5月には、ユダヤ人に黄色いダビデ星の着用が義務付けられ、外見から一目で判別できるようになります。

この頃には強制収容所での強制労働も始まり、オランダに住むユダヤ人の不安は日に日に高まっていました。

そして1942年7月、アンネたちフランク一家にも恐れていたことが起こります。

姉のマルゴーに、ナチスから労働奉仕への出頭命令が届いたのです。

出頭すれば強制労働に就かされる可能性が高いと危惧したオットーは、準備途中だった隠れ家へ移ることを決めました。

そして長い潜伏生活が始まるのです。

画像:アンネたちの隠れ家があったプリンセン運河通り267-275番地。Rijksdienst voor het Cultureel Erfgoed CC BY-SA 4.0

隠れ家は建物の3階。

本棚で隠された部屋で、3階と4階が隠れ家としてあてがわれていました。

隠れ家のメンバーはフランク一家と元同僚であるファン・ペルス一家、歯医者を営んでいたフリッツ・プフェファーの8人で生活していました。

アンネの日記

画像:ベルリンのアンネ・フランク・ツェントルムに展示されている『アンネの日記』 Rodrigo Galindez – Flickr: Anne Frank Zentrum CC BY-SA 2.0

隠れ家生活に移る約1ヶ月前、アンネは13歳の誕生日を迎えました。

その際に、誕生日プレゼントとして1冊の日記をもらいます。これが後にベストセラーとなる「アンネの日記」です。

アンネはとても喜び、日記に「キティー」と名前を付けて、何でも話せる1人の友人として扱いました。

あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、なにもかもお話しできそうです。どうかわたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいね。

これは、アンネが初日の日記に書いた一節です。

この文章の通り、アンネは自分の考えや小説などを書き連ねました。

隠れ家生活が始まると、母や姉との衝突、同じ部屋で暮らしていたフリッツ氏への愚痴などが、日記に書かれるようになります。

中盤に差し掛かると、ファン一家の一人息子であるペーターとの恋模様も描かれていて、年相応の女の子であることが分かります。

逮捕へ

画像:アンネたちを逮捕したカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー親衛隊隊長 public domain

隠れ家生活を始めて2年後、事態は動き始めます。

1944年8月、ついに隠れ家が警察に発見され、そこに身を潜めていた8人全員が逮捕されたのです。

この摘発は何者かの密告によるものと考えられていますが、通報者が誰だったのかは今も分かっていません。

警察による家宅捜索では貴重品が押収されましたが、「アンネの日記」はその場で見つからずに残されました。

日記は、逮捕を免れた協力者の1人であるヤン・ヒースが戦後まで大切に保管し、のちにオットーへと手渡しています。

もしこのとき日記まで押収されていれば、アンネの名が後世に知られることはなかったかもしれません。

アンネたちは、オランダのヴェステルボルク収容所を経由して、ポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に移送されます。

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所は、アウシュヴィッツと第二収容所ビルケナウ収容所に分かれています。

男女に分かれているため、到着と同時に分けられ、オットーとは今生の別れとなってしまいました。

収容所での生活

画像:「死の門」・アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)の鉄道引込線 wiki c C.Puisney

アンネたちがビルケナウ収容所につくと、髪を丸刈りにされ、左腕には囚人ナンバーの刺青をされました。

少ない食事で、朝から晩まで働かされる生活を送ります。

隠れ家で生活していた時は対立も多かったアンネと母エーディト、姉マルゴーでしたが、収容所生活では協力しあって生きていたようです。

特に、エーディトは自分の食事も娘に分け与えていたようで、献身的に尽くしていました。

逮捕から約2か月後の1944年10月、ドイツ軍はソ連軍の接近を受け、アウシュヴィッツ強制収容所の撤退を進めていました。

その過程で、収容されていたユダヤ人の一部が、ドイツ国内のベルゲン・ベルゼン強制収容所へと移送されることになります。

アンネとマルゴーはその選別に選ばれ、エーディトとも切り離されました。

画像:ベルゲン・ベルゼン強制収容所の入口 Arne List CC BY-SA 3.0

ベルゲン・ベルゼン強制収容所への移送は4日にかけて行われ、その間食事を与えられず、アンネたちは衰弱していきます。

到着したベルゲン・ベルゼン強制収容所は非常に不潔で、伝染病が蔓延していました。

寒い環境下で食事もまともに与えられず、2人はどんどんと衰弱していき、やがて発疹チフスを発症してしまいます。

これが原因となり、1945年2月に2人は亡くなりました。

マルゴーの死後数日で、後を追うようにアンネが亡くなったとされています。

ベルゲン・ベルゼン強制収容所がイギリス軍によって解放される、2ヶ月前の話でした。

最後に

アンネは激動の時代を生き、15年の短い人生を終えました。

隠れ家のメンバー8人の中で生き残ったのは、父のオットーだけでした。

彼は戦後、「アンネの日記」を推敲して出版し、その後この日記は15か国で刊行される世界的なベストセラーとなりました。

作家になりたいというアンネの夢は、死後に実現したのです。

参考 :
アンネ・フランク『アンネの日記 増補新訂版』文藝春秋
『Who was Anne Frank?』他

文 / 岩崎由菜 校正 / 草の実堂編集部

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岩崎由菜

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