1789年、フランスでブルボン朝を打倒する市民革命が勃発。
それはフランス革命と呼ばれた。
改革の余波が自国へ及ぶことを恐れた周辺諸国は対仏大同盟を結び、革命を抑え込もうとする。これに対し、1804年にフランス皇帝となったナポレオン・ボナパルトは、「革命の理念拡大させる」ことを名目に征服戦争を開始した。
これが「ナポレオン戦争」の始まりである。
フランス軍進行
※ナポレオンはウルムでマック元帥のオーストリア軍の降伏を受け入れた。
打倒ナポレオンを掲げたイギリス、オーストリア、ロシアなどが第三次対仏大同盟を組んだのは1805年のことだった。同年9月、マック将軍率いる7万のオーストリア軍がフランス帝国の同盟国であるバイエルンへ侵攻、ナポレオンも20万以上のフランス軍を率いてバイエルン救援に赴いた。
フランス軍は南下してくるクトゥーゾフ将軍のロシア軍と合流しようとするマック軍をウルムの町に包囲し、10月19日にはこれを降伏させた。そのままオーストリア領内まで侵攻したフランス軍は、11月13日にはウィーンへと入城し、大量の食料と武器弾薬を奪取することに成功する。ウルムでの包囲を逃れた残存オーストリア軍は、どうにかロシア軍と合流したが、この同盟軍にはオーストリア皇帝フランツ1世とロシア皇帝アレクサンドル1世も合流していた。
緒戦でのオーストリア軍の敗走を受け、作戦会議では一時撤退するべきというクトゥーゾフ将軍の冷静な進言があったものの、ウィーンを取り戻したいフランツ1世と、若くて血気盛んなアレクサンドル1世の判断により、最終的にはナポレオンに決戦を挑むこととなった。
プラツェン高地の罠
※アウステルリッツの風景。現在はチェコ共和国スラフコフ・ウ・ブルナとなっている。
一方のナポレオンは危うい立場にあった。
北からは対仏大同盟に荷担するプロイセン軍が、南からはカール大公のオーストリア軍別働隊が迫りつつあったのだ。この包囲網を破るには、正面にいる同盟軍を撃破するのが一番だと考えたナポレオンは、敵を誘い込むための罠を張った。フランス軍はウィーン北方のアウステルリッツに進出し、周囲が見渡せて戦闘に有利なプラツェン高地を奪取したが、敢えてその場所から後退したのだ。
12月1日、アウステルリッツまで南下してきた同盟軍は、有利な地形を手放したナポレオンは弱気になっていると判断して、罠とは知らずにプラツェン高地を奪い、全軍合わせて8万以上の大軍を配置した。
実は、事前にナポレオンはこの戦闘を避けたがっているという情報をわざと敵側へリークさせており、一度プラツェン高地に留まったときには元帥たちに「ここが戦場となる。諸君はこの地を念入りに調べておけ」と繰り返し話していたという。高地とはいうが実際は標高が12mほどの丘陵地帯であり、絶対的な優位を得る場所とはいえなかったのだ。
ナポレオンの賭け
※1805年12月1日時点の布陣。フランス軍(青)、同盟軍(赤)。同盟軍中央の密集しているのがプラッツェン高地で、対するフランス軍の右翼(南側)が手薄になっているのがわかる。
しかし、この罠は賭けでもあった。
プロイセンとカール大公への抑えやウィーンの警備に兵力を割いたため、主力の兵力は6万強しか残っていない。急ぎウィーンから呼び寄せたダヴー元帥の軍団が到着しても7万程度で、同盟軍よりも数で負けている。しかも、ナポレオンは作戦のためにフランス軍の右翼を弱体化させていた。このため、元帥のなかには撤退を進言するものもいたが、ナポレオンはこう答えただけだった。
「もしも、ロシア軍が(こちらの)右翼へ向かうべくプラッツェン高地を離れたなら、彼らは確実に敗北するだろう」と。
彼には勝算があったのだ。
プラッツェン高地の上からフランス軍の布陣を見た同盟軍は右翼が手薄になっていることに気付いた。12月2日の朝、濃霧のなかで開始された同盟軍主力による攻撃は、当然、フランス軍右翼に集中する。苦戦したフランス軍は、ダヴー軍団が駆けつけていなければ突破されてしまうところだった。
フランス軍の反撃、そして決着
※アウステルリッツの戦いのナポレオン
あと一押しで突破できると判断した同盟軍は、自軍中央から部隊を引き抜いてフランス軍右翼へと向かわせる。
ナポレオンはまさにその瞬間を待っていた。
フランス軍右翼に兵力を集中した同盟軍の中央が手薄になったのだ。この状況を作り出すため、ナポレオンは敢えて自軍の右翼を手薄にして、敵をおびき寄せたのである。
午前9時、ナポレオンは高地からも見えない窪地に潜ませていたスールト元帥の軍団に敵中央部への攻撃を命じた。スールト軍の兵力は約23,000。濃霧による隠蔽効果もあり、高地の同盟軍将兵には突如として新手の敵が現れたように思えた。そして、フランス軍の前進とともに霧が晴れて太陽が現れたことにより、この進軍は「アウステルリッツの太陽」として知られるようになる。一方の同盟軍は混乱し、フランス軍右翼に向かわせた部隊を引き返させようとしたが、すでに手遅れであった。
中央部隊を討ち破ったスールトらは進撃の方向を変え、次は自軍右翼に向かっていた敵部隊に襲い掛かった。中央ではロシア近衛隊が反撃するも、ナポレオンは予備兵力のベルナドット元帥の軍団約13,000と近衛騎兵を投入してこれを撃破した。
新しい情勢へ
※会戦後のナポレオンとフランツ1世との会見。
フランス軍左翼でもランヌとミュラ両元帥の軍が前面のロシア軍を押し返していた。ここでアレクサンドル1世は敗北を認め、ついに全軍に退却命令を出す。この戦いによるフランス軍の死者が1305人であったのに対し、同盟軍は死者15,000、捕虜13,000ともいわれている。
さらに北側では、戦いに敗れたロシア兵がウィーンへ向けて逃げようと、凍結したザッチャン池をわたろうとした。そこにフランス軍の砲撃により氷が割れ、多くのロシア兵と大砲が凍てつく池に沈んだという。溺れかけたロシア兵の多くはフランス兵によって救助されたが、少なくとも100名が死亡した。
3人の皇帝が戦場に集ったことで三帝会戦とも呼ばれるこの戦いの二日後、オーストリア皇帝フランツ1世は、フランスとの間で和約を結び、領土を割譲した上で対仏同盟から脱落することとなった。こうして劣勢を跳ね返して大勝利を収めたナポレオンの名声は高まったが、それは同時にフランスへの警戒感をより強めることになり、新たな対仏大同盟の結成を招くのであった。
最後に
この戦いこそ、ナポレオンにとって本領発揮といったところだろう。
同時期にトラファルガーの海戦でフランス軍は大敗を喫している。にもかかわらず、指揮を下げることなく見事な戦術を見せた。もっとも、敵が合同軍だったことも影響している。ナポレオンの指示系統が一本だったのに対し、敵はオーストリア軍とロシア軍という二系統だったのだ。当然、一度戦局が混乱してしまえば収拾するのは難しい。
そこまで読んだナポレオンの勝利である。
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