西洋史

神聖ローマ帝国は、帝国とは言いづらい異色の国家だった

名前だけと言われた 神聖ローマ帝国

『神聖ローマ帝国と自称しているこの集団は、いかなる点においても神聖でもなければローマでもなく、ましてや帝国ですらない』

これは18世紀のフランスの哲学者であるヴォルテールが残した言葉なのだが、神聖ローマ帝国という国は、このようなカッコいい名前にもかかわらず、末期には帝国としての意義を果たしていなかったのである。

今回はそんな神聖ローマ帝国の歴史と、なぜこんな名前になったのかを見ていきましょう。

神聖ローマ帝国の誕生

神聖ローマ帝国

神聖ローマ帝国の国旗

神聖ローマ帝国は962年に東フランク王国のオットー1世が、マジャール人を撃退した功績が認められ、ローマ教皇からローマ帝国の皇帝の冠を授けられたことから始まります。

しかし、そのため最初の頃のこの帝国の名前はローマ帝国

周辺の国(特に東ローマ帝国)からは、ローマ教皇から皇帝の座が与えられたドイツ人の国としか見られてはいませんでした。

叙任権闘争

こうして神聖ローマ帝国は教皇の下で誕生しましたが、時代が経つと皇帝たちはローマ教皇が腐敗していることを根拠に、聖職者を任命する権利である叙任権を巡って争いが始まっていきます。

神聖ローマ帝国

※カノッサの屈辱 ハインリヒ4世(中央)、トスカーナ女伯マティルデ(右)、クリュニー修道院長(左)

最初は破門という強大な力を持っていた教皇がリードしており、皇帝ハインリヒ4世カノッサの屈辱※破門されたハインリヒ4世が解除を願いカノッサ城門の前で裸足で断食と祈りを続けた事件)を強いられましたが、後にハインリヒ4世がドイツ諸侯を集めて反撃。

一転して皇帝が優位となり教皇はローマから追い出されてしまいます。

このように一進一退を続けていた叙任権闘争は、1122年に一応ヴォルムス条約にて妥協という形をとり終結しました。

神聖ローマ帝国の最盛期と大空位時代

こうして叙任権闘争を乗り越えた神聖ローマ帝国。皇帝たちは、次は名前にあるローマを奪取しようとイタリア政策を押し通していきます。

その中でも赤髭王とも呼ばれたフリードリヒ1世(バルバロッサ)にはミラノを始め諸都市を征服。さらには国名を神聖帝国と改めて、皇帝と教皇は対等な立場ということを示していきます。

しかし、フリードリヒ1世の死後、神聖ローマ帝国は皇帝がいない大空位時代に突入。その間もイタリア政策を続けていたため、領内の領主たちは自身が皇帝と僭称して混乱を招きました。

ちなみに、大空位時代の混乱の最中であった1254年に、ついに国名が神聖ローマ帝国となります。

ハプスブルク家の台頭

大空位時代の後に皇帝の座はハプスブルク家・ルクセンブルク家など、様々な家が目まぐるしく変わっていく時代でしたが、カール4世が1356年に金印勅書を発布すると皇帝になれる家を7つに固定し、さらにルクセンブルク家が断絶した1438年以降になると、ハプスブルク家が皇帝の座を独占します。

こうしてついにハプスブルク家が神聖ローマ帝国の皇帝の座に就きましたが、1519年にカール5世が皇帝に選ばれると、ハプスブルク家はスペイン・オランダ・ハンガリーを治める大帝国に登りつめます。

神聖ローマ帝国

※神聖ローマ帝国の領域の変遷 wiki(c)Jaspe

しかし、この領土の拡大が返って仇となってしまい、ハプスブルク家は各地で分裂。

フェルディナント1世によってオーストリア帝国が誕生して、これ以降はウィーンが帝都となっていきました。

三十年戦争【帝国の死亡証明書】

三十年戦争の図 神聖ローマ帝国の死亡証明書と呼ばれた一方でヨーロッパにおける主権国家体制が形成されていった

このような混乱もあり、17世紀に入ると神聖ローマ帝国の影響力はイタリアにはもはや及ばなく、ドイツ領内に限られるようになります。

また、この頃ルターによって宗教改革が始まると、神聖ローマ帝国は各地の諸侯に対してカトリック(旧教)の信仰を強制させ、チェコのプラハにおいてベーメンの反乱を引き起こしてしまいます。

こうして神聖ローマ帝国領内では、各地で新教と旧教に分かれて三十年戦争が勃発。ドイツの地を荒廃させてしまいます。

さらに挙げ句の果てには、この三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約において、諸侯の主権を容認してしまいます。

これはつまりどういうことかというと、ドイツの諸侯が主権を持って独立すると、それをまとめている神聖ローマ帝国がある意義が失われてしまい、実質的に帝国は解体されてしまったのです。

こうして神聖ローマ帝国は存在する意義を失ってしまい、オーストリア帝国に保護されながら、ナポレオンがオーストリア帝国をアウステルリッツ三帝会戦にて破る1805年に、ひっそりと消滅したのでした。

 

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