イギリスの女王と言えば、大英帝国の栄光を象徴するエリザベス1世やヴィクトリア女王が有名ですが、その歴史を紐解くと、彼女たち以外にも個性豊かな女王たちが登場します。
今回はそんな一人、紀元1世紀に活躍したイケニ族の女王・ボウディッカ(Boudicca。生年不詳~西暦61年ごろ)のエピソードを調べてみたので、彼女の人生を紹介したいと思います。
ローマ帝国との共存を望んだイケニ族だが……
イケニ族とはブリテン島の先住民族であるケルト人王朝の一つで、現代のノーフォーク州一帯に勢力を築いていました。
そこへやって来たのが、古代ヨーロッパ史を語る上で欠かせないローマ帝国。紀元前55年から54年にかけてカエサル(シーザー)が攻めて来たのを皮切りに、90年以上にわたる攻防戦が繰り広げられます。
そしてついに西暦43年、第4代ローマ皇帝クラウディウスによってブリテン島が制圧され、北部スコットランドを除いてブリタンニア属州とされました。
多くのケルト人王朝が滅ぼされる中で、ローマ帝国との協調姿勢を示したイケニ族の王プラスタグス(ボウディッカの夫。生年不詳~西暦60年ごろ)は、同盟領主として辛うじて所領を安堵されたものの、国家主権(交戦権や通貨の発行、外交権など)に大きく制限がかけられる屈辱的な関係を強いられます。
この頃からローマ帝国の先進的な文化がブリテン島へ流入し、その恩恵を享受した側面もあるものの、とかく文化活動にはカネがかかるため、ローマ的な都市整備をはじめケルト人の経済的負担は過大なものとなっていきました。
そこで現れたのがローマの高利貸し。彼らはブリテン島に新規市場を開拓するべく、大勢で乗り込んではケルト人から暴利を貪ったのです。
それでもローマ帝国と事を荒立てたくなかったプラスタグスは、平和を第一に考えて妥協と忍従、そして人民に対する慰撫を続けましたが、ついに破滅の時を迎えます。
遺産を奪われ、身を鞭打たれ……
プラスタグスはボウディッカとの間に2人の娘を授かったものの男子はおらず、プラスタグスは死に際して
「我らが王国は、我が2人の娘と皇帝陛下(第5代ローマ皇帝ネロ)に相続して欲しい」
と遺言。あえてローマ皇帝を相続人に加えることで親ローマ姿勢を示すと共に、他の者に対する牽制効果(遺産・遺領の保護)を期待したものでした。
しかし、その思いはあっけなく踏みにじられてしまいます。
「ローマ法では、女子の財産相続は認められていない。すなわち、プラスタグスは我一人をのみ相続人と定めたのだ」
皇帝ネロはそう宣言するなり、イケニ族の領土をすべて没収してしまいます。
「何という理不尽な!ブリテン島では昔から、男女に関係なく財産が受け継がれて来たのに!」
遺されたボウディッカは皇帝ネロに対して抗議しますが、女性の言うことなど聞く耳持たず、それどころかイケニ族に対する見せしめとして、鞭打ちの刑に処されました。
更にはあろうことか、ボウディッカが正当な相続人として連れて来た2人の娘たちは、ローマ兵士によって散々に凌辱されてしまいます。
この一件以来、ローマの高利貸したちは「皇帝ネロは、イケニ族を保護する意思がない≒何をしても咎められない」と判断。手負いの獣に群がるハゲタカのように、残り少ないイケニ王族の財産を根こそぎむしり取っていきました。
強欲なブリタンニア行政長官デキアヌス・カトゥスをはじめ、それまでプラスタグスはじめイケニ王室に贈呈してきた金品をすべて貸し付けていたことにして法外な利息をふっかけ、借金のカタとしてイケニ王族たちを片っ端から奴隷の身分に落とし、売り飛ばしてしまいます。
「おのれ、ローマの蛮族ども……この怨み、晴らさでおくべきか!」
2人の娘を連れて命からがら逃げ出したボウディッカは、暴虐なるローマ帝国に対して復讐の叛旗をひるがえす事となったのでした。
ケルト人の怒りを結集、いざカムロデゥヌムへ!
「皆の者、聞くがいい!これまで我々はローマ帝国との協調を図り、どれだけの忍従を強いられて来ただろうか……しかし永年の誠意が実ることはなく、彼らは暴力をもって我々の尊厳を蹂躙した……『ローマはケルト人との友好を望まない』それが答えだ!」
「……ならば我らに残された選択肢は二つ。強欲なローマの高利貸しに魂を売り渡したまま卑屈に命を永らえるか、さもなくば、抑圧された自由を取り戻すべく身命を擲(なげう)って戦うかだ……!」
ボウディッカの演説に対して、圧政に苦しめられていたトリノヴァンテス族など多くのケルト人が共感。叛乱軍は最大で23万人にまで膨れ上がったと言いますから、よほど反ローマ感情が鬱屈し、ブリテン島に蔓延していたかが分かります。
さぁ、兵を挙げた以上は迅速に計画を進めなければなりません。という訳で、叛乱軍はあらかじめ攻撃目標を植民都市カムロデゥヌム(現:コルチェスター)に定めていました。
ここはローマ帝国のブリテン島支配を象徴する主要都市で、ここを攻略できればその後の展開を有利に進めやすくなります。
カムロデゥヌムを支配していたブリタンニア総督スエトニウス・パウリヌスは、その時ウェールズのモナ島(現:アングルシー島)で起きた叛乱の鎮圧に遠征していて不在でした。
叛乱軍がカムロデゥヌムに進撃しているとの報せを受けたスエトニウスは、ロンディニウム(現:ロンドン)を守備していた、あの強欲なカトゥスに援軍を要請しますが、カトゥスが派遣したのは満足な装備もない予備隊200名。
まさに焼け石に水。破竹の勢いを見せるボウディッカの叛乱軍に抗しうる筈もなく、カムロデゥヌムはあえなく陥落。そのままロンディニウムへ進撃すると、恐れをなした強欲なカトゥスは海を渡って大陸へと逃げ帰ってしまいました。
それを知ったスエトニウスは、ロンディニウムの放棄を決断。その北方にあるウェラミウム(現:セント・オールバンズ)ともども、叛乱軍の蹂躙するに任せます。
結局、カムロデゥヌムとロンディニウム、そしてウェラミウムの3都市は焦土と化し、7万人から8万人とも言われる住民が、片っ端から吊るし首や火あぶりなど、惨たらしく殺されたとの事です。
普通、攻略した都市の住民は手向かいしなければ奴隷として売り飛ばしたり、身分の高い者であれば身代金を要求したりと言った「商業活動」が行われるのが当時の常識でしたが、ボウディッカをはじめ叛乱軍の目的は、利益よりも踏みにじられた尊厳の報復。
永年にわたって虐げられ続けたケルト人たちの怒りが、どれほど深いものであったかがうかがわれます。
スエトニウスの戦略と、ボウディッカの悲壮な決意
さて、3都市を見殺しにして時間を稼いだスエトニウスは、モナ島遠征から率いていた精鋭第14軍団をはじめ各隊からの援軍を加えた1万の兵を再編成。ボウディッカ率いる叛乱軍との決戦地を、ワトリング街道の付近に選びました。
そして、三方を丘と森林に囲まれた場所に陣取って叛乱軍を待ち受けます。こうすることで、20倍以上の敵に完全包囲されるリスクを抑え、前面の敵だけに集中できるのです。
一方の叛乱軍は兵の数こそ圧倒的ですが、その中には女子供や老人など、明らかに戦力外の人員も少なからず含まれており、精鋭揃いのローマ軍を相手に、決して油断は出来ません。
決戦を前に、ボウディッカはこのように演説します。
「ブリタンニア人は、昔からよく女の指揮の下に戦争をしてきた。しかしいまは、偉大な王家の子孫として、私の王家と富のために戦うのではない。人民の一人として、奪われた自由と、鞭でうたれた体と、凌辱された娘の貞節のため、復讐するのである。ローマ人の情欲は、もう私らの体はおろか、年寄の女や処女までも、一人のこらず辱めずにはおかないまでに烈しくなった。しかし神々は私らの正義の復讐を加護している。(中略)戦争の原因を考えるなら、この戦いにどうしても勝たねばならない。でなかったら死ぬべきである。これが一人の女としての決心である。男らは生き残って奴隷となろうと、勝手である」
※タキトゥス『年代記(国原吉之助 訳)』より。
命が惜しい男たちは今すぐ降伏し、ローマ帝国の奴隷として卑屈な余生を貪るがいい。誇り高きブリタンニア人として、また一人の女性として、自由と尊厳のために私は命を惜しむまい……悲壮なボウディッカの決意を前に、全軍が奮い立ったことでしょう。
「男だからって、我らを見くびらないで貰いたい!」
「そうとも、今こそ自由と尊厳のために戦いましょう!」
「女王殿下、万歳!」
いよいよ決戦の火蓋が切って落とされ、23万人の叛乱軍が1万人のローマ軍に殺到しました。
「敵は少数だ!一気に押しつぶしてやれ!」
そう怒涛のごとく攻め寄せた叛乱軍でしたが、スエトニウスは名うての戦上手、地の利を最大限に活かして寡兵で大軍を受け止め、着実に各個撃破していきます。
「前線は何をしているんだ!押せ!押せ!押せ!」
「早くしろ!俺も前に出て戦うぞ!」
「待て!態勢を整えろ!勝手に動くな!」
人数は多くても統制のとれない叛乱軍は、精鋭のローマ軍を前に次々と倒されてしまい、前線の者は退くに退けず、後方の者は進むに進めないまま、疲労の色が濃くなって来ました。
そしてついに戦線の一角が崩れると、元より烏合の衆に過ぎない叛乱軍は、つい数時間前の威勢も忘れて我先にと逃げ出します。
しかし、叛乱軍は各家庭単位で荷駄や女子供や老人を連れていることが多く、それが足手まといとなって逃げ遅れた結果、この一戦で8万人以上の戦死者を数えました。対するローマ軍の戦死者は約400人に留まり、まさに完敗と言えます。
この後世に言う「ワトリング街道の戦い」で、ボウディッカは敗戦の責任をとって服毒自殺したとも、あるいは捲土重来を期して一時戦線離脱したものの、病死してしまったとも言われています。
エピローグ
かくして古代ブリテン島における最大級の叛乱は終結しましたが、それ以降もケルト人による叛乱が各地で頻発。最初は武力鎮圧に専念していたローマ帝国も、やがて方針を転換。
勝利に驕ってケルト人を弾圧していたスエトニウスを更迭し、次第にケルト人との融和共存を図る「ローマンブリテン(ローマによるブリテン島の平和)」時代に入っていくのでした。
ボウディッカは敗れこそしましたが、死してなお受け継がれたその志はケルト人の誇りとして、今なおブリテンの地に息づいています。
※参考文献:
桜井俊彰『物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説 (集英社新書)』
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