ルイ15世(1710~1774)といえば、わずか5歳で即位し、その奔放な私生活から最愛王と呼ばれたフランスの王である。
64歳で天然痘により死去するまでは、多くの愛人を抱え、彼女たちはルイ15世の治世に大きな影響を与えたとされている。
ルイ15世の愛人の中で最も有名なのが、のちのフランス革命の時にギロチン台に送られることになったデュ・バリー夫人と、【七年戦争】で大活躍をしたポンパドゥール夫人(1721~1764)である。
今回は、平民から国王の公妾と成り上がった野心的な女性、ポンパドゥール侯爵夫人(ジャンヌ=アントワネット・ポワソン)の生涯について追っていく。
銀行家の娘が国王の公妾に
ポンパドゥール夫人ことジャンヌ=アントワネット(Jeanne-Antoinette PoissonMadame de Pompadour)は1721年12月29日パリに生まれた。
父親に関しては複雑で、法律上の父親は職工のフランソワ・ポワソンとなっているが、実の父は徴税請負人か銀行家だったらしく、ポワソンと似ていないことは当時も噂になっていたという。そして父ポワソンはジャンヌが3歳の時に金銭関係のトラブルにより夜逃げ。
その後、ジャンヌは5歳から9歳まで女子修道院で教育を受けることとなる。成績は極めて優秀だったという。
修道院から戻ったジャンヌはある日、母親に占い師のところに連れていかれ、その占い師に「あなたは国王の心を支配するようになる」と言われたという。
13才になる頃には父ポワソンも戻り、家族は占い師の言葉を実現させるべくジャンヌに教育を施した。
また母ルイーズには資産家の愛人トゥルネームがいて(※トゥルネームが実の父という説もある)トゥルネームからの援助もあり、ダンス、絵画、彫刻、演劇などを家庭教師をつけて、ジャンヌに熱心に教育した。
当時のフランスでは、国民は3つの身分に大別され、第一身分は聖職者、第二身分は貴族、そして第三身分は市民・農民であった。
聖職者・貴族については徴税の免除があったものの、第三身分に関しては重い徴税に苦しむなど、圧倒的な身分格差が存在していた。
ジャンヌは、このうちの第三身分の少女であり、その平民の少女が貴族以上の教育を受けるのは、異例中の異例であった。
1741年、20歳になった彼女は、資産家で微税請負人のシャルル=ギヨーム・ル・ノルマン・デティオール(1717~1799)と結婚する。デティオールは母の愛人トゥルネームの甥であり、このことからもジャンヌはトゥルネームの実子ではないかと一説に言われるようになる。
デティオールとの間に1男1女をもうけるが、子供は2人とも若くして亡くなってしまう。
結婚によって、超一流サロンに出入りが可能となったジャンヌ=アントワネットは、そのサロンにて一流の文化人と交流を深めていく。
彼女の教養と知性、そして美しさはたちまち評判となり、愛人であったシャトールー公爵夫人の死に打ちひしがれていたルイ15世の目に留まることになる。
そこで、彼女はポンパドゥール侯爵夫人という称号を与えられ、夫と別居し、1745年に正式に国王の公妾となった。
現在の貞操観念からは考えられないが、この時代ではより有力なパトロンを得るために、夫のある女性が権力者と愛人契約を結ぶということは一般的とされていた。
中には、夫婦での出世や権力を求め、夫が妻に、権力者への愛人契約を頼むという場合もあったのだという。
しかし、ポンパドゥール夫人の夫・デティオールは、ジャンヌ=アントワネットが国王の公妾となることに反発した。
自分のことを裏切った妻のことを一生許さなかったという。(その後、デティオールは別の女性と結婚し、ポンパドゥール夫人の臨終の際にも面会を拒否したといわれている)
贅沢を極め、湯水のように公費を使う
ポンパドゥール夫人は、1年で香水に100万フランも使って散財したり、多くの邸宅を建てさせた。
ルイ16世がマリーアントワネットに送ったプチ・トリアノン宮殿も、元は彼女のために建てられた邸宅だったという。
フランス国王の公妾という立場を得たポンパドゥール夫人は、このようにあちこちに邸宅を建設させ、その権力を誇示したといわれている。
彼女の本名はジャンヌ=アントワネット・ポワソンであるが、ポワソンが魚を意味することから、「魚という下賤な名前の者が宮廷に居ましてよ」と身分の低さを他の貴族たちにいびられることもあったという。
そこで彼女は、ルイ15世の妃マリー・レクザンスカに忠誠を誓い、王妃を立てて謙虚に振る舞ったことで、王妃も味方につけた。
宮廷での礼儀作法も身に着け、謙虚に教養深く周りと上手にコミュニケーションをとる彼女は、ルイ15世からさらなる寵愛を受けることとなる。
そして、政治に関心の薄かったルイ15世に代わり、自ら情勢をふるうようになっていくのである。
「私の時代が来た」
名実ともに影の実力者となっていたポンパドゥール夫人は、1756年、オーストリア、ハプスブルク家のマリア・テレジア、そしてロシアのエリザヴェータと手を組んで、【反プロイセン包囲網】を結成した。
これはプロイセンを打破するための作戦で、それまで長く敵対関係にあったフランスとオーストリアにとっては、かなり画期的な和解であった。
この時特に宿敵オーストリアと和解できたことは、外交革命と言われるほどの功績だったという。
和解の証として、この後マリア・テレジアの末娘であるマリーアントワネットが、後のルイ16世に嫁ぐことになる。
後に【3枚のペチコート作戦】と呼ばれるこの同盟は、7年戦争を巻き起こし、フランス国内でのポンパドゥール夫人の権力を絶対的にした。
また、ポンパドゥール夫人は宮廷内でサロンを開き、多くの啓蒙思想家と親交を結んだ。
ヴォルテールと文通して哲学を語り、ディドロの百科全書の出版を助け、マリヴォーやモンテスキューと文学を語り、モリエールやリュリのオペラにも自ら出演し喝采を浴びた。チェンバロに似たクラブサンを奏で、絵を描き、版画も製作。
宮廷女性としては異例の読書家で、彼女の死後、売りに出された蔵書の目録は3525冊、どれもすべて読んだ跡があったという。
それだけではなく、芸術家の熱心なパトロンとして、芸術家との交流や支援を行い、これがきっかけで、ロココ様式が発達したといわれている。
そんなポンパドゥール夫人の有名な言葉は、
「私の時代が来た」
である。
こんな言葉が口から出るほどだから、ポンパドゥール夫人の勢いは凄まじいものだったのだろう。
ファッションアイコンとして
また、ポンパドゥール夫人はファッションアイコンとしての役割も大きく担っていた。
当時の貴族階級の女性はこぞって、ポンパドゥール夫人の服装や髪型を真似していたのである。
中でも特筆すべきは、「ポンパドール」という彼女のヘアスタイルである。
これは前髪を大きく膨らませ高い位置でまとめ、ピンやバレッタで留めた髪型で、なんと現在でも女性のヘアスタイルのひとつとして残っており、世代問わず多くの女性がこの髪型を好み、楽しんでいる。
ポンパドゥール夫人の最期
1764年、ポンパドゥール夫人は肺の病によって42歳という短い生涯を終えている。
ポンパドゥール夫人は自身が30歳を迎えた頃から、ルイ15世と寝床を共にすることはなくなっていたが、恋愛体質の国王のために、見どころある女性をあてがっていたという。
最後はお互いに、20年来の友人関係を結んでいたポンパドゥール夫人とルイ15世。
これほど王に愛され、政治的にもフランス全土に大きな影響を与えたポンパドゥール夫人だったが、「王族以外の人間がベルサイユ宮殿で亡くなるのは許されない」という伝統的な掟を守り、宮殿から去ろうとしたという。
だが、ルイ15世はこれを承知せず、ポンパドゥール夫人は異例ながらベルサイユ宮殿で最期を迎えることになった。
ポンパドゥール夫人をこよなく愛したルイ15世は、伝染病の結核と知りつつも看病をし、亡くなって棺がベルサイユ宮殿から運びだされるときも、雨模様の中
「夫人の旅路にはあまり良い天気ではないな」とつぶやいたという。
美貌だけではなく、その教養を武器に、王の愛を勝ち取り、政治に介入して、文化にも大きな影響を与えたポンパドゥール夫人。
彼女は間違いなく、歴史に残る偉大な女性のひとりだと言えるだろう。
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