西洋史

【イギリス王室の始祖は海賊の子孫だった】英語も話せなかった「ウィリアム征服王」

現代にまで続くイギリス王室を開いたウィリアム1世は「征服王」の異名を取り、当時のイングランドに封建制度による統一国家の基礎をもたらした。

彼の遠征は「ノルマン・コンクエスト」と呼ばれ、後にイギリスの歴史の中で最も重要な出来事だっといわれることとなる。

ノルマンディーの庶子公

ウィリアムは1028年頃、フランスのノルマンディー地方君主・ロベール1世との子として誕生した。

ウィリアム征服王

画像 : ウィリアム征服王 public domain

ノルマンディー公の先祖はヴァイキングの首領ロロであり、元々はデンマークからの侵略者だったが、当時のフランス王から爵位を授けられたことでフランスに居住、ノルマンディー公国の基礎となった。

ウィリアム征服王とは

画像 : ヴァイキングの公国の創始者 ロロ wiki c Pradigue

母・アルレットが庶民であったため、幼年期は私生児の扱いを受けたウィリアムだったが、1035年に父のロベール1世に後継者として指名されてノルマンディー公となる。

私生児という立場からウィリアムを支持しない貴族も多く、領地内では度々反乱が起こった。

しかし1047年、フランス王・アンリ1世の助力の元、ヴァル・エ・デュヌの戦いで勝利を挙げ、領内の安定を図った。

1049年、ウィリアムはフランドル伯の娘・マティルダと結婚した。

ウィリアム征服王

画像 : マティルダ wiki c Jastrow

しかしこの結婚は、2人が「アルフレッド大王という共通の先祖を持ち、近親である」という理由からローマ教皇に無効とされた。

だがその4年後、教皇の代替わりにより2人の結婚は正式に認められ、ウィリアムとマティルダの間には11人の子供が生まれている。

イングランドへの遠征

当時のイングランドは、アングロ・サクソン系であるエドワード懺悔王が統治していた。

画像 : エドワード懺悔王 イングランド王国を統治した最後のアングロ・サクソン系君主 public domain

彼は1066年に死去したが、後継者を残さなかったため王位継承を巡って争いが起こることとなる。

その後、エドワード懺悔王の義弟に当たるゴドヴィン家のハロルドが即位したが、ウィリアムは

・エドワード懺悔王の母親が自身の大叔母に当たること
・生前にエドワード懺悔王がフランスを訪れた際に、王位の継承を約束してくれたこと

などを訴え、自身の継承の正当性を主張した。

同年ウィリアムはイングランドへ上陸、ハロルドと苛烈な戦いを繰り返した。

ハロルドは9月にスタンフォード・ブリッジの戦いで勝利を収めたが、10月のヘイスティングズの戦いで戦死、そのままハロルド派閥の貴族達は敗走することとなった。

ウィリアム征服王とは

画像 : バイユーのタペストリーに描かれた、ヘイスティングズの戦いにおけるハロルド2世の戦死の模様。どの戦士がハロルド2世であるかは確認されていない。 public domain

両陣営の兵数に大きな差異はなかったが、ウィリアムは弓兵と騎兵を使うことで戦局を有利なものとした。

こうして1066年の12月25日、ウィリアムはロンドンのウェストミンスター寺院で戴冠式を行い、ノルマン朝を開いたのである。

イングランド王としての統治

こうして王となったウィリアム1世は「封建制度」を導入し確立させることで、当時はまだ地方の力が強かったイングランドを一つにまとめ上げるために奔走した。

彼はそれまで権力を握っていたアングロ・サクソン系の貴族達を追い出し、その土地を家臣のノルマンディー人へと与えた。

また、税金徴収のためにイングランド全体の土地調査を行い、「ドゥムズディ・ブック」と呼ばれる土地台帳を作成。
これは現存しており、歴史上初めての土地台帳だと言われている。

画像 : ドゥムズディ・ブック public domain

さらにウィリアム1世は司法制度も確立させ、自らが聖職者の任命権を持つことで聖職者に対して王権の優越を宣言した。

1086年、ウィリアム1世はソールズベリーにイングランド各地の諸侯達を呼び集め、忠誠を誓わせる。

これは「ソールズベリーの宣誓」と呼ばれ、以後のイングランド国王も行うこととなる。

ウィリアム1世は、その生涯の大部分を戦へと費やしており、それはイングランド征服後も変わらなかった。
地方で反乱が起こるたびに自ら軍を指揮し、奪った土地は新たに臣下へ分け与え、地方の監視役とした。

こうしてウィリアム1世は名実ともにイングランド国王となったが、フランス人であったことから英語を話すことが出来なかった。宮廷では専らフランス語が使用され、政治制度もフランス式が多く導入された。

そして1087年、ウィリアム1世は59歳でこの世を去ることとなる。
死因は「落馬の際の怪我」だとされており、遺体はノルマンディーの修道院に埋葬された。ノルマンディー公の爵位は長男のロベールが、イングランド王位は三男がウィリアム2世として継承した。

しかしその後、ロベールとウィリアム2世が継承権を巡って争い、最終的に王位は四男のヘンリー1世へと渡ることとなった。

画像 : ヘンリー1世 public domain

ウィリアム1世は、外国人でありながら継承権を巡る戦いを勝ち抜き、後のイングランドを支配する王家の基礎を築き上げた功績から、後に「征服王」と呼ばれることとなる。

そして彼の血脈は途切れることなく続き、現在のイギリス王室まで受け継がれている。

参考 :
ウィリアム征服王の生涯―イギリス王室の原点(著:ヒレア・ベロック 訳:篠原 勇次)

 

草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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コメント

    • 名無しさん
    • 2024年 5月 11日 12:38am

    文脈からスタンフォード・ブリッジの戦いがハロルド対ギヨーム(ウィリアム)であるように読み取れるが、実際はハロルド対ハロルドの弟トスティとその支援者デンマーク王ハーラルとの戦い。ハロルドはトスティとハーラルを討ち取ったがその後に始まるノルマン・コンクエスト(ヘイスティングスの戦い)でウィリアムに敗れた。

      • 草の実堂編集部
      • 2024年 5月 11日 12:46pm

      そうですね!補足ありがとうございます!

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