英仏の百年戦争初期、並外れた軍事的才能でフランスの劣勢を挽回に導いた中世の騎士がいました。
その名は、ベルトラン・デュ・ゲクラン。
彼はその独特な容貌から、当初は両親にもあまり愛されず、孤独で荒んだ時を過ごしていました。しかし、そんな彼には国難を救うために軍人として大活躍する運命が待ち受けていたのです。
今回はそんなゲクランの人生について解説いたします。
醜い子として扱われ
ゲクランは1320年、フランス北西部ブルターニュのディナン近郊で小貴族の家系に10人兄弟の長男として生まれました。
父はラ・モット・ブローン城主ロベール2世・デュ・ゲクラン、母は女領主ジャンヌ・ド・マルマンで、美貌の持ち主でした。
人々は「この両親から生まれる子たちも、また美男美女だろう」と思い描いていました。しかし、他の兄弟たちが母譲りの美貌に恵まれたのに対し、長男のゲクランの容姿は異なっていたのです。
14世紀に、フランス国王シャルル5世の宮廷下で活躍した吟遊詩人ジャン・キュヴェリエは、『ベルトラン・デュ・ゲクランの年代記』の中で、彼の幼少期の容貌を「レンヌからディナンまでの中で最も醜い子供だった」と評しています。
背は低く足は短く節くれ立っており、不釣り合いなほど広い肩幅に長い腕。頭は丸く大きく鼻は低く、肌は浅黒くて瞳は灰色でした。後に彼が鎧を身に着け馬に乗る姿を見た人々は「鎧を着た豚」と呼ぶほどでした。
悲しいことに、こうした容貌に生まれついたゲクランを両親は冷遇しました。ゲクランは長兄でしたが、母は弟たちを優先し、父もまたゲクランに騎士としての訓練を施すことを拒んだのです。
キュヴェリエの年代記には「両親は彼をとても嫌っており、彼らは心の中でゲクランが死ぬか、流水に溺れることを望んでいた」とまで記されています。
こうした両親の扱いに反発したゲクランは心を荒ませ、たびたび暴力沙汰を起こしました。
馬上槍試合から実戦へ転機到来
しかし、そんなゲクランに転機が訪れました。当時、両親の冷たい扱いから荒れていたゲクランを受け入れたのは、彼の叔父と叔母でした。
ゲクランは彼らの手を焼かせつつも「これからは馬上槍試合以外での暴力は行わない」と約束しました。
馬上槍試合とは「トーナメント」とも呼ばれ、西欧で主に12世紀から16世紀の中世からルネサンスにかけて流行した、騎士同士が技量を競う競技会や模擬戦のことです。ゲクランはこの馬上槍試合で、見事に負け無しの実力者になっていきました。
やがて、ゲクランは活躍の場を模擬戦から、実際の戦場に移します。
当時のフランスは王位継承を巡りイングランドとの間で「百年戦争」を繰り広げ始めていました。その一環でブルターニュ公ジャン3世の継承についてフランス王とイングランド王がそれぞれ介入し、代理戦争の様相を呈していました。
このブルターニュ継承戦争に、ゲクランはフランス王側として少数の部下を率いて参戦し、戦勝を積み重ねて徐々にその名を上げていきました。
そして1354年、コー地方の騎士ウスタシュ・デ・マレの手によって、モンミュラン城で正式に騎士として叙任されたのです。
ついに国王の目にとまる
騎士として叙任されたゲクランは、同年にグラン・フジュレー城を策略によってわずか30人という少人数で陥落させました。その後もイングランド軍によるレンヌ侵攻に対して防衛に成功するなどの戦功を上げ、途中で二度捕虜として捕らえられるも、いずれも脱出して難を逃れました。
そして1364年4月、後に「賢明王」と呼ばれることとなるシャルル5世がフランス国王に即位すると、ゲクランはこの新しい国王に仕えることになります。
その頃のフランスは1356年のポワティエの戦いに敗れ、シャルル5世の父であるジャン2世がイングランドに捕囚の身となるなど、度重なるイングランド軍の猛攻に苦しんでいました。そのため、それまでの大規模な正面対決から戦法の変更が図られ、そこで引き立てられたのが奇襲的な戦いを得意としたゲクランだったのです。
ゲクランはシャルル5世の期待に応え、ノルマンディーのコシュレルの戦いでは敵陣地に攻撃を仕掛けて挑発を行い、誘い出されてきた敵兵を側面から伏兵を使って襲撃するという策で相手を殲滅し、大勝利を収めて一気に名声を高めたのです。
大敗と捕虜も経験
そんなゲクランでしたが、決してすべてが順風満帆というわけではありませんでした。
1364年のブルターニュ継承戦争におけるオーレの戦いでは、イングランドが支援したブルターニュ側に敗北し捕虜となりました。シャルル5世はこれに対して莫大な身代金を支払い、ゲクランを解放させています。
ゲクランを引き立てたシャルル5世は、こうしたイングランド優位の情勢を転換させようと、戦法の変化だけでなく外交努力も試みました。そこで接近を試みたのがカスティーリャ王国です。
カスティーリャ王国では1350年にペドロ1世が王に即位すると、彼の異母兄であるトラスタマラ伯エンリケとの間で王位継承を巡る内戦が勃発し、1366年にはエンリケがペドロを廃位して自身の即位を宣言する事態となっていました。
そのためペドロは、当時フランス南部アキテーヌを支配していたイングランドのエドワード黒太子に助けを求めたのです。
このカスティーリャ王国とイングランドの接近に対し、シャルル5世は職にあぶれて盗賊化していた百年戦争の傭兵団を「十字軍」の名目でエンリケ側に送り込みました。そしてこの傭兵団を率いることになったのがゲクランだったのです。
1367年、カスティーリャ王国内のナヘラで両軍が激突します。
ゲクランは、カスティーリャ・フランス軍として装甲兵士と石弓兵の精鋭部隊を率いて最前線に布陣しますが、黒太子とペドロ1世の前に大敗を喫し、ゲクラン自身も再び捕虜となります。
しかしこの時も、シャルル5世がゲクランのために莫大な身代金を立て替え、後にゲクランは戦列に復帰するのです。
下級貴族から異例の大出世
ゲクランはその後も各地での戦いを率い、イングランド側の退却に大きく寄与します。
そしてその働きによって、ついにシャルル5世はゲクランを国の最高軍事指導者に任命したのです。
伝統的にこの地位は常に大貴族が占めていたため、これは異例の出来事でした。
当時、戦場において小貴族の出であったゲクランは、身分の高い貴族たちの扱いに常に困難を抱えていました。
シャルル5世のこの采配は、ゲクランの職業軍人としての優秀さを認めると共に、実利にかなったものでした。
こうして1370年10月2日、ゲクランは国王から正式にフランス王軍司令官の階級を与えられたのです。
死してなお、騎士として国王の元に
生来の容姿のため、両親にすら冷たくあしらわれた人生のスタートを経て、下級貴族から国の軍事的トップまで上りつめたゲクランですが、1380年7月13日、南フランス・ラングドック地方への遠征中に赤痢にかかり、60歳で病没しました。
ゲクランを最後まで重用したシャルル5世はその死を悼み、ゲクランの遺体を王家の墓所であるパリのサン=ドニ大聖堂に埋葬するように命じました。そして奇しくもその2ヶ月後に、シャルル5世もこの世を去るのです。
ゲクランの石棺はシャルル5世の足元に置かれ、死してなお、彼が生きた中世の騎士道精神を体現するかのように、永遠の眠りについています。
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