帝政ロシアの文豪であり思想家として知られるトルストイ。
代表作である『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』は、耳にしたことがある方も多いでしょう。
トルストイは、生涯を通じて非暴力と人道主義の理想を追求しました。その思想は、文学だけにとどまらず、政治や社会にも大きな影響を与えました。
彼は大貴族の家に生まれ、卓越した才能を発揮しましたが、その人生の最期は意外な結末を迎えることとなったのです。
名門の家に生まれて
1828年9月9日、トルストイはロシアのトゥーラ州郊外にあるヤースナヤ・ポリャーナで生まれました。
彼の家系は父方も母方も代々皇帝に仕える名門で、母親はヴォルコンスキー公爵家の出身という最高位の貴族でした。
祖父はエカテリーナ二世の軍隊で最高司令官を務めた人物であり、トルストイはその名門の血筋に連なる存在でした。
しかし、彼は幼い頃に母を亡くし、その後父も失うという孤独な幼少期を送ります。それでも、相続した広大な土地と多くの農奴により、物質的には恵まれた環境で育ちました。
青年期のトルストイは、カザン大学に入学するものの、学業成績が振るわず中退します。
その後しばらくの間、社交や遊興にふける生活を送りましたが、1851年に軍隊に志願してコーカサス地方に赴きました。この経験が後の小説作品にも影響を与えることとなります。
1850年代に入ると小説執筆を始め、その才能を発揮します。
『幼年時代』や『戦争と平和』などの作品を通じて、トルストイは世界的な名声と富を手にしたのです。
ところが意外なことに、トルストイは80年以上の生涯の中で小説執筆に費やした期間は限られていました。
『戦争と平和』を執筆した1860年代や、『アンナ・カレーニナ』を書き上げた1870年代以外は、教育、農村改革、宗教的・哲学的探求といった活動に費やしました。
そういった意味でも彼は職業的な作家というより、偉大な思想家であったのでしょう。
凡人には理解しがたい夫婦生活
1862年、34歳のトルストイは、16歳年下のソフィア・ベルスと結婚しました。彼女は長年の知り合いであり、この結婚は当初幸福な未来を予感させるものでした。しかし、後に夫婦間の溝が深まり、不和が続く生活となっていきます。
トルストイの考えはこうでした。
「夫婦である以上は、互いに秘密を持つべきではない」
一見もっともな言い分でしたが、彼はこの信念に基づき、自ら15年間記していた日記をソフィアに読むよう促したのです。
18歳の新妻ソフィアが目にした内容は、あまりにショッキングなものでした。
日記には、放逸な性生活が事細かに記録されていたのです。
娼婦の元に通ったり、流浪の民の女性と寝たかと思えば、農奴に手をつけたり、数えきれないほどの女性遍歴が書き込まれていました。
ソフィアは大きなショックを受け、なぜこのような恐ろしいものを読ませるのかと、涙ながらにトルストイを非難しました。
この出来事は夫婦の間に深い溝を生み出し、トルストイが思い描いた理想の夫婦関係は崩れ去っていくのです。
82歳で家出
夫婦間の不和にもかかわらず、旺盛なトルストイはソフィアとの間に13人もの子どもをもうけました。
しかし彼は、自ら築いた大家族に対しても複雑な感情を抱いていました。トルストイにとって家族とは、政治的・社会的な改革を目指す自分の理想を妨げる障害であり、忌むべき存在に映ることさえあったのです。
トルストイは時折、「全財産を投げ出す」と宣言したり、貧しい人々を救うための慈善活動を始めようとしたり、さらには「伯爵の称号を捨てる」と口にすることがありました。
夫婦間においても「これからは寝室を別にして、兄弟のように暮らしたい」など、一方的な主張や発言が続きます。
これらの突拍子もない発言や行動は、現実的な家庭生活を支えようとするソフィアをしばしば困惑させ、彼女にとって大きな負担となりました。
こうした状況の中で、トルストイの日記には次第にソフィアに対する批判が増えていきました。そして自ら提案した「日記の公開」というルールを破り、自分の日記を彼女から隠すようになります。
一方で、トルストイはソフィアの日記を探し回り、そこに隠された秘密がないかを執拗に確認しようとするなど、夫婦関係はますます歪んでいきました。
こうした葛藤に満ちた生活が30年以上も続いた末、82歳のトルストイは発作的に家出をしてしまいます。
ある初冬の明け方、身の回りのものを鞄に詰め込み、馬車に乗って家を出て行ってしまったのです。
最も近い人間とは分かり合えないまま亡くなる
家出したトルストイが向かった先は、修道院にいる妹の元でした。
しかし、汽車に乗り込もうとしたものの、満員のためデッキで寒風にさらされることを余儀なくされました。
老体には過酷なロシアの冬の寒さが容赦なく襲いかかり、妹の元へ向かうことを断念せざるを得ませんでした。
その後、別の汽車に乗り込んだものの、彼は高熱を伴う風邪をこじらせ、ついには肺炎を発症します。旅の途中、小さな駅で倒れたトルストイは、駅長の官舎に運び込まれ、その場で病の床に就きました。
偉大な文豪トルストイが倒れたという知らせは瞬く間に世界中に広まり、多くの人々が彼の元へ押しかけようとしました。
そのため、革命の扇動を警戒した憲兵隊が周囲を厳重に警備する事態となります。
一方、妻ソフィアも特別列車で駆けつけましたが、トルストイは彼女との面会を断固拒否したのです。
ソフィアは列車内で待機を余儀なくされ、ようやく許された面会の時には、トルストイはすでに昏睡状態に陥っていました。
トルストイが意識を失う直前に残した言葉は、
「真実……わたしは真実を愛している。誰にも邪魔されないよう、どこかへ出かけよう……」
というものでした。
この世で最も近しい家族とは分かり合えないままでしたが、遺した最期の言葉の通り、トルストイは自らの理想とした非暴力と人道主義の真実を追い求めて、天に上ったのかもしれません。
参考文献:『世界情死大全「愛」と「死」と「エロス」の美学/桐生 操 (著)』
文 / 草の実堂編集部
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