日本人にもなじみ深いマッカーサー元帥ことダグラス・マッカーサー。
彼は、第一次・第二次世界大戦にて大きな戦功を挙げ、日本軍からフィリピンを奪還した際に、アメリカ国民からは「アメリカ合衆国が生んだ最も有能な軍人」と讃えられている。

画像:メアリーの手編みのマフラーを巻いた准将時代のマッカーサー(1918年11月3日、フランスにて) public domain
軍人としては高く評価されたマッカーサーだったが、非常に自閉的で自己中心的、自分の間違いを決して認めず、常に他人を疑って被害妄想を抱いているような、性格に難のある人物であったという。
このようなマッカーサーの人格形成には、彼を見守り干渉し続けた“偉大なる母”が影響を及ぼしていた。
マッカーサーは士官学校時代に苛烈ないじめを経験し、私生活でも離婚や再婚を重ねたが、常に母メアリーが関わっていた。
今回は、厳格な教育と溺愛のもとで育ち、優秀ながらも「マザコン」と揶揄されたダグラス・マッカーサーと、その母メアリーの異様な親子関係を紐解いていく。
次男の死が、母の心に闇を生む

画像:マッカーサーが誕生した当時のリトルロック兵舎 public domain
ダグラス・マッカーサー(以下ダグラス)は、1880年1月26日、アメリカのアーカンソー州リトルロックにて誕生した。
父方の祖父は、ウィスコンシン州の第4代知事も務めたスコットランド出身の法律家だったが、父のアーサー・ジュニアは10代の頃から南北戦争に従軍していた軍人であり、ダグラスは父の任地であるリトルロックの兵舎にて生まれた。
ダグラスは、アーサージュニアとメアリー夫妻の三男かつ末子であり、先に生まれた兄が2人いた。
ダグラスが生まれた1880年は、アメリカ西部開拓時代の末期だった。
一家は父の転属に従って各地の兵舎や砦を転々としていたが、ダグラスが生まれて間もない頃に、次男のマルコムがわずか5歳で病死してしまう。
母メアリーは、幼い次男の死に大きなショックを受けて、残る2人の息子の中でも特に末子のダグラスに執着し、溺愛するようになった。
当時は男児の無事の成長を願うまじないとして、男の子にも女の子の服装をさせる風習があった。
その風習が行われるのは、一般的には子供が2歳になる頃までだったが、メアリーはダグラスが自分に少しでも長い間依存するように、6歳になる頃まで髪を長く伸ばして三つ編みに結い、スカートをはかせていたという。
また、メアリーはダグラスを溺愛しながらも、非常に厳しくしつけて育てた。
13歳の時、ダグラスは小遣いを稼ぐために新聞売りのアルバイトをしたが、他のアルバイトより販売実績が低いことを知ったメアリーは「新聞を売り切るまで帰ってきてはいけない」と𠮟りつけた。
ダグラスはメアリーの言いつけを素直に守り、傷だらけになりながらも新聞を売り切ってから自宅に帰ってきたという。
ヘリコプターマザー・メアリー

画像:西テキサス士官学校在学時のマッカーサー、1895年頃の写真 public domain
16歳になった1896年、ダグラスは父や兄と同じ軍人となるために「ウェストポイント陸軍士官学校」を目指していたが、受験に必須だった有力者の推薦状を得られずにいた。
しかし、メアリーの尽力で下院議員の推薦を得ることに成功し、独自に編み出した「失敗の可能性を抽出し1つ1つ取り除く」勉強法で受験勉強に勤しみ、1899年にはウェストポイントに首席入学を果たした。
このようにダグラスは学業では優秀だったが、恋愛は不得意だったようだ。
受験生時代、ミルウォーキーのミッチェル上院議員の娘に思いを寄せていたものの、自作の「愛の詩」を懐に忍ばせたまま上院議員の家の周囲をうろつくだけで、結局告白もできず、想いが実ることはなかったという。

画像:ウェストポイント陸軍士官学校 1870年頃の様子 public domain
ウェストポイントに入学後、メアリーはダグラスを心配するあまり学舎近くのクラニーズ・ホテルに移住し、息子の学生生活を監視するようになった。
当時の士官候補生は、年頃の女性たちにとって羨望の的だった。
しかしダグラスは、首席合格で入学したエリート候補生であるにもかかわらず、女性からは全然モテなかった。
なぜなら母メアリーが、ダグラスの学業だけでなく私生活までもを監視し、ダグラスに近付く女性たちに警戒心を抱いていたからだ。
ダグラスもメアリーの過保護すぎる行動に反抗することはなく、むしろ毎日メアリーに会いに行く時間を作り、同期生に遊びに誘われてもいちいちメアリーの了承を得ていたという。
メアリーの過保護ぶりは教官にまで知れ渡り、ある日、ダグラスがこっそり女性とキスをしていたところを見かけた教官は、ダグラスをたしなめるどころか笑顔で祝福の言葉を贈ったほどであった。
士官学校で受けた苛烈ないじめ

画像:少佐時代のマッカーサー(1905年) public domain
ダグラスが在学中のウェストポイント陸軍士官学校では、上級生から下級生に対してのしごきとして、暴力的ないじめが横行していた。
首席入学者かつ、父が有名な軍人で、母が近くのホテルに常駐していたダグラスは、いじめ常習犯の上級生にすぐに目を付けられた。
ダグラスが受けたいじめは酷かった。
「ガラスの破片の上で膝をつき前屈させる」「ささくれた板の上をスライディングさせる」「ボクシング選手に殴られる」など過酷なもので、ダグラスは上級生による暴力に抗えず、最後には痙攣して失神してしまった。
やがて、いじめ被害者の中から死亡者が出たことにより、ウェストポイントのいじめは社会問題化して軍法会議にかけられた。
いじめの被害者だったダグラスも証人として法廷に呼ばれたが、今後の学内での立場を考え、自分が受けた暴行については証言を拒んだ。
その姿勢がかえって周囲の尊敬を集めることになったという。
だが、ダグラスはいじめを受けながらも常に成績は優秀だった。
3年生の時には野球に熱中し一時的に成績が下がったものの、1903年には首席でウェストポイントを卒業し、陸軍少尉に任官している。
しかし、母メアリーの存在はあまりに大きく、ダグラスはその優秀さに注目されるよりも「ウェストポイント史上初の母親と一緒に卒業した男」として揶揄された。
友人を必要と感じていなかったダグラスは、学生時代に心から信頼できる友人を作らなかった。
ウェストポイントの卒業生は結婚式に多くの同級生を招くのが通例だったが、ダグラスの結婚式に出席した同級生はわずか1人だけだったという。
母の意思が反映された婚姻歴

画像:1918年、第一次世界大戦中のフランス。レインボー師団司令部で。 public domain
ダグラスは1922年2月、42歳になってすぐの時期に、1度目の結婚をしている。
10代の頃は恋愛面では冴えなかったダグラスだが、その頃には垢抜けて軍人としても頭角を現しており、「アメリカ陸軍のダルタニアン」などと呼ばれ、もてはやされる人物となっていた。
ダグラスの妻となったルイーズは、若い頃には「社交界の華」と呼ばれた大富豪の令嬢で、すでに1回の離婚歴がある子持ちの女性だった。
出会ってからたった数ヶ月で結ばれた2人の結婚は「軍神と億万長者の結婚」と話題になった。

画像:ルイーズ・クロムウェル(1921年) public domain
しかし華美な生活を好む恋多き女性だったルイーズは、姑となったメアリーとはとにかく折り合いが悪かった。
メアリーはダグラスとルイーズの婚約を知った時、あまりのショックで体調を崩し、結婚式にも参列しなかったという。
結婚してからもルイーズに対するメアリーの口出しは治まらず、結局は2人は結婚から7年後に「性格の不一致」を理由に離婚した。
ダグラスは、この1度目の結婚については、自身の伝記でもほとんど触れていない。
ルイーズとの離婚後、ダグラスは2度目のフィリピン勤務中に、33歳年下のイザベルという女性と親しくなった。
しかし結婚には至らず、最終的には母メアリーが認めたジーン・フェアクロスと、57歳の時に再婚した。
ジーンとの結婚生活は順調に続き、ダグラスが亡くなるまで破綻することはなかった。
彼女は2000年に101歳で亡くなり、その遺体はダグラスの墓の隣に埋葬されている。
息子の自由を容認

画像:1950年、妻ジーンと息子のアーサー・マッカーサー4世 public domain
メアリーは、ダグラスとジーンを引き合わせることに成功したものの、結婚を見届けることなく、1935年11月に82歳でこの世を去っている。
当時副官だったアイゼンハワーの記録によれば、母を失ったダグラスは深く落ち込み、立ち直るまでに数ヶ月を要したという。
母の大きな愛情と期待に応えるために、常に勝ち続けることにこだわったダグラスだったが、ジーンとの間に生まれた1人息子のアーサー4世は、軍人になることを拒み、ジャズ・ピアニストになった。
ダグラスは、息子の進路の要望を受け入れた理由を問われた時に、こう答えたという。
「私は母の期待が大変な負担であった。一番になるということは本当につらいことだよ。私は息子にそんな思いはさせたくなかった。」
ダグラスに心酔していた妻ジーンは、息子も軍人になってくれることを願っていたが、ダグラスは実の息子には自由に生きてもらうことを望んだ。
アーサー4世はダグラスの死後、世界的に知られたマッカーサーという名前の重圧から解き放たれるために改名し、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに集まるヒッピーになったと伝えられている。
たった1人の息子が自由な人生を選んでくれたことにより、ダグラスはようやく母と家名の呪縛から、解き放たれることができたのかもしれない。
参考文献 :
世界の歴史 (著)『ダグラス・マッカーサー 生涯の物語』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
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