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『移民の母』撮影から42年後に判明…写真の女性の正体と苦悩

画像:『移民の母』 public domain

アメリカの株式市場の大暴落から始まったとされる世界恐慌では、1929年から1930年代後半に至るまで世界中が深刻な不況に陥り、多くの失業者と生活困窮者、および餓死者を生み出した。

アメリカ国内では1933年に失業率がピークとなり、24.9%、およそ1,283万人もの人々が職を失ったとされる。

もちろん日本も影響を免れることはできず、1930年から始まった昭和恐慌は、推定で250万人を上回る失業者を生み出し、その後の軍国主義化と開戦のきっかけになったともされている。

アメリカ人女性のフローレンス・オーウェンズ・トンプソンは、報道写真家ドロシア・ラングが撮影した有名な一枚『移民の母(英題:Migrant Mother)』と題された写真の、被写体となった人物だ。

安定した職も家もなく、幼い子どもたちを養うため日雇いの仕事を求めて各地を転々としていたフローレンスは、この世界的に有名な写真の被写体となった後、どのような人生を送ったのだろうか。

今回は、未曽有の経済恐慌に陥ったアメリカを象徴する女性として「1930年代のモナ・リザ」と呼ばれた、フローレンスの知られざる素顔と波乱の人生をたどっていきたい。

フローレンスの生い立ち

画像:1890年のオクラホマ州(赤線の西側)とインディアン準州(赤線の東側)public domain

フローレンスは、1903年9月1日、現在のオクラホマ州にあたるインディアン準州で生まれた。

父ジャクソン・クリスティと母メアリー・ジェーン・コブは、ともにチェロキー系(ネイティブ・アメリカン)の血を引くと主張していたが、後年の記録では母が「両親は白人だった」と証言しており、そのルーツには諸説がある。

1921年の17歳の時に、6歳上の農家の息子であるクレオ・オーウェンズと結婚し、結婚後すぐに長女を生み、続いて次女と長男を授かっている。

夫のクレオの実家であるオーウェンズ家はもともとミズーリ州にあったが、長男誕生後に一家は親戚らと共にカリフォルニア州に移住し、サクラメント渓谷の農場や製材所で働くようになった。

しかし、結婚から10年目の1931年、フローレンスが6人目の子を身ごもっていた最中、夫のクレオは結核でこの世を去る。

20代で6人の子を抱える未亡人となったフローレンスは、カリフォルニアやアリゾナを移動しながら出稼ぎ労働者として働き続け、夜はレストランやバーでも職を得て、わずかな賃金で一家を支えた。

その後、ジム・ヒルという男性と出会い、正式な婚姻はしなかったものの事実婚状態となり、さらに4人の子をもうけた。

しかし不況の中、重労働に対する賃金はわずかで、生活は依然として苦しいままだった。

野営中の姿をドロシアに撮影される

画像:ドロシア・ラング フォード「モデルB」の車上にて(1936年)public domain

世界恐慌の影響でアメリカ中が大不況に陥る中、フローレンスは子供たちに食べさせる物を得るために必死に働き続けた。

報道写真家であるドロシア・ラングが、カリフォルニア州のパハロ・バレーでレタス収穫の仕事に就こうとしていたフローレンスと出会ったのは、1936年3月6日のことだった。

その日フローレンスは、ジムや子供たちとともに車で国道101号線をワトソンビルに向かっていたが、途中で車が故障してしまい、カリフォルニア州ニポモ・メサで足止めを食らってしまっていた。

ニポモ・メサには、エンドウマメ収穫の仕事を得るために多くの人々が集まっていたが、農場から求人が出ていたにもかかわらず、凍雨の影響で収穫は中止となってしまい、2000人以上もの出稼ぎ労働者たちが路頭に迷っていた。

フローレンスたちはその有様を見て愕然としながらも、車が直るまでその地でキャンプ生活を送らざるを得なくなった。

ジムと息子2人が車の修理部品を取りに町に出かけている間、フローレンスは幼い子どもたちが捕まえてくる野鳥や、冷たい雨で凍って商品にならなくなってしまった野菜を食糧としながら、仮設キャンプで過ごしていた。

そこに現れたのが、ニューディール政策の一環として設けられた連邦政府機関の農業安定局で、記録写真家として働いていたドロシアだったのである。

全米に知られた『移民の母』

画像:ドロシアが『移民の母』と同時に撮影したフローレンスと子供たち public domain

ドロシア・ラングは、後年『移民の母』を撮影したときの状況について、次のように語っている。

私は飢えと絶望の中にいる母親に、まるで磁石のように引き寄せられました。
カメラを向けたとき、どう説明したかは覚えていませんが、彼女が私に一言も質問しなかったことはよく覚えています。
近づきながら7枚の写真を撮影し、名前や境遇は尋ねませんでしたが、彼女は自分が32歳であることを教えてくれました。

撮影された写真は、ドロシアによって農業安定局より先にサンフランシスコ・ニュース紙に送られ、同紙はカリフォルニア州での移民労働者の窮状を伝える記事とともに『移民の母』を掲載した。

記事の反響は大きく、これをきっかけに連邦政府は約2万ポンド(約9,100kg)の食糧を現地キャンプへ送付し、困窮した労働者にとっては救いとなった。

しかし、連邦政府から食糧が届いた頃にはすでにフローレンス一家の車の修理は終わっており、一家はニポモ・メサを後にしてワトソンビル近郊に移住していたという。

撮影から42年後に発覚した『移民の母』の正体

画像:ニューディール政策によりアメリカの経済は一時的ではあるが回復傾向に転じた。写真は活気が戻りつつある1935年のニューヨーク public domain

こうして、ドロシアが撮影した『移民の母』は、アメリカの大恐慌を象徴する写真として広く知られるようになった。

被写体となったフローレンスは「1930年代のモナ・リザ」と呼ばれ一躍有名になったが、フローレンスは最も貧しい時期にその恩恵を受けることができなかった。

『移民の母』は、農業安定局による資金提供を受けた写真であるため、連邦政府の著作物およびパブリック・ドメインとして扱われたので、ドロシアもフローレンスも写真から収入を得ることはなかったのである。

また、写真が有名になったことでドロシアの報道写真家としての評価は高まったが、フローレンス自身は被写体にすぎず、当時は無名のままだった。

その後、フローレンスはジムと別れ、太平洋戦争が終戦を迎えた1945年に病院管理者だったジョージ・トンプソンと再婚して、経済的困窮からは抜け出すことができた。

『移民の母』の被写体が、若かりし頃のフローレンスであることが発覚したのは、撮影から42年後の1978年のことだった。

モデスト・ビー紙の記者であるエメット・コリガンは、リークを受けてフローレンスが住むトレーラーハウスを見つけ、『移民の母』がフローレンスであることを特定した。

インタビューでフローレンスはこう語っている。

ドロシアが私の写真を撮らなければよかった。私は一銭ももらえなかった。彼女は私の名前を聞かず、写真は売らないと言った。複製を送ると言っていたけれど、それも結局届かなかった。

ただし、これらの発言はフローレンス側の証言であり、ドロシア自身の公式記録には残っていない。

1983年8月、フローレンスは重い病に倒れ、家族は医療保険に加入していなかったため、治療費のために寄付を募った。

フローレンスが『移民の母』の被写体として恩恵を受けたのはこの時が初めてで、『移民の母』に感銘を受けた人々から、合計3万5000ドルの寄付金が寄せられたが、入院してまもない1983年9月16日に、80歳で亡くなった。

後に、息子のトロイ・オーウェンズはこう語っている。

『移民の母』は、長い間、家族にとって一種の呪いのような存在だった。でも、あの寄付と手紙が届いてからは、私たちに誇りを与えてくれる写真になった。

大恐慌時代と母性の象徴となった『移民の母』

画像:フローレンスと幼い子どもたち public domain

ドロシア・ラングが撮影した『移民の母』は1998年、アメリカ郵便公社が発行した「Celebrate the Century」シリーズで32セント切手として採用された。

また、同時期にドロシアの手書きのメモとサインが入った写真が、244,500ドルで落札された。

2002年11月にも、ドロシアが個人で現像した『移民の母』の写真が、141,500ドルで落札されている。

さらに2005年10月、未修整のプリント32枚を含む同シリーズのセットが、当初予想額の約6倍となる296,000ドルで落札されている。

資本主義国家ならではの株価大暴落で始まった、世界恐慌時代だからこそ撮影できた『移民の母』という写真が、被写体本人やその家族のあずかり知らぬところで高額取引された事実は、なんとも皮肉に感じられる。

フローレンス自身は生前ほとんど恩恵を受けられなかったが、逆境を耐え抜いた一人の母親として、そして「強き母性」を象徴する存在として今もなお語り継がれている。

参考 :
Don Nardo (著)
Migrant Mother: How a Photograph Defined the Great Depression (Captured History)』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

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