今から30年前のクリスマス。ある1人の独裁者が銃殺刑に処されました。
その男はルーマニアを恐怖のどん底へと叩き落とし、そして今でも続く貧困の爪痕を残したのです。
今回はそんなルーマニアの独裁者であったニコラエ・チャウシェスクについてみていきます。
権力掌握まで
ニコラエ・チャウシェスクは1918年、ルーマニアの農家の子として生まれました。
そして彼は11歳の時に首都ブカレストにて働き始め、ここで共産主義という思想に浸かり始めます。この頃の共産主義といったらソ連がまだ共産主義革命によって誕生したばかり。まだまだ共産主義政党が非合法な国もたくさんあり、ルーマニアもそのうちの一つでありました。
しかし、彼は1932年にルーマニア共産党に入党。何度も逮捕されて刑務所に入れられても共産主義の実現のため動き続け、1945年にルーマニアがソ連によって占領されるまで刑務所と潜伏活動を行ったりきたりしています。
そしてルーマニアがソ連に占領されるとソ連の傀儡としてルーマニア共産党政権が誕生。チャウシェスクはその党のトップ2になり政治を動かしていくのでした。
ちなみにこの時に生涯の妻となり、彼よりも悪政を敷くことになるエレナ・チャウシェスクとは1943年に刑務所で出会いそのまま1946年に結婚。この時からルーマニアの運命は決まっていたのでした。
ルーマニアのトップとして
時が経ち1965年、この時ルーマニア共産党の指導者であり、チャウシェスクの友人であったゲオルゲ・デシが死去。後継者としてチャウシェスクに白羽の矢が立ちました。こうして彼はルーマニア共産党の第一書記に就任。ルーマニアの指導者に成り上がったのです。
そんな彼であるが、最初の頃は悪政の連発はしておらず、ユーゴスラビアを習ってソ連の衛星国にあるにかかわらず、ソ連と距離を置いて西ドイツやアメリカなどの西側諸国との交流を取り援助を取り付けたり、国交を結ぶなど開放的な政策をとっていました。
ちなみに、日本にも来日して昭和天皇とも会談しています。
ニコラエ・チャウシェスクと妻の大暴走
ここまで見るとユーゴスラビアのチトーと同じく、共産主義国でありながら西側諸国との交流をとって国を発展させた、すごい指導者で終わるはずだったのですが、妻がスカポンタンだった事もあり、ここからどんどんおかしくなっていきます。
特に酷かったのがルーマニアにおける人工中絶の禁止でした。
実は妻は大の子供好き。最初の方は孤児院の設立や学校の設立など良い方向にいってたはずが、いつのまにか「人が多いと国が発展する」と勘違いし始めて1966年に人工中絶の禁止や離婚の基本的な禁止、さらには子供を5人産んだ人に対して優遇措置を取るなど、まるで戦時中の日本の『産めよ増やせよ』に本気で取り組んでいきました。
しかし、当時の経済的余裕がなかったルーマニアではうまくいかず、経済的な理由から育児放棄による捨て子が増発。『チャウシェスクの落とし子』とも言われるルーマニアのストリートチルドレンの増発を引き起こしてしまいました。
さらに中国や北朝鮮を公式訪問してからニコラエ・チャウシェスクの方も少しずつ方向性がズレていき、北朝鮮や中国のような個人崇拝を取り入れ始め、有能な軍人や政治家などがこぞって亡命。ルーマニアの有名な新体操選手であるコマネチもルーマニア革命直前にアメリカに亡命しています。
最悪の内政体制
こうしてどんどんおかしくなってくルーマニア。実は上にも書いた通りルーマニアはこの頃、西側諸国と交流を行なっていたと書いていましたが、その時融資された130億ドルの大金が払えなくなっていき、これが原因で1970年代に入るとルーマニアの財政は破綻状態に追い込まれてしまいます。
困ったチャウシェスクは仕方なくお金を返済するために、ありったけのルーマニアの工業品や農作物を輸出して外貨を稼いでいきます。しかし、そうなると国内での飢餓が蔓延。今日食べるものも困る事態となり、さらに産めよ増やせよの精神もあってどんどん国内状況は悪化していきます。
しかし、チャウシェスクや妻はこんな状態は見て見ぬ振り。
それどころか首都ブカレストに「アメリカ国防総省(ペンタゴン)に次ぐでかい宮殿を建てよう!」と国民の館を建設。
富を完全に独占して貧富の差がどんどん広がっていきました。
ルーマニア革命による処刑
こうした中、1985年に共産主義国の親玉であるソ連がペレストロイカを始めると、ルーマニアの情勢はより酷いものになっていきます。
もう、この頃になると西側諸国も東側諸国もルーマニアに愛想をつかしており、国際社会で完全に孤立していました。しかし彼は権力を手放そうとせず、より個人崇拝を強化していきます。流石に民衆たちにも我慢の限界がやってきて反発する意見が増えてきます。さらに1989年に東欧革命によって各地の共産党政権が倒されると、この動きは加速。
同年12月についにルーマニア革命が勃発しました。頼りのソ連にも見限られさらに、軍にも裏切られたニコラエ・チャウシェスクは失脚。12月25日のクリスマスの日に軍による略式裁判によって、妻とともに公開処刑されました。
チャウシェスクの死後、ルーマニアでは自由選挙が開催。民主主義が復活しましたが、彼が残した爪痕はひどく今でもルーマニアは経済停滞などさまざまな問題があります。
ちなみに彼が遺した最大の負の遺産である国民の館は、今ではルーマニアでは一二を争う観光地となっており、良くも悪くもルーマニアを象徴する建物となりました。
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