武力弾圧
1989年6月に入ると、人民解放軍(中華人民共和国の軍隊)が北京に集結しているという噂が流れ「武力弾圧が起こるのでは」とメディアが報じるようになる。
そして6月3日から4日未明にかけて、装甲車を含む完全武装された部隊がついに天安門広場へ投入された。軍隊の進行は一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、中国共産党首脳部の命令を受け、市街地での無差別発砲が始まった。
この時、中国人民解放軍のトラックは民衆に襲撃されており、武器や爆薬の一部が奪われていた。
民衆も、鉄パイプ、火炎瓶、ライフル、機関銃があり、人民軍と戦う準備はある程度整っていた。広場へと続く道路では民衆の暴動が止まらず、バスを横転させ放火し、炎のバリケードを作り、橋の上からは石やコンクリートが兵士に投げつけられた。
兵士の一部はデモ隊に巻き込まれ、暴行されて撲殺される者もいた。逃げ遅れた兵士にガソリンをかけて燃やし、死体を橋にぶら下げるなど非常に残忍な行為もあった。
天安門広場での出来事については多くの証言があり、自民解放軍による無差別殺戮があったという話もある。
広場での殺戮の有無に関しては多くの研究がなされている。中国当局の情報操作もあって事実は曖昧なものとなっている。
天安門事件の犠牲者
天安門事件の死者数はこれまで数百人~千人以上と推計されていた。ところが、ある中国英国大使の極秘公電では「最低でも1万人」とされている。この公電は2017年に機密解除されたもので、当時の駐中国アラン・ドナルド英大使が本国へ送った公電である。
ドナルド大使によると
「学生達は撤収まで1時間の猶予を与えられたつもりでいた。しかし5分後に装甲兵員輸送車が攻撃を開始した。学生たちは腕を組んで対抗しようとしたが兵士たちを含めて轢き殺されていった。何度も何度も遺体をひき「パイ」を作り、ブルトーザーが遺体を集めていった。死体は焼却され、ホースで排水溝に流されていった。」
事実であれば大変な惨劇である。
米国の報告書でも似たような死者数であり、ソ連の報告書でも3000人と見積もられている。
もちろん中国サイドはこれを外国側の一方的な報道と否定しており、発泡はあったが虐殺はなかったとする学者もいる。
現場で実際に学生たちの救助をしていた者の中には、「私は最後まで現場にいたが戦車は広場の外に居たし、虐殺など全く起きなかった。死傷者も一人も見ていない」と証言している人物もいる。
天安門事件の流れ
天安門事件の一連の出来事は、通説では以下である。
6月2日、兵士の数が増大する。地下トンネルを通って天安門広場に隣接する人民大会堂に到着した兵士もいた。
6月3日、鄧小平が「あらゆる手段を用いて秩序を回復せよ」と総参謀に命令。
同日午後6時、「生命の安全のため労働者は職場に留まり、市民は自宅から出ないように」という緊急通知がテレビとラジオで流される。軍のトラックは市街地に近づくがバリケードで行手を阻まれた。市民は軍用車のタイヤを切りつけて動けないようにした。
最も激しい抵抗があった大通りには数千人の市民が集まっており、装甲車の行手を阻んでいた。午後10時半頃、部隊は空砲を打ち威嚇を始める。
午後11時、部隊はついに群衆に向かって実弾を発泡。そしてトラックと装甲車が全速力で突進を始めた。
6月4日午前1時、あらゆる方向から部隊が天安門広場に到着する。この時、広場には約10万人のデモ隊が残っていたが、部隊は彼らに対して発砲を開始。
まさか実弾を撃ち込まれるとは思っていなかったデモ隊は、大パニックに陥った。午前2時、広場の残留者は数千人にまで減少。
午前3時40分、デモ隊のリーダーが戒厳部隊と接見し平和退去を申し入れた。軍はこれに同意し学生達は退去を始めた。午前5時40分、デモ隊の姿は完全に無くなった。
天安門事件と中国の本質
この事件を通して分かることは
「中国共産党が生き残ったのは経済的な成功のおかげでもあるが、本質的には強権的な手段のためである」
ということである。
2017年秋に開催された党の19回大会では、習近平が憲法改正を通じて国家主席の任期を撤廃してしまった。少なくとも習近平は2022年以降も総書記、国家主席、中央軍事委員会主席三役のトップに居座ることが可能となった。
習近平は汚職を徹底的に排除することで支持を得てきた。「習近平思想」を掲げ、自らに権力を集中させて国民に発言させず、インターネットやメディアの引き締めを強化している。
天安門事件で改革を夢見た多くの若い命。中国共産党はこの「黒歴史」をどのように精算するのであろうか。
天安門事件とはどのような事件だったのか? ① 「民主化デモの始まり」
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