中世のヨーロッパは、封建領主(キリスト教会・国王・国王の臣下、騎士等)が治める荘園で、奴隷的な農民が様々な税を負担し労役を果たしていた。
彼らは移動を含め、自由の権利を奪われていた。
そんな中世ヨーロッパで、イタリアの自治都市・コムーネだけが封建領主から自立して自治権を認められ、唯一民主制を留めていたのである。
コムーネの意味と成り立ちとは?
コムーネとは「自治都市」を表し、イタリア語では「共同体」を指し示す。
市民が教会・国王・貴族という支配階級に隷属し自由が制限されていた中世ヨーロッパにおいて、イタリア北部と中部では異なる歩みが興り、有力市民が台頭したのである。
なぜ自治都市コムーネは誕生したのか?
成立要因は3つあった。
1. キリスト教帝国の理念でヨーロッパ統一を推し進めたフランク王国(フランク人建国、5世紀~9世紀)がバラバラになり力が弱まった
2. 東地中海貿易の発展が、商工業者(市民階級)の数と財力を拡大させ、発言力が増した
3. 12~13世紀にかけ、神聖ローマ帝国(ローマ教皇の支持を受けた皇帝が治める国)と聖職者任命権を巡り対立していたローマ教皇が、市民の自治権を応援した
以上が挙げられる。
また9世紀から10世紀にかけイタリアは、幾度も異民族侵入を受けた。
行政府が機能しない混乱状態の中で、人々は精神的支柱を司教に求め、期待に応えた司教は心身共人々の守護者となり、権威が高まった。
そして司教の権威を後押しする市民の影響力も当然強くなったのである。
ヴェネチア共和国における元首の選出とは?
「アドリア海の女王」と称えられたヴェネチアは、1000年以上も続いた共和国だった。
アジア諸国を見聞した旅行記「東方見聞録」で有名なマルコ・ポーロも、この都市国家出身である。
なぜ、ヴェネチア共和国は1000年に渡る繁栄が続いたのだろうか?
ヴェネチア共和国の初期は、「元首(ドージェ)」と云う国家元首の地位があったが、有力な家柄から選ばれるのが慣例だった。
しかし世襲傾向が続き、共和制が失われる危機感から元首の後継者指名が禁止となった。
1172年、40人の委員による選挙により元首が決められた。そして40人委員の選出を決める大評議委員の選出も毎年任命するという、複雑な選出方法を取ったのである。
こうして有力な一族でも、元首を自由に決めにくい仕組みが維持された。
また、新任ドージェは形式上であってもヴェネツィア市民の承認を受ける必要があった。
その後もヴェネチアは元首を選挙によって決める方法を守り続けたのである。
1000年の繁栄を保てた最大要因は、ここにあると言える。
ヴェネチア共和国を支えた交易とは?
ヴェネチア共和国の交易の品は、主に以下の3つである。
1. 食料
2. 香辛料
3. 綿
1は、ヴェネチアの弱点であり、死活問題だった。
ヴェネチアの後面には都市民を支える穀倉地がなく、パンを得るには交易で手に入れるしかなかった。
だがヴェネチアは「アドリア海潟の塩」という優れた産物を持っていた。
当時「塩」は、肉や野菜の保存に欠かせないモノだった。
国内を横断するポー川を遡れば平原が広がり、内陸都市から食料を買える。
更に海路から東ローマ帝国、教皇領等からも輸入し、内陸部へ再輸出をして利益を上げていたのである。
2は、ヴェネチアに富をもたらした根源と云えるだろう。
東方貿易(地中海東岸国家との貿易)により入手した香辛料(胡椒)は、金の卵だった。
中世ヨーロッパの支配者・富裕層は、大層なスパイス好きで1400年には約1000トンの胡椒が消費されたと云う。
3は、15世紀のイベリア半島(現在のスペインとポルトガル)の勢力変化がきっかけだった
何世紀にも渡りイベリア半島を支配してきたイスラム王朝が、1492年完全に排除された。
そのためジブラルタル海峡の航路が安定し、ヴェネチアはロンドンやブルッヘ(ベルギー)へ綿製品を積んだ商船を派遣した。
14世紀初めから、ヴェネチアは東方貿易で原綿を香辛料に次ぐほど輸入しており、北部イタリアでは綿糸を作り綿織物を作る工業が発展した。
綿交易が時代に対応し、ヴェネチアは大いに潤ったであろう。
ヴェネチア共和国の庶民の生活と楽しみとは?
政治に関われない庶民達は、どのように暮していたのだろうか?
意外に思われるかもしれないがヴェネチアは12世紀から造船所で軍船修理を行い、14世紀には軍船及び大型商船を生産している。 多い時は16,000人が造船業に携わっていた。
14世紀後半は銃器を製造し、16世紀になると造船と兵器重要生産地として世界に知れ渡る。 ヴェネチアの庶民は造船所や兵器工場で働き、申し分ない賃金を受け取っていた。
庶民の楽しみとしては、ヴェネチアでは様々な伝統行事やパレードが行われる。
例えば、ヴェネツィア・カーニバル(正教会と称されるキリスト教一派最高指導者との抗争勝利を記念したお祭り)では、仮面を被り異なる服装での自由な振る舞いが許された。
当時の庶民階級は、服装や振る舞い、話しかける相手さえ制約を受けていた。 しかしこのカーニバルの期間は自由を堪能できたのである。 仮面で素性を隠し、貴族風な衣装を纏い、貴婦人にお誘いの言葉さえ掛けられる夢のよう時間であった。
祭りの他には、国家元首・ドージェが執り行う数々の式典を庶民は目にすることができた。 その一つが、ドージェが専用船からアドリア海に指輪を落とす「海との結婚」である。 更にヴェネチアの中心サン・マルコ広場からの「ドージェ大行進」も見ものであった。先頭に下位官職者、続いて上位官職、真ん中にドージェ、身分の高い貴族から低い貴族が続くパレードである。
庶民達は、煌びやかな貴人達の行列にヴェネチアの誇りを感じたかもしれない。
終わりに
ルネサンスとは「再生」という意味である。
何故、イタリアでルネサンスが花開いたのか?
コムーネの繁栄がその背景にある。
コムーネの都市民が、自由で個性を重んじる考え方を支持した。
そして交易する商人達は、ヨーロッパ以外の世界を知っている。
商売上、言葉だけでなく商慣習や他宗教・他民族の考えも身につけていた。
交易は交流であり、知識と視野が広がる。
異なる世界を知る者たちの力が、ルネサンスの大きな原動力になったのである。
参考図書
「一冊でわかるイタリア史」 北原 敦 監修
「イタリアの歴史」ケンブリッジ版世界各国史 クリストファー・ダガン 著
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