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男児の遺体を見たがる不気味な11歳の少女
1968年5月25日、イギリス北部にある労働者の町スコッツウッドの廃屋で、男児の死体が発見された。
身体に目立った外傷はなく、口から血を流していた。
廃屋で謎の死を遂げたのは、当時4歳のマーティン・ブラウンであった。
母親のジューンが現場に駆けつけると、ジューンの姉でありマーティンの叔母であるリタがすでに到着していた。
リタは、近所に住む2人の少女たちに事件のことを知らされたという。
警察の取り調べに対しリタは、
「玄関がノックされたので開けると、メアリー・ベルとノーマ・ベルが立っていた。
メアリーから『おばさんの家の子が事故に遭った。場所を教えてあげる』と告げられたのでついていった。
現場に着くと、すでに息絶えた甥のマーティンが横たわっていた。」
と証言した。
事件から2日後の5月27日、メアリーとノーマは、亡くなったマーティンの自宅も訪ねていた。
「マーティンはいる?」と訊ねるメアリーに、母ジューンが「マーティンは死んだの」と答えると、メアリーは「死んだのは知ってる。棺に入っているところが見たいの」と言い不気味な笑みをたたえていたという。
当時、メアリーは11歳になったばかりの少女であった。
3歳男児の遺体遺棄現場を親族に伝えたメアリー・ベル
マーティンの不審死事件から2ヶ月後の1968年7月31日、3歳のブライアン・ハウが行方不明になった。
姉のパットが街中を探していると、メアリーとノーマが現れ、ブライアン探しに同行してくれたという。
メアリーは「コンクリートブロックの間で遊んでいるかもしれない」と言ったが、ノーマは「彼はあそこには行かないはず」と否定した。
しばらくすると2人の少女はブライアン探しをやめ、立ち去ったという。
ブライアンの家族と住民たちは、その日の深夜、まさにメアリーが言っていたコンクリートブロックの間で亡くなっているブライアンを発見した。
ブライアンは口から血液混じりの泡を噴いており、首には締められた痕跡が残っていた。
髪はバラバラに切られ、腹や太腿、局部も傷つけられていた。
足元には凶器と思われるハサミが落ちており、一方の刃は折れ、もう一方は折れ曲がっていた。
警察による検視解剖の結果、「死因は子どもによる絞殺」と断定された。
大人が犯人であれば相当の力が加えられ首に絞痕がしっかり残るものだが、ブライアンの首の絞痕は軽微なものであったという。
局部をはじめとする刺し傷も比較的浅く、子どもの犯行であることを裏づけていた。
同時に警察の脳裏には、2ヶ月前の4歳のマーティン・ブラウンの不審死事件が浮かんでいた。
マーティンの遺体に外傷がなかったのは、力が弱い子どもによる絞殺だったために首に痕が残らなかったからではないかと推察したのだ。
自分が殺した男児の葬儀を見てあざ笑うメアリー・ベル
警察は、スコッツウッドの3歳から15歳の子どもたち約1200人に事情聴取を行った。
その結果、回答に矛盾が多く事情聴取中ずっと不気味に笑っていたメアリー・ベルとノーマ・ベルが重要参考人として浮上した。
2人は同姓だったが血縁関係にはなかった。
メアリーは、
「あの日の午後、近所に住む少年がブライアンを叩いているのを見た。
少年は、片方の刃が折れるか曲がるかしたハサミで遊んでいた。」
と証言した。
しかし、凶器と見られるハサミの存在とそれが破損していた事実は、捜査関係者しか知り得ない情報だったため、警察はメアリーに疑惑の目を向け始めた。
さらに、メアリーに怪しいと証言された少年を調べると、彼は事件当時、家族と空港にいたというアリバイが判明した。
数日後、ノーマの両親が「娘がブライアンの事件について何か伝えたいことがあるようだ」と警察に通報し出頭した。
警察に尋問されたノーマは泣き出し、一連の事件への関与を自供した。
ノーマは、メアリーがブライアンを絞殺する様子をそばで見ていたという。
メアリーがカミソリで行った刺傷方法とその隠し場所もノーマは自白し、警察の捜索によりカミソリが発見された。
事件から一週間後、絞殺された3歳のブライアン・ハウの葬儀が行われた。
捜査を担当し葬儀に参列していたドブソン警部は、
「棺が運び出された時、メアリーはハウ家の前に立ってた。
彼女はその様子を手を叩いて笑いながら見ていた。
メアリーを早く捕まえなければ、また別の幼児が殺されてしまうと思った。」
と後に語っている。
同時刻、メアリーとノーマが当日着ていた洋服の鑑定が行われていた。
ブライアンの遺体から採取されたグレーと黒茶色の繊維が、メアリーとノーマの洋服の繊維と一致し、2人による犯行が決定的なものとなった。
その日の夕方、2人の幼児を絞殺した容疑でメアリーとノーマは逮捕された。
「人に注射針を刺せるから看護師になりたい」医師はサイコパスと診断
逮捕後、2人は医師による精神鑑定を受けた。
13歳のノーマには知的障害が見られ、人の言いなりになりやすい傾向があった。
11歳のメアリーは利口だが狡猾で感情の起伏が激しく、自己防衛に走る性質が見られた。
ノーマは年上だったが、メアリーの犯行を止められなかったのだ。
取り調べに付き添った看護師は、
「メアリーは、自分たちが犯した事件を詳細に語った。
ボキャブラリーが豊富で頭がよく、通常の11歳は知らない難しい言葉も知っており、到底子どもとは思えなかった。
そして、幼児2人を殺したことについて、何も感じていないようだった。」
と証言している。
メアリーは取り調べで「看護師になりたい。人に注射針を刺せるから」と淡々と語っていたという。
また、最初の殺人を犯す2週間前、メアリーはノーマの妹スーザンに「人の首を絞めたらどうなるの? 死ぬの?」と尋ね、首を絞めているところをノーマの両親に止められていたことも判明した。
メアリーが、他者を痛めつけることに快感を覚えていたことが次第に明らかになっていった。
裁判では、ノーマが不安そうに泣きながら出廷していたのに対し、メアリーは毅然とした態度で審議に集中していたという。
結果、ノーマは無罪、メアリーは「責任能力が低下していた」と判断され、故殺罪(殺意はないが人を殺害した罪)で有罪および無期限の禁固刑が下された。
4人の精神科医は
「メアリーは精神病質性人格障害(サイコパシー)である。
社会適応能力は原始的で未発達であり、受け入れ難い状況を無意識に認めない否認傾向がある。
人心操作、他者虐待、逃避的かつ暴力性があり、精神的な治療が必要である。」
との診断を裁判で証言した。
しかし、彼女を受け入れる精神病院が見つからず、通常の矯正施設に入所することになった。
生まれた瞬間に母親から拒絶され、売り飛ばされ殺されかける
メアリー・ベルは、1957年5月26日、スコッツウッドのスラム街で生まれた。
4歳のマーティン・ブラウンが殺害された1968年5月25日は、奇しくもメアリー10歳最後の日だったことになる。
メアリーを出産した母親エリザベス・ベルは、当時17歳で売春で生計を立てており、メアリーの実父は不明だった。
医師が誕生したばかりのメアリーをエリザベスの胸に抱かせようとすると、彼女は
「早くそれをどこかへ片付けて!」
と激しく怒り拒絶したという。
そしてエリザベスは、乳児だったメアリーを精神的な問題を抱える見知らぬ女性に売り飛ばしてしまった。
エリザベスの姉キャサリンが、メアリーを家に連れ戻し養育を申し出たが、エリザベスはそれを拒否、メアリーはその後も劣悪な環境下で育つことになった。
幼いメアリーはエリザベスが常用していたドラッグや睡眠薬を飲まされたり、部屋の窓から投げ出され大怪我を負ったりと、何度も生死の境をさまよっていたことが後に明らかになった。
さらに、エリザベスはサドマゾヒズムの集会にメアリーを連れていき、複数の顧客に性的虐待を許可していたという。
メアリーのサイコパス的かつ快楽的な犯行の原因が、悲惨な養育歴にあったことは間違いなかった。
エリザベスはメアリーの服役中も、娘のエピソードや写真をメディアに売って生計を立て、ある時はメアリーに面と向かって「あなたは悪魔の子」と言い放つこともあったという。
イギリス国内で受刑者の身元を保護する「メアリー・ベル命令」の誕生
1980年5月14日、23歳になったメアリーは仮釈放となり出所した。
メアリーは新しい偽名を含む匿名権を裁判所から許可され、イギリス国内で新生活をスタート。
4年後には、若い年下の男性と付き合って妊娠、女児を出産している。
娘が誕生した5月25日は、奇しくも当時4歳のマーティン・ブラウンを殺害した日でもあった。
メアリーは、娘が生まれたことで被害者家族の心の傷を認識しだしたという。
1998年、メアリー家族は匿名で静かに暮らしていたが、メアリーの母エリザベスが彼女たちの住所をメディアに売ってしまい、マスコミから追い回される生活を余儀なくされ、当時14歳だった娘も母親メアリーの過去の事件を知りショックを受けたという。
メアリーたちが裁判所に認められた匿名権の期限は、当初「娘が18歳になるまで」とされていたが、メアリーは高等裁判所にかけあい、「家族の匿名期限は死亡するまで」という裁判所命令を2003年に勝ち取った。
さらに、2009年にはメアリーの娘が出産したことで、裁判所は孫娘を含めたメアリーの家族を「Z」と呼ぶよう命令を改訂した。
「メアリーの家族とその生活を特定する可能性のある、いかなる情報も公開してはならない」と定められた裁判所命令は、イギリス国内で受刑者の身元を恒久的に保護した最初の判例として、俗に「メアリー・ベル命令」と呼ばれるようになった。
世間の反響は大きく、英語辞典『Lexico』にも「メアリー・ベル命令」という言葉とその意味が掲載されることになった。
本を出版
1998年、母親に住所を明かされたことでマスコミの餌食となったメアリーは、ジャーナリストのジッタ・セレニーの取材と調査に応じ、自らの犯行と半生を綴った自伝『魂の叫び ~11歳の殺人者メアリー・ベルの告白~』を出版し、再び世間を騒がせた。
セレニーが著者となったこの書籍には、メアリーが殺人事件を起こす前後の出来事や売春婦だった母親との関係、母親の顧客から受けていた性的虐待、収監中の出来事などが告白されており、釈放後のメアリーを知る親族、友人、専門家との面談内容も記されている。
セレニーは、書籍の出版手数料をメアリーと共同で負担したため、売上報酬として約1万5千ポンド(当時の日本円で324万円)をメアリーに支払ったが、世間ではこの事実が論争となり批判を受けた。
セレニーは、
「出版の目的は、犯罪を再現することではなく、何故このようなことが起こったのかを理解することにある。
社会は暴力をふるう子どもたちにどう対処すべきか。
大人と同じように罰するのか、それとも彼らの未発達な感情を理解し、健全な生活を送れるよう治療を提供するのか。
11歳の子ども、とくに肉体的にも精神的にも虐待された子どもが、自らの意思と精神を健全に形成し、行動の結果を完全に理解できるのか?」
と世間に疑問を投げかけた。
セレニーは当時41歳になっていたメアリーを「思慮深く、反省した、贖罪を求める女性だ」と語っている。
しかし、書籍がメアリー本人に焦点を当てた内容であったため、被害者遺族たちは猛抗議した。
セレニーは、幼くして殺害されたマーティンとブライアンの家族に手紙を送り、本の制作にあたり連絡を取らなかったことを謝罪し、被害者や遺族の存在をないがしろにしたわけではなかったと釈明している。
セレニーは、
「メアリーは自分が犯した罪を反省しており、『幼少期に受けた虐待が自分の犯罪行為の免罪符にはならない』と有罪判決を受け入れている」
とコメントを残している。
参考図書 : 『魂の叫び ~11歳の殺人者メアリー・ベルの告白~』
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