病気や身体障碍を原因として、人とは異なる身体的特徴を持つ人々を見世物にするフリークショー。
今では炎上間違いなしのエンターテイメントだが、遅くとも中世頃から始まったフリークショーは、19世紀後半から20世紀の初頭にかけて欧米で大流行した。
しのぎを削る興行主たちはショーの花形となる人物を求めて、様々な方法で外見的に特異な特徴を持つ人々を集めた。より衝撃的な外見を持つ人材を見つけるために、コンテスト形式でオーディションを行うこともあったほどだ。
メアリー・アン・ビーヴァンは、フリークショー全盛期の時代に彼女自身の身体的特徴を利用して「世界で最も醜い女性」の地位を勝ち取った女性である。
コンテストでの優勝により大衆の好奇心の的となったメアリーは、多数のフリークショーに出演して多大なる収益を稼ぎ出した。
しかし女性にとって、外見の醜さは大きなコンプレックスになり得る。それなのになぜ、メアリーは率先して「世界で最も醜い女性」を決めるコンテストに立候補したのだろうか。
彼女が自ら醜い怪物として見世物となる人生を選んだのは、母としての偉大な愛が彼女を突き動かしたからだった。
美しかった容姿が病気により醜く変化
メアリー・アン・ビーヴァンは1874年12月20日、イギリスロンドン東部のプレイストウで、労働者階級だったウェブスター家の8人兄弟の1人として生まれた。明るく天真爛漫な少女だったメアリーは、やがて聡明で美しい女性へと成長する。
大人になり看護師として働くようになったメアリーは、トーマス・ビーヴァンという男性と出会い、29歳の時に結婚した。2男2女に恵まれて幸せに暮らしていたが、2つの不幸がメアリーに襲い掛かった。
1つ目の不幸は結婚してから間もない32歳頃に、メアリーが先端巨大症(アクロメガリー)という難病を患ってしまったことだ。先端巨大症は顔面が変形するとともに、手足などの体の先端が肥大化していくという、成長ホルモンの過剰生産を要因として発症する病気だ。
先端巨大症は外見を変化させるだけではなく、病気が進むにつれて頭痛や視力障害、関節痛や手のしびれなど様々な症状を患者にもたらす。
メアリーも外見の著しい変化とひどい頭痛、視力の低下に悩まされ、周りからの偏見の視線や心ない言葉にも苦しめられた。
夫が急逝して経済的に困窮
当時の医療技術では先端巨大症を治療することはできず、メアリーは夫のトーマスや子どもたちと支え合いながら暮らしていたが、2つ目の不幸がビーヴァン家を襲った。
1914年、トーマスが脳卒中で急死してしまったのだ。
愛する夫を突然失い、幼い4人の子どもを抱えるシングルマザーとなったメアリーは、病気が原因で割の良い仕事に就くこともできず、窮地に立たされてしまった。
子どもたちを育てるためにはまとまった収入が必要だ。金策と職探しに奔走するメアリーは、とある新聞広告に目を止めた。
それはアメリカのサーカスエージェントが掲載した「世界で最も醜い女性コンテスト」の候補者を募集する広告だった。
コンテストの優勝者には賞金が支給され、さらにはサーカスとの契約も約束されているという。
自分を苦しめている容姿の醜さが、収入に繋がるかもしれない。メアリーは「子どもたちのためなら手段など選んでいられない」と覚悟を決めて、広告の掲載元に自らの写真を送ったのだ。
最も醜い女性としてフリークショーのスターに
こうしてメアリーは「世界で最も醜い女性コンテスト」で見事に優勝を勝ち取り、賞金を手にした。
はじめこそ自らの外見を見世物とすることに抵抗があったが、週給10ポンドの給金、旅費の全額支給、子どもたちの教育資金の提供を条件にサーカスと契約し、フリークショーへの出演を決めた。
1920年になると、アメリカの大物興行師、サミュエル・W・グンペルツから声がかかり、メアリーはニューヨーク市ブルックリンのコニーアイランドにあった遊園地、ドリームランドのフリークショーに出演するために渡米し、数多くの出演者たちを押しのけて花形スターとして活躍することとなる。
そしてそれからの2年間で、メアリーは2万ポンドを稼ぎ出した。1920年当時の2万ポンドは現在の50万ポンドに相当し、日本円に換算すれば現在のレートで約9830万円に相当するというのだから驚きだ。当時のフリークショーはそれほど人気のある一大エンターテイメントだった。
メアリーと4人の子どもたちは離れて暮らす生活となったが、子どもたちを皆寄宿学校に通わせて、衣食住に困らない生活と十分な教育を与えることができた。子どもたちから送られてくる手紙を読む時が、メアリーにとって最も幸福なひと時だったという。
メアリーの人気は衰えることなく、アメリカの有名サーカス「リングリングブラザーズ ワールドグレイテストショー」にも出演し、そこでも注目の的となった。
愛する子どもたちを自らが稼ぎ出した収入で養っているという事実は、メアリーに母としての誇りと自信を与えた。子どもたちの幸せを思えば、たとえ観客から心無い言葉や嘲笑を浴びせられても、取るに足らないことだったという。
永遠の眠りに就き祖国に帰ったメアリー
祖国を離れてアメリカに渡ったメアリーがヨーロッパに帰ったのは、1925年に開催されたパリ万博に参加するための一時期だけで、生涯ドリームランドで過ごしフリークショーに出演し続けた。
1933年12月26日、メアリーは59歳で亡くなった。
生前子どもたちに「祖国であるイギリスに埋葬してほしい」という遺言を残しており、その希望通りロンドン南部のブロックリー&レディウェル墓地で年明けの1月2日に葬儀が行われ、安らかな眠りに就いた。
メアリー・アン・ビーヴァンは、世界一と認められた醜い容姿と、世界一美しい親心を持っていた女性だった。
ハンデを逆手に取り、愛する我が子らを守り育て抜いたメアリーの逸話は、100年の時が経った今も語り継がれている。
参考文献
レスリー・フィードラー (著), 伊藤俊治 (翻訳), 旦敬介 (翻訳), 大場正明 (翻訳)
『フリークス ―秘められた自己の神話とイメージ― 新装版』
Marc Hartzman (著)
『American Sideshow: An Encyclopedia of History’s Most Wondrous and Curiously Strange Performers』
関連記事 : パリ社交界一の美女が 監禁生活でおぞましい姿に 【ブランシュ・モニエ事件】
この記事へのコメントはありません。