掛川城(遠江国佐野郡懸河。現在の静岡県掛川市掛川)は、掛川駅(JR東海道本線・新幹線、天竜浜名湖線)の約500m北、徒歩約7分の場所にあります。駅から近いし、駅には新幹線も停まる──行きやすいお城です。
※JR掛川駅南口コンコース内の掛川観光協会ビジターセンター「旅のスイッチ」には、掛川城の無料パンフレットや、続日本100名城「高天神城」のスタンプがあります。
http://www.kakegawa-kankou.com/visitorcenter/
※車で行く場合、駐車場は、掛川大手門駐車場と掛川城公園駐車場があります。どちらの駐車場も有料(30分100円)です。竹の丸(見学料100円)や龍華院には利用者限定の無料駐車場があります。
大手門は大きく、立派です! 気分が高まります!
案内板がありました。長文です。(長い割にはいつ復元したか書かれていませんが;)
「掛川城大手門の復元について
この門は掛川城の城内に入る最初の門として天守閣と共に掛川城の威厳を示すに相応しい最大の門です。天正18年(1590)より慶長5年(1600)まで在城した山内一豊(やまのうちかずとよ)が中町に開かれた松尾口の大手筋を連雀町(れんじゃくちょう)に移して大手郭を造り、その正門として設けたものです。建物は楼門造りの櫓門で間口は7間(約12.7m)、奥行は3間(約5.4m)、棟までの高さは38尺5寸(約11.6m)、二階は漆喰塗籠造りで格子窓付きの門櫓をおき、庇屋根を付けています。一階の中央には1間半開き(巾約2.4m、高さ約4.3m)の門扉、左側に1間(巾約1.2m、高さ約2.2m)片開きの通用口の潜り戸を設けています。鏡柱は2尺2寸(約66cm)に1寸5尺(約45cm)もあり、冠木、梁、垂木等も総て大きな木材を用いた壮大な造りでです。冠木下の高さが14尺6寸(約4.4m)もあるのは乗馬のままで通行出来るためです。嘉永の地震(1854)で倒壊し、安政5年に再建されましたが、明治になって廃城になり民間に払い下げられ火災に遭い焼失しました。元の位置は連雀町裏の堀を渡ったところ(交差点南、道路表示部分)で区画整理事業により基礎の根固石を発掘調査し、規模を確認しましたが、元の位置では道路と家屋に支障を来たし、止むなく50m北側に創建時の姿に復元しました。この発掘調査で門を囲む桝型の築地と共に番所の遺構も発見され、移築保存されていた大手門番所を旧地と同じ位置関係に全体的に復元しました。大手門から見る天守が一番美しいといわれます。この付近から大手門と共に天守をご鑑賞ください。 掛川市」(現地案内板)
──大手門から見る天守が一番美しいといわれます。
せっかく気分が高まったのに、これ以上に美しい天守はもう見られないのですか?
出鼻をくじかれましたが、先へ進みます ((((*。>ω<)ノ Go Go♪
大手門には、掛川城の歴代城主が掲示されていました。
──あなたが思い浮かべた掛川城主はどなた?
掛川城を築いた朝比奈泰煕・泰能親子かな?
今川氏真を守って徳川家康と戦った朝比奈泰朝かな?
2006年NHK大河ドラマ『功名が辻』の山内一豊(天守の構築、城下町の整備)かな?
全国的には山内一豊でしょうけど、掛川市民としては太田氏ですね。(掛川市の市章が桔梗の花とKakegawaの頭文字「K」を組み合わせたもので、市の花が桔梗なのは、太田氏の家紋が「太田桔梗」であることによるようです。)
※掛川市の市章・花・木・鳥
http://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/city/profile/sisyohanakitori.html
《掛川城主と在城期間》
初代:朝比奈泰煕(在城期間不詳)
2代:朝比奈泰能(永正9年(1512年)~弘治3年(1557年))
3代:朝比奈泰朝(弘治3年(1557年)~永禄12年(1569年))
4代:石川家成(永禄12年(1569年)~天正12年(1584年))
5代:石川康通(天正12年(1584年)~天正18年(1590年))
6代:山内一豊(天正18年(1590年)~慶長6年(1601年))
7代:松平定勝(慶長6年(1601年)~慶長12年(1607年))
8代:松平定行(慶長12年(1607年)~元和3年(1617年))
9代:安藤直次(元和3年(1617年)~元和5年(1619年))
10代:松平定綱(元和5年(1619年)~元和9年(1623年))
城番:中泉代官・中野重吉(元和9年(1623年)~寛永2年(1625年))
11代:朝倉宣正(寛永2年(1625年)~寛永9年(1632年))
城番:高倉昌重(寛永9年(1632年))
12代:青山幸成(寛永10年(1633年)~寛永12年(1635年))
13代:松平忠重(寛永12年(1635年)~寛永16年(1639年))
14代:本多忠倶(寛永16年(1639年))
15代:本多忠義(寛永16年(1639年)~正保元年(1644年))
16代:松平忠晴(正保元年(1644年)~慶安元年(1648年))
17代:北条氏重(慶安元年(1648年)~万治元年(1658年))
城番:川井代官、横須賀城主・本多利長(万治元年(1658年))
18代:井伊直好(万治2年(1659年)~寛文12年(1672年))
19代:井伊直武(寛文12年(1672年)~元禄7年(1694年))
20代:井伊直朝(元禄7年(1694年)~宝永2年(1705年))
21代:井伊直矩(宝永2年(1705年))
城番:川井代官、横須賀城主・本多利長(宝永2年(1705年))
22代:松平忠喬(宝永3年(1706年)~正徳元年(1711年))
23代:小笠原長煕(正徳元年(1711年)~元文4年(1739年))
24代:小笠原長庸(元文4年(1739年)~延享元年(1744年))
25代:小笠原長恭(延享元年(1744年)~延享3年(1746年))
26代:太田資俊(延享3年(1746年)~宝暦13年(1763年))
27代:太田資愛(宝暦13年(1763年)~文化2年(1805年))
28代:太田資順(文化2年(1805年)~文化5年(1808年))
29代:太田資言(文化5年(1808年)~文化7年(1810年))
30代:太田資始(文化7年(1810年)~天保12年(1841年))
31代:太田資功(天保12年(1841年)~文久2年(1862年))
32代:太田資美(文久2年(1862年)~明治元年(1868年))
《掛川城の遺構等》
【天守郭】
・天守(平成6年(1994年)4月、「本格木造天守閣」として復元)
・霧吹き井戸
【本丸】
・太鼓櫓(三の丸から移築)<市指定>
【二の丸】
・御殿(文久元年(1861年)に再建)<国指定>
・二の丸茶室(王将戦七番勝負の第1局が行われることで有名)
・二の丸美術館
【竹の丸(城代家老の屋敷→松本家住宅)】
・主屋1棟、離れ1棟、土蔵2棟、米倉1棟、番屋1棟<市指定>
【門】
・大手門(平成7年(1995年)に復元)
・大手門番所<市指定>
・大手三の門(玄関下御門)→油山寺(静岡県袋井市)山門<国指定>
・四足門(四脚門)
・蕗の門(富貴門)→円満寺(掛川市掛川)山門<市指定>
・どこかの門→龍雲寺(静岡県菊川市西方)裏門
【堀】
・三日月堀
・十露盤(そろばん)堀
【掛川古城】
・龍華院大猷院霊屋<県指定>
大手門の大手門番所
「 掛川城大手門番所(掛川市指定文化財)
大手門番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ、城内に出入する者の監視や警備をする役人の詰所です。嘉永7年(1854)の大地震で倒壊後、安政6年(1859)に再建されたのが現在の建物です。明治初年、掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩士谷庄右衛門が居宅用として譲り受け、別の場所に移築しましたが、昭和53年(1978)に谷家より市へ寄贈されました。大手門に付属した番所が現存するのは全国的にも珍しく、昭和55年(1980)、市の文化財に指定されました。発掘調査により掛川城大手門と番所の位置が正保年間頃(1644~1647)に描かれた正保城絵図のとおりであることが明らかになったので、平成7年(1995)周辺の区画整理により、本来の位置から約50m北に大手門を復元することにともない、それに合わせて番所を配置し、現在地に移築・復元しました。 掛川市教育委員会」(現地案内板)
懸河旧址
大手門と天守の間を流れる逆川(さかがわ)の川沿いに、「掛川桜」という品種の桜(早咲きの八重桜。花弁は濃いピンク色なので、インスタ映えする)が植えられています。
大手橋で逆川を渡ると松尾池跡──そこに懸河旧址がありました。
「東から流れてきた逆川が城山に当たり、川は深い淵となり崖をつくった。鎌倉時代から懸河と呼ばれていたこの場所が、掛川の地名の由来となった。江戸時代に、掛川城の歴代の城主が記念として榜示を立てた場所である。(『掛川誌稿』をもとに作成)」(標柱の案内文)
「かけがわ」の「かけ」は、城山(竜頭山)が逆川で削られた「欠け」「崖」のようです。(平将門の首を洗って橋に掛けて乾かしたから「掛け川」だとも。「懸け」「賭け」では無いようです。)
「逆川」とは、潮位の上昇などによって、水が逆流することがある川のことです。竜宮の竜王が、遠江国一宮・事任八幡宮(静岡県掛川市八坂)へ来られた時、美しいお姫様に一目惚れされ、竜宮に帰ると、雌雄2頭の鯨を呼び、事任八幡宮へ遣わしたそうです。2頭の鯨が事任八幡宮を目指して川を遡っている時、川の水が逆に流れているように見えたので、「逆川」と名付けたそうです。
二の丸
さて、どこから回りましょうか?
・掛川城(天守、御殿セット) 410円
・二の丸茶室 510円
・竹の丸 100円
・二の丸美術館 200円
・ステンドグラス美術館 500円
「日本100名城」と、掛川城、御殿のスタンプが御殿の受付にあるので、まずは二の丸攻めですね。
「掛川城御殿
御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩政の中心となる諸役所と、城主の公邸が連結した建物です。書院造と呼ばれる建築様式で、畳を敷きつめた多くの室が連なり、各室は襖によって仕切られています。文久元年(1861)に再建されたものですが、現存する城郭内の御殿としては、京都二条城など全国でも数カ所にしかない貴重なものです。明治2年(1869)の廃城後は、学校、市庁舎などに転用されましたが、昭和47年(1972)から昭和50年の3年間にわたって保存修理され、国の重要文化財に指定されました。」(現地案内板)
御殿の見学は有料(天守とセットで410円)ですが、スタンプを捺すだけなら無料です。
※「御殿」公式サイト http://kakegawajo.com/goden/
天守
二の丸攻略が終わったら、いよいよ天守攻略です!
「大手門から見るのが最も美しい」という天守ですが、どこから見ても美しいです!
※建築用語は「天守」で、「天守閣」は俗称ですが、掛川城の案内には「天守閣」とあります。
「掛川城天守閣
天正19年(1591)から慶長元年(1596)にかけ、山内一豊によって掛川城に初めて天守閣がつくられました。しかし、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊し、幕末の混乱の中取り壊されました。平成5年(1993)、城絵図や古記録を元に木造により復元され、140年ぶりに再建されました。天守閣は、外観三層、内部四階から成ります。六間×五間(約12m×10m)の天守閣本体は、決して大きなものではありませんが、東西に張り出し部を設けたり、入口に付け櫓を設けたりして外観を大きく複雑に見せています。」(現地案内板)
「雲霧城 佐野郡懸河の城は「雲霧城」と云。此城は朝比奈備中守殿天正年中縄張りなり。城の北東の方に当て牛馬天王の社有り。則ち、「天王山」と云。「龍尾山」とも云。懸河の城を「竜頭城」と云。竜の頭尾に喩(たとへ)る也。此城は、「日本六箇所名城」の其一つの名城と云伝。謂所(いはゆる)大坂の城、播州姫路城、肥後熊本城、本城懸河城、尾州名古屋城、江戸城也。懸河の城を「雲霧城」と号する事は、城の許に「三ヶ月堀」という堀ありて、其堀より霧出でて城を覆ひ隠す。故に号(なづく)。兵乱の節に至りて斯の如く、往古、天正年中、神君、懸河城を崩さん為め、南方、小笠山の絶頂より震天雷(いしびや)をしかけ、城を打ち潰さんんと遊ばされ候時、右の霧、城を覆ひ隠し、方角も知れずして崩す事あたはず。故に「雲霧城」と書く事、記録に見ゆ。(後略)」(藤長庚『遠江古蹟図絵』)
掛川城の別称は「雲霧城」です。
今川氏真がいた掛川城が徳川家康に攻められた時、天守前の井戸(通説と異なる記述が多い掛川の住民・藤長庚の『遠江古蹟図絵』では三ヶ月堀)から霧が噴き出て城を隠したので、「霧吹き井戸」「雲霧城」というのです。
※「霧吹き井戸」の深さは、日本第3位!!!
1位:丸亀城(香川)65m/2位:福知山城(京都)50m/3位:掛川城45m/4位:松山城(愛媛)42m
掛川城の別称には、「松尾城」「辰田山城」も。「松尾神社がある松尾山の城」「龍田神社がある龍田山の城」という意味でしょうか? 私は、式内・眞草神社があった「真草山」だと考えていますが・・・現在、城山は、「龍頭山」と呼ばれています。
※「天守閣」公式サイト http://kakegawajo.com/tensyu/
さて、掛川城へ行かれた方の感想は、
・好評:「駅から近くて便利」「案内板が充実している」
・悪評:「有料施設が多い。(以前来た時、御殿は無料だった。)駐車場も有料」(スタンプ帳を制作して、有料施設にスタンプを置いて、スタンプラリーをやればいいのにと思う。そうすれば、見落としもなくなるし。)
といったところです。
「日本100名城」掛川城のスタンプを無事捺せたので、周辺の故地巡りに移ります。
※「掛川城」公式サイト http://kakegawajo.com/
掛川城周辺の見所
城郭等
・竹之丸
竹の丸(入館100円、駐車場は無料)は城代家老の屋敷でしたが、明治に入って豪商(掛川名物「葛布」の問屋)・松本氏が購入し、邸宅として改修したので、建物は、「江戸時代の武家屋敷」の様式ではなく、「明治時代のお金持ちの家の様式(旧松本家住宅)」になります。主屋1棟、離れ1棟、土蔵2棟、米倉1棟、番屋1棟が掛川市指定文化財です。
※「竹の丸」公式サイト http://kakegawajo.com/take/
・掛川古城
掛川城がある城山が「龍頭山」、掛川古城がある城山が「龍胴山」、龍尾神社がある山が「龍尾山」になります。山の連なりが竜に見えるのだそうです。
「龍胴山」に築かれたのが「掛川古城」で、龍華院や龍華院大猷院霊屋がある本曲輪(天王山)と龍華院子角山(ねずみやま)公園がある二の曲輪(子角山)の間には「大堀切」があります。掛川古城(平山城)の城域は、東西360メートル、南北320メートルで、「三の曲輪」は掛川市消防本部中央消防署、「下の曲輪」は第一小学校、「北の曲輪」は静岡県道415号日坂沢田線(旧・国道1号線)になっていて、天王山と第一小学校との間には「腰曲輪」があります。また、自然の要害であった北池は、埋め立てられて、生涯学習センター(掛川市は、日本初の生涯学習都市宣言をした都市)になっています。
「掛川城と子角山
掛川城は今川氏の重臣であった朝比奈泰煕により1500年ごろ子角山の地に築城されました(掛川古城)。その後、1513年には龍頭山(現在の掛川城公園)に新たに築城されたため、子角山には建物が残っていませんが、本曲輪は現在の龍華院大猷院霊屋の位置にあったとされ、霊屋東側に残る大堀切(空堀)の跡に往時の面影が残っています。戦国時代の1568年、掛川城に逃げ込んだ今川氏真を攻めるため、徳川家康は大軍を率いて掛川城を攻めましたが、その際子角山に掛川城攻略の本陣を置いたという説があります。子角山は龍華院大猷院霊屋の西側にある尾根と小学校沿いに整備された遊歩道の先にある東側の尾根によって構成されており、現在では龍華院子角山公園として、両側の尾根を一体的に整備しています。」(現地案内板)
文明五年(1473年)、足利将軍義政から「懸革荘を今川義忠に預け置く」と言われた駿河守護・今川義忠は、斯波氏に対する境目の城として、朝比奈泰凞に天王山に築城を命じ、掛川古城が完成すると、朝比奈泰凞を城主としました。
「遠江朝比奈氏」は、泰凞・泰能・泰朝と3代続きますが、朝比奈泰能は、龍頭山に掛川新城を築いて移ったので、掛川古城は廃城になったとも、付城になったとも言われています。
掛川新城の完成には諸説あり、『掛川誌稿』では、明応年間から文亀年間(1492-1503)としていますが、永正10年(1513年)説が有力です。完成後も改修が続けられたようで、『宗長手記』の大永2年(1522年)5月に「普請最中」とあります。
※宗長『宗長手記』(大永2年(1522年)5月)掛川朝比奈泰能亭
懸川泰能亭に逗留。此ころ普請最中、外城のめくり六、七百間、堀をさらへ、土居を筑あけ、凡本城とおなし。此地岩土と云物にて、只鉄をつきあけたりとも云へし。本と外の間、堀あり。嶮々として、のそくもいとあやうし。
此城にて発句とて、
五月雨は雲井のきしの柳かな
又、南に池あり。岸たかく水ひろくて大海に似たり。凡、龍池ともいふへし。
同発句
いけのおもやきしはすみの江はるの海
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp
永禄11年(1568年)12月、甲斐国の武田信玄が駿河今川領への侵攻を開始すると、徳川家康は、遠江今川領への侵攻を開始しました。挟み撃ちされた今川氏真は、朝比奈泰朝の掛川城に逃げ込みました。徳川家康は、天王山(龍尾神社のある龍尾山)に本陣を置き、さらに前進して掛川古城(天王山)を本陣として掛川城を攻めました。霧が噴き出たりして(?)、なかなか落とせませんでしたが、永禄12年(1569年)5月、和議が成立して開城となり、戦国大名・今川氏は、事実上、亡びました。
※三備(みつぞなえ)の制:徳川家臣団は、直属の軍、西三河の軍(旗頭:石川家成)、東三河の軍(旗頭:酒井忠次)の3つに分かれていました。これを「三備の制」といいます。徳川家康は、遠江国へ侵攻し、掛川城を得ると、掛川城に城代として石川家成を入れました。これにより、西三河の軍の旗頭は、石川家成の甥・石川数正になりました。
天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移封されると、掛川城には豊臣方の山内一豊が入り、掛川城の大幅な拡張工事を実施し、石垣や天守を持つ近世城郭と変わりました。
その後、掛川城主が次々と入れ替わり、北条氏重が城主となりました。この北条氏重には嫡男がいなかったので、なんとかしないと、お家断絶です。そこで北条氏重は、掛川古城の地に大猷院(徳川家光)を祀る霊屋を建てるのですが、アピール実らず、お家断絶となりました。(山内一豊の跡は、養嫡子・忠義が継いだのにね。)そして、掛川城には井伊氏が入りました。
「龍華院大猷院霊屋
宝形造 桁行3間(5.5m) 梁間3間(5.5m)
この霊屋は、明暦2年(1656)掛川藩主北条氏重が幕府に願い出て、徳川3代将軍家光(諡号大猷院)の霊牌を祀るために建てたものである。当時の建物は、文化15年(1818)3月火災により失われ、文政5年(1822)当時の藩主太田資始により再建された。現在屋根は瓦葺であるが、再建時は柿葺であった。内部には春日厨子があり、霊牌を祀る。昭和29年(1954)1月30日、春日厨子を含め、静岡県文化財に指定された。霊屋は嗣子のない氏重が断絶の打開策として建立したといわれるが、万治元年(1658)10月氏重の死去に伴い、家は断絶、領地は没収となった。霊屋が建つ地には、戦国時代の明応6年(1497)から文亀元年(1501)ごろ駿河の守護大名今川氏親が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰熙に命じて築かせた掛川古城の本曲輪があった。 掛川市」(現地案内板)
寺社
・龍尾(たつお)神社
龍華院(龍胴山、天王山)は紅葉の名所であり、掛川城の鬼門封じの龍尾神社(龍尾山、天王山)は梅と紫陽花の名所です。また、龍尾神社(旧・龍尾山牛頭天王社)は、式内・眞草神社の論社です。
※「龍尾神社」公式サイト http://www.tatsuo-jinja.com/
《遠江国佐野郡の式内4社》
①眞草(まくさ)神社
・論社:雨櫻(あめざくら)神社(静岡県掛川市上垂木1612)
・論社:龍尾神社(静岡県掛川市下西郷84)
・論社:中村八幡宮(静岡県袋井市宇刈1590)
②己等乃麻知神社
・比定社:事任八幡宮(静岡県掛川市八坂642)
③阿波々神社
・比定社:阿波々神社(静岡県掛川市初馬5149)
④利神社
・比定社:利神社(静岡県掛川市下俣南1-18-8)
※式内社(しきだいしゃ):延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の全国官社リストに掲載されている神社。「我が社こそ式内A社である」と主張する神社が1社の場合は「比定社」、複数の場合は「論社」という。
龍尾神社(旧・龍尾山牛頭天王社)の主張は「『眞草』と書かれた額を所有している」である。私は、式内・眞草神社は、龍頭山にあり、龍頭山に掛川城を築く際に、遷座した(鬼門にあたる龍尾神社に合祀した)ので、龍尾神社本殿に式内・眞草神社の額があると考えている。
※雨櫻神社:古くは「天櫻天王社」と称していた。山内一豊が掛川城主の頃、雨乞いの為に和歌を詠み、桜の木に結びつけたところ、すぐに雨が降り始めたという。(常に湿神不乾、不思議な大桜樹あり。古は祈雨の神として雨を乞う人多かりき。掛川藩主・山内氏の頃、貴人、桜枝に和歌を付して祈雨す。)
・公式サイト https://rokushojinja-2014-06-18.jimdo.com/
※中村八幡宮:宇苅郷馬草平(現在の馬ヶ谷)にあり、現在は八幡神を祀っているが、古くは草の神・鹿屋野比売(かやのひめ)神(草祖草野姫(くさのおやかやのひめ)、野椎神(のづちのかみ))を祀っていたという。
・「遠州三山」油山寺
「遠州三山」油山寺と言えば、国指定重要文化財の三重塔(長命寺(滋賀県)、宝積寺(京都府)の三重塔と共に「桃山時代の三名塔」の1つ)ですが、山門も素晴らしい! 実は、井伊直好が建てた掛川城の大手三の門(玄関下御門)を移設した門で、この門も、三重塔同様、国指定重要文化財になっています。(あと1つ、薬師本堂内厨子が国指定重要文化財です。)
「山内の入り口に構える山門は、元は掛川城の大手門でした。万治2年(1659)に井伊直好(なおよし)公によって建てられ、明治6年(1873)廃城令の際に城主であった太田備中守が眼病平癒のお礼として、当山に寄進し移築されました。一層の屋根が表裏にある二層片潜付城門は、全国的にも珍しい造りであるといわれています。屋根の最上部を飾る鯱鉾(しゃちほこ)は江戸時代初期の名作といわれ、国の重要文化財に指定されています。鯱鉾は現在、方丈にて見ることができます。昭和46年(1971)、山門の復元修理を行いました。」(油山寺公式サイトより引用)
※油山寺公式サイト https://yusanji.jp/
・「遠州三山」可睡斎
北条氏重の後、井伊氏が掛川城主となりました。
「徳川四天王」井伊直政の跡は、二男・直孝が継ぐことになりました。長男・直勝は、祖父・直親が、掛川城主・朝比奈泰朝に殺害された掛川に住み、掛川藩主になって祖父の菩提を弔いながら暮らしたいと希望しましたが、認められず、安中藩主となりました。
井伊直勝の子・直好の代になって掛川城主となったので、井伊直勝は、子・直好について掛川に来て暮らしました。井伊直勝・直好親子の墓は可睡斎(静岡県袋井市久能)にあります。
その後、井伊氏は、掛川を治め、与板(新潟県長岡市)へ移りました。(当主(「現在の宗主」の意)の達夫氏、岳夫(直岳)氏は共に婿
※可睡斎公式サイト http://www.kasuisai.or.jp/
以上で掛川城の攻略終了!
さて、次はどの城を攻めようかな。
コメント(ご意見、ご感想)お待ちしてます m(_ _)m
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