エピローグ/遊郭とは
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画像 : かつての木辻遊郭界隈(撮影:高野晃彰)
遊廓(ゆうかく)は、公娼の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った地域をいい、廓(くるわ)・傾城町(けいせいまち)・色里(いろざと)との別名もあります。遊女はもちろん春をひさぐ、すなわち売春を生業とした女性のことです。
古代から女性による接客は存在しました。特に著名な寺社がある場所では、遠方から訪れる参詣者向けに門前町が形成され、そこに客を接待する遊女が置かれたのです。
神聖な場所である寺社をお参りするのに女性と遊ぶとはけしからんと思われるかもしれません。しかし、人々はそれを「精進おとし」と称して、寺社参りの際の楽しみにしていました。
また、遊女は門前町だけではなく、市や港など人々が多く集まる場所に存在しました。当初の遊女は自由業で、自分で客を取っていたと考えられます。
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画像 : 鳥居清長の版画:美南見十二候九月(漁火)遊廓で遊女がくつろいでいる図である。千葉市美術館所蔵。wiki c
それが後に遊郭が形成されると、そこに置かれた遊女をまとめる店で営業するようになったのです。その時期は、安土桃山時代頃からとされ、江戸時代になると日本各地に遊郭が形成されていきました。
そして、遊郭は江戸・明治・大正・昭和と続いていきます。しかし、1958(昭和33)年4月1日から売春防止法が本格施行されると、各地の遊郭は終焉を迎えるのです。しかし、中には表向きは料亭・旅館を装い、私娼屈として売春を続ける者もいました。
遊郭跡は確かに負の遺産です。そこには苦界に身を置きざるを得なかった女性たちの余りにも悲しい歴史が秘められています。
しかし、筆者を始め多くの人が遊郭跡に魅せられるのは、そこに残る伝統的な日本家屋である妓楼建築など、現在の日本に失われ行く情景です。
今回は、日本最古級の傾城町で、江戸時代に最盛期を迎えた奈良県奈良市の「木辻遊郭跡」とその発祥の原点となった「元興寺」について紹介しましょう。
元興寺の建設に伴い傾城町が出現
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画像 : 元興寺の極楽堂と禅室(撮影:高野晃彰)
現在の奈良市で人気エリアとなっている奈良町(ならまち)は、平城京の外京と呼ばれる地域を中心に、平安末期頃に寺社の仕事に携わる人々によって形成されたといわれます。
しかし、このエリアが開発されたのはさらに古く、8世紀前半に元興寺がこの地に飛鳥から移転してきた時に遡ります。
元興寺は、本尊の飛鳥大仏で有名な奈良県明日香村の飛鳥寺が、平城遷都で奈良町に移転した寺院。同寺は日本最古級の寺の一つで、時の最高権力者・蘇我馬子が建立しました。
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画像 : 飛鳥寺の御本尊飛鳥大仏(撮影:高野晃彰)
現在の元興寺は、境内に極楽坊本堂と禅室があり、ともに国宝に指定されています。その寺域は、決して広いとは言えませんが、かつては南都七大寺の一つとして東大寺など並ぶ広大な敷地を誇りました。
そんな大寺院だけに、その造営には多くの人々が携わったと考えられます。そして、そこには自然と遊女たちが集まり、それが木辻遊郭の起源となったのです。
元興寺の平城京移転は、718(養老2)年とされます。そうなると、木辻遊郭の始まりは約1300年前。それが、木辻遊郭をして日本最古級といわれる所以なのです。
江戸時代になり本格的な遊郭に発展
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画像 : 奈良町の花街の一つ元林院付近(撮影:高野晃彰)
木辻遊郭が本格的な遊郭に発展するのは、関ケ原の合戦の後です。豊臣家の元家臣某が奈良に移り住み、1629(寛永6)年に幕府の許しを得て、傾城街をつくったのがはじめといわれます。
そして、都が京都に移った後、寂れていた奈良町が、有力な商工業都市としての町として発展を遂げるのも、この頃からであり、現在見られるような大きな町家が建ち並ぶような景観に変化していったのです。
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画像 : 室町末期創業という墨の老舗古梅園の堂々たる町家(撮影:高野晃彰)
もちろん、木辻遊郭も賑やかさを取り戻した奈良町とともに、歩んだのは間違いないでしょう。
元禄時代に井原西鶴は、浮世草子『好色一代男』で、以下のように記しています。
爰こそ名にふれし木辻町、北は鴨川と申して、おそらくよねの風俗都にはぢぬ撥音、竹隔子の内に面影見ずにはかへらまじ
この記述から、木辻遊郭は元禄時代には有名な色里であったことがうかがえるのです。
こうした繁栄はその後も続き、明治時代には、数10軒の遊郭と200人近い娼妓がいたようです。
しかし、1958(昭和33)年の売春防止法により遊郭としての歴史に幕を閉じ、妓楼の多くが旅館・料亭などに転業したものと推測されます。
少ないものの今も残る遊郭の面影
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画像 : かつて木辻遊郭の大門があった場所(撮影:高野晃彰)
現在、木辻遊郭の面影は、奈良町の一画・東木辻町を中心にした、ごく狭いエリアに見られる程度です。
しかし、注意して歩くと、遊郭の面影を街のあちこちに垣間見られます。注目は、スーパーマーケット・ビッグナラの案内板。ここは木辻遊郭の入り口である大門があった場所で、苦界と俗界を隔てるところでした。
ちなみにビッグナラが建つ場所は、遊郭に付きものの病院があったところ。多くの娼妓たちが、性病などの検査のため定期的な診察を受けていたといわれます。
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画像 : 木辻遊郭の鈴屋跡とされる住宅(撮影:高野晃彰)
また、大門跡の坂道を東に登ったところ、かつての木辻遊郭のメインストリートあたりに、遊郭時代を彷彿とさせる意匠の町家がいくつか残っています。
そのほとんどは、個人の住宅ですので、見学の際は迷惑にならないよう十分に気をつけましょう。
今はなき妓楼建築を伝えた静観荘
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画像 : 今は存在しない妓楼建築の静観荘(撮影:高野晃彰)
今、各地の遊郭跡に残る貴重な妓楼建築が次々に消えていっています。それは木辻遊郭跡も同様です。
木辻遊郭跡に唯一残っていた妓楼建築の旅館「静観荘」は、かつて「本家岩谷楼」という名の木辻では最大規模の妓楼でした。創立時には娼妓20人・芸者も数人いたといわれます。
ここは奈良町を舞台に、2008(平成20)年に放送された人気ドラマ『鹿男あをによし』でのロケ地にもなった場所でした。
現役の旅館として、当時の繁栄をはっきりとみてとれる築100年を超える大変貴重な建築物で、館内にも往時の妓楼の意匠が良く残され、外からでは伺い知ることができない立派な庭園もありました。
しかし、コロナ過で休業を余儀なくされ、2021(令和3)年10月に廃業。翌年4月に、多くの人から惜しまれながら解体されたのです。
まとめにかえて/遊女の引導寺・称念寺
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画像 : 遊女の引導寺であった称念寺(撮影:高野晃彰)
木辻遊郭跡の一画に遊郭が盛んな頃、遊女たちの日参祈願で賑わったという愛染堂がある称念寺が佇みます。
東大寺を再興した重源の開基とされる浄土宗の寺院ですが、死去した後に引き取り手のない遊女の引導寺でもありました。遊女たちは、今は境内に積まれる無縁墓に眠っています。
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画像 : 称念寺に残る無縁墓(撮影:高野晃彰)
古い町並みが現存する奈良町とはいえ、木辻遊郭跡は近い将来消えてしまうかもしれません。
遊郭跡ははっきり言って負の歴史に他なりません。そこには、貧困を始めとする様々な理由で故郷を遠く離れ、苦界に身を沈めた多くの女性が存在していました。しかし、私たちはそうした歴史に目をつぶるのではなく、語り継いでいく義務があります。
奈良を訪れたら、ぜひ元興寺と木辻遊郭跡におもむいて、その歴史を肌で感じていただければ思います。
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