幕末明治

日露戦争を勝利へと導いたドイツ人とは? メッケルと児玉源太郎が紡いだ師弟の絆

遠い異国からもたらされる波が、歴史の針路を大きく変えることがあります。

19世紀末から20世紀初頭の日本は、近代化の風を受け入れ、未来を模索していた国の一つでした。

激動の明治時代、近代国家としての歩みを急ぐ日本にとって、強力な陸軍の育成が不可欠とされていました。
その大きな課題を前に、日本はプロイセンから一人の軍人を招聘します。

その人物こそ、クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケルです。

画像:クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル public domain

メッケルが日本にもたらした「作戦」の思想は、やがて一人の日本人参謀の才能を開花させ、日露戦争という未曾有の国難において、日本が勝利を収める一因となりました。

当時、多くの欧米人がロシアの勝利を疑わなかった中で、なぜメッケルは日本に勝機を見出せたのか。
「渋柿オヤジ」と呼ばれたその厳格な教官は、日本の若き軍人たちに何を託そうとしたのか。

今回は、その歩みを追っていきます。

「渋柿オヤジ」メッケル来日

画像 : 浮世絵に描かれた横浜の鉄道と船 public domain

明治維新を経た日本は、急速な近代化を進めていました。その柱のひとつが、西洋列強に肩を並べるための軍事力の整備です。

当初、日本陸軍はフランス式の制度を導入していましたが、普仏戦争におけるプロイセンの圧倒的な勝利は、世界の軍事思想に大きな影響を与えました。
この勝利を機に、日本でもプロイセン陸軍、とくに参謀本部制度への関心が高まります。

そうした背景のもと、1885年(明治18年)、プロイセン陸軍参謀本部長ヘルムート・フォン・モルトケの推薦により、メッケル少佐が日本に招聘されたのです。

陸軍大学校の教官として来日したメッケルは、当時プロイセン陸軍の中でも将来を嘱望されたエリート参謀のひとりであり、日本にとってはまさに「世界の頭脳」を迎え入れることに等しい出来事でした。

しかし、その風貌や厳格な指導ぶりのせいか、日本の学生たちは「渋柿オヤジ」という少々手厳しいあだ名を付けたようです。
口にすれば顔をしかめる渋柿のように、メッケルの講義は厳しく妥協を許さないものだったのでしょう。

ただし渋い表情の奥には「日本陸軍を真に強くしたい」という熱い情熱と、深い知識に裏打ちされた確固たる信念が秘められていました。

三年間に及ぶメッケルの教えは「戦術論」「作戦術」「兵站の重要性」だけでなく、近代戦を戦い抜くための知識体系、とくに参謀の役割を若き軍人たちに植え付けたのです。

メッケルと児玉源太郎の出会い

画像:児玉源太郎 public domain

メッケルが陸軍大学校で教鞭を執っていた頃、一人の特異な「学生」がいました。

その学生こそ、のちに日露戦争で満州軍総参謀長として歴史に名を刻む児玉源太郎です。

メッケル来日時、児玉は陸軍大学校の正規の学生ではなく、すでに陸軍幹部クラスの地位にありました。
しかし、一介の聴講生としてメッケルの講義に参加し、熱心に耳を傾けたそうです。

多くの学生がメッケルの高度な講義に悪戦苦闘する中、児玉は類稀なる理解力と洞察力で彼の教えを吸収していきました。
メッケルにとって児玉はただの優秀な生徒ではなく、自らの軍事思想を託すべき特別な存在として映ったのかもしれません。

もしこの出会いがなければ、児玉源太郎の目覚ましい活躍も、日露戦争の戦局もまた違った様相を呈していた可能性すらあります。

まさに運命的な邂逅であり、歴史の糸が織りなした出会いでした。

日本陸軍への注入 ドイツ帝国陸軍の「血」と「魂」

メッケルが日本にもたらしたのは、単なる戦術の知識や理論ではありませんでした。

彼が伝えたのは、当時「世界最強」と称されたドイツ帝国陸軍の中枢を支える、実践的かつ体系的な軍事思想でした。
なかでも中心となったのは、「作戦」を立案し遂行するための参謀組織の概念と、その運用方法です。

メッケルはまず、参謀本部が軍の「頭脳」として果たすべき役割を明確に説きました。

画像 : クリークスシュピール(兵棋演習)のセッション。 CC BY-SA 4.0

そのうえで、兵棋演習(クリークシュピール : Kriegsspiel)を通じ、学生たちに図上演習の段階から実戦さながらの緊張感を求め、徹底した思考訓練を施しました。
迅速な意思決定、兵力の集中、兵站の整備など、近代戦に不可欠な要素を、繰り返し強調したのです。

異なる文化や言語の壁を越えて、こうした思想を根づかせることは並大抵ではありません。
しかしメッケルは、日本陸軍をあたかも自分の子のように捉え、全身全霊で育てようとしました。

「渋柿オヤジ」と呼ばれた厳格な姿の裏にあったのは、未来を担う若き軍人たちの成長を願い、自らの知識と経験のすべてを託そうとする教育者としての情熱と温かさだったのです。

日露戦争 〜師の予言と弟子の奮闘

1904年(明治37年)、日本は国家の命運を賭けて、帝政ロシアとの全面戦争に突入しました。

日露戦争です。

画像 : 日露戦争 public domain

当時の国際社会では、圧倒的な国力と兵力を誇るロシアの勝利が、ほぼ確実と見なされていました。

欧米の軍事専門家たちもその優勢を疑わず、日本の敗北を当然と考えていた中で、あえて日本の勝利を予言した人物がいます。

その人物こそ、日本陸軍の育成に尽力した元教官、メッケルでした。
彼の言葉は単なる贔屓ではなく、冷静な軍事的分析に基づくものであったと伝えられています。

「児玉源太郎将軍が日本にいる限り、心配はいらない。彼は必ずロシアを打ち破り、勝利をもたらすだろう」

メッケルは、自らが日本に根づかせた作戦術の有効性、兵士たちの士気と練度、そして児玉源太郎を中心とした参謀陣の指揮能力に強い信頼を寄せていました。

その児玉は、日露戦争において満洲軍総参謀長の重責を担い、奉天会戦をはじめとする数々の激戦を指揮しました。
彼は、メッケルから学んだ理論と現実の戦況を結びつけ、困難な局面を次々と打開していきます。

とくに膠着していた旅順攻略戦では、現地に自ら赴いて乃木希典大将を補佐し、作戦転換に大きな役割を果たしたとされます。

メッケルの教えを受けた「作戦参謀」は、日露戦争という過酷な現実の中で真価を発揮し、師の予見を現実の勝利へと結びつけたのです。

参考:桑原嶽(2016)『乃木希典と日露戦争の真実 – 司馬遼太郎の誤りを正す』PHP研究所
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

村上俊樹

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