江戸と甲州(山梨県)を結ぶ甲州街道。
道中にはいくつもの宿場町が栄え、そこには多くの飯盛女たちが営業していました。
今回は、そんな一つである府中宿(ふちゅうじゅく。東京都府中市)を紹介。その歴史をたどってみましょう。
飯盛旅籠の登場

画像:飯盛女と客 public domain
府中宿は、甲州街道の要所として江戸開府より間もないころから栄えていました。
宿場町と言えば性風俗がつきものですが、風紀と治安を維持するため、幕府は遊女を置かせてくれません。
それどころか、よからぬ事態を懸念して旅籠(はたご。宿屋)に飯盛女(めしもりおんな。女性従業員)さえ置かせないという警戒ぶりです。
しかし安永6年(1777年)、府中新宿で旅籠を営んでいた東屋甚蔵(あづまや じんぞう)が代官所に願い出て、飯盛女を置く許可をとりました。
「本当に飯盛(一般な宿泊サービス)だけしか(性的サービスは)させませんから(嘘)」
とまで言ったかどうか、ともあれ府中宿の旅籠に飯盛女が置かれるようになります。
そうなると蟻の一穴で、新宿の倉田屋太左衛門(くらたや たざゑもん)、番場の鉄五郎(てつごろう)が、相次いで飯盛旅籠を開業しました。
ただし、鉄五郎については間もなく廃業してしまったので、寛政年間(1789〜年)ごろまでは、東屋と倉田屋の2軒で営業していたそうです。
代官所からの「勧告」

画像:飯盛女たちを侍らせ、代官を篭絡した?(イメージ)
かくして歳月は流れていくものの、やはり当局は飯盛旅籠の存在を快く思っていませんでした。
天明2年(1782年)、代官所は東屋と倉田屋に対して、風紀上の理由から飯盛女を置かない平旅籠に戻すよう「勧告」します。
「命令」まで強気に出られなかったのは、表立った問題がなかったからでしょうか。あるいは上手くもみ消していたのかも知れませんね。
しかし「勧告」とは言え、代官所の意向を真正面から突っぱねると、わだかまりを残してしまうでしょう。
そこで彼らは誓約書を提出し、営業継続を申し出ました。
① あくまで旅行者のみをサービス対象とし、近隣の者を出入りさせない。
→旅行者はすぐ通過するはずなので、長く留まらずトラブルになるリスクは低い。② 他国や他村の者を長期滞在させない。
→長く留まらせると、比例してトラブルのリスクが高まるため、滞在は必要最低限とする。③ 酔っ払いが暴れたら必ず止める。
→今までは放置するケースもあったのだろうか。④ 酔っ払いの不始末は私刑(リンチ)せず、組合に通報して指図を受ける。
→よほど私刑が惨たらしく、当局の目に余ったのかも知れない。⑤ 博打は厳禁とする。
→当然である。
これら自浄努力の意思表明が評価されたのか、府中宿の飯盛旅籠は営業継続を認められます。
「くらやみ祭り」で大賑わい

画像:大國魂神社(東京府中市)のくらやみ祭(写真:大國魂神社)
府中宿の名所と言えば、大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)。現代でも多くの参拝者で賑わっています。
その境内に鎮座する六所大明神の祭礼シーズンは、飯盛旅籠にとって書き入れ時となりました。
現代の「くらやみ祭り」ですね。
各店が障子や襖を外して軒下に丸提灯を吊るし、さながら遊郭の見世を思わせる風情を演出しました。
この丸提灯はお客からの奉納で、その数が多いほど伊達とされます。
飯盛女がお客に丸提灯を買うようにねだり、お客は飯盛女の印をつけた丸提灯を軒下に吊るしました。
丸提灯の数が飯盛女の人気を見える形で表し、現代の推し活や人気投票を彷彿とさせます。
加えて飯盛女と遊ぶ揚代も、特別価格に値上げされました。
一昼夜で1貫200文の通常価格に対して、この時期は一昼夜を6分割して金3分/各時。お客にとっては大変な散財ですが、同時に浮名を流す絶好の機会?となったのかも知れません。
また、吉原遊郭にならって花魁道中ならぬ飯盛行列(とでも言うのでしょうか)が行われました。
童に手を引かれながら、飯盛女たちが六所大明神の門前を練り歩いたそうです。
幕末そして明治以降

画像 : 近藤勇 public domain
その後、覚右衛門(かくゑもん)が番場に飯盛旅籠を開業し、府中宿の飯盛旅籠は3軒となりました。
時は流れて文化元年(1804年)。東屋が内藤新宿へ移転したため、府中宿の飯盛旅籠は2軒……と思ったら、何故か4軒が営業しています。
実はちゃっかり無許可で2軒が営業しており、各旅籠の飯盛女も、規定の2名を大きく超えた10〜15名が在籍していました。
この頃になると、いちいち取り締まらなかったのでしょうか。
検分の時さえやり過ごし、また規定の上納金さえ入れていれば、当局も細かく言わなくなったようです。
幕末になると、後に新撰組を率いる近藤勇・土方歳三・沖田総司らが府中の飯盛旅籠を貸し切って朝まで騒ぐ……なんてこともありました。
そして明治時代に入り、飯盛旅籠は貸座敷と呼び名が変わります。
府中宿の飯盛旅籠は、八王子や内藤新宿と異なって遊郭を形成することなく、街道に沿って各店舗が点在する形を保ち続けた点に特色がありました。
明治初期には、たつむろ・いろは・田中屋・松本・杉嶋の5軒が記録されており、明治14年(1881年)には9軒まで増えます。
そして敗戦後まで命脈を保ち続けたのでした。
終わりに
今回は甲州街道・府中宿で賑わった飯盛旅籠や飯盛女について、その歴史を紹介してきました。
江戸の郊外でも、独自の性風俗文化が花開いていたようです。
当時の人々(特に男性)にとって、宿場の飯盛女は楽しみの一つだったことでしょう。
他の宿場町についても面白そうなので、また紹介したいと思います。
参考:
・安藤雄一郎 監修『江戸を賑わした 色街文化と遊女の歴史』カンゼン、2018年12月
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部
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