大正&昭和

『7つ年下の男性と駆け落ちした華族令嬢』世間を揺るがせた柳原白蓮の「白蓮事件」

画像:柳原白蓮(宮崎燁子)public domain

大正時代。美貌の華族の娘が、夫を捨て「愛人の許に走る」という駆け落ち事件が起こりました。

それが、新聞が特集記事を組んだほどの一大スキャンダル「白蓮事件」です。

同時期に首相暗殺事件が起こるも、この駆け落ち報道の勢いは衰えることもなく、世間の関心を集めました。

事件の主役、宮崎燁子(あきこ)こと「柳原白蓮(びゃくれん)」とは、どのような女性だったのでしょうか。

10代で暴力男と結婚し、離婚後は実家で幽閉生活

宮崎燁子は、明治18年(1885年)10月に、伯爵・柳原前光(やなぎわら さきみつ)の娘として生まれました。

母は愛人の一人で柳橋の芸妓でしたが、燁子は正妻の子として入籍した後に、里子に出されます。

画像:柳原前光 public domain

しかし6歳で柳原家に戻り、華族の娘として躾けられました。

その後、9歳で遠縁の子爵・北小路随光(きたこうじ よりみつ)の養女となり、13歳で華族女学校に入学します。

実は、北小路家が燁子を養子にしたのは、息子・資武(すけたけ)との縁談のためでした。

7歳年上の資武は中学校を卒業しておらず、女中には手を出し、暴力をふるう問題児でした。

燁子は無理やり16歳で結婚させられて妊娠し、女学校も退学することになってしまいます。

画像:北小路家時代、16歳の燁子 public domain

しかし、夫には情が持てず、父母に子どもを取り上げられ、燁子は孤独な日々を過ごすこととなります。

そのような状況を実家に訴え、離婚が成立し、21歳で実家に戻ります。

ところが「出戻り」を理由に、実家では幽閉生活を強いられました。

それでも、唯一の味方である姉の信子が書物を差し入れてくれたおかげで、燁子は読書に心を慰められる日々をおよそ4年間送りました。

行くにあらず 帰るにあらず 戻るにあらず 生けるかこの身 死せるかこの身

その頃に詠んだこの歌からは、絶望、嘆き、諦めなど、さまざまな感情が伝わってきます。

女学校で「腹心の友」と出会うも身分違いの再婚へ

その後、燁子は兄夫婦のもとに身を寄せ、24歳のころに東洋英和女学校へ編入し、寄宿舎での生活を始めました。

そこで出会ったのが、『赤毛のアン』の翻訳で知られる村岡花子です。二人はすぐに心を通わせ、深い友情で結ばれました。

このエピソードは、NHK朝の連続ドラマ『花子とアン』にも描かれているのでご存じの人も多いでしょう。
また、燁子は短歌結社「竹柏会(ちくはくかい)」に入門し、歌人としての道を歩み始めました。

ところが、また突然お見合いの話が持ち込まれてしまいます。

今回の相手は、九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門(いとう でんえもん)でした。

画像:伊藤傳右衛門(目で見る筑豊の100年)public domain

伝右衛門は50歳を迎えており、親子ほども年齢が離れていました。

育ちも立場もまったく異なる相手に不安を覚えながらも、燁子は周囲の強い勧めに従い、結婚を決意したのです。

昔の愛人や愛人の子、父親の愛人などが同居するカオスな生活

炭鉱王と華族の娘の結婚式は、帝国ホテルで盛大に披露宴が行われ、東京日日新聞は3日間にわたり記事を連載し「黄金結婚」と大いに話題になったそうです。

画像:伊藤傳右衛門と柳原燁子(柳原白蓮)の結婚写真。明治44年(1911年)3月 public domain

しかし、この結婚も燁子には絶望的なものでした。

実は、結婚後、伝右衛門には愛人の間に娘がいることが発覚したのです。

そのうえ、新居となる屋敷には、妹の子供の長男・次男、伝右衛門の父親の愛人の子など、大勢が住むカオスな状況でした。

さらに、夫の愛人が女中頭を務めるなど、幸せとは程遠い環境だったのです。

なお、この結婚の背後には、貴族院議員であった燁子の兄が選挙資金を必要としていた事情と、伝右衛門が名門華族との縁を望んでいた思惑があり、双方の利害が一致した結果だったといわれています。

華族の妻を気遣っていた炭鉱王・伝右衛門

それでも、伝右衛門は若い妻に対して気を配っていたようです。

本邸を贅沢に改装し、食事や言葉遣いなども燁子の希望に合わせました。

さらに、燁子が歌会を開く際には客人のもてなしを手伝い「あかがね御殿」と呼ばれた豪華な別邸を建て、歌集の出版費用も援助しました。

一方で、伝右衛門の女癖の悪さは変わらず、遊郭に通い詰めて性病をうつされることもあったといいます。

絶望の中で燁子は、胸のうちを短歌に託し、竹柏会の機関誌に作品を発表しました。

この頃から彼女は「白蓮(びゃくれん)」の名を用いるようになりました。

誰か似る 鳴けようたへと あやさるる 緋房の籠の 美しき鳥

底知れぬ 心のなやみを 呪ふべく 歌を綴れり 吾といふ歌

このように、赤裸々な心が伝わる彼女の歌は、評判となりました。

かくして大正4年(1915)、31歳になった燁子は、竹久夢二が挿絵を手がけた歌集『踏絵』を出版。

画像:竹久夢二(宮武東洋 三省堂「画報日本近代の歴史8」)public domain

その後、大阪朝日新聞に『筑紫の女王 燁子』というタイトルの連載記事が10回にわたって掲載され、大きな反響を呼びます。

さらに詩集も刊行されるなど、燁子は精力的に文芸活動を続けていきました。

7つ年下の男と「本気の恋」

そして36歳になった燁子に、ついに運命の出会いが訪れます。

書籍の打ち合わせで訪れた、編集担当の宮崎龍介と出会ったのです。

画像:宮崎龍介。大正~昭和時代の弁護士・社会運動家。白蓮事件の頃の写真 public domain

彼は7歳年下の29歳で、東京帝国大学法科の3年に在籍し、労働運動や階級制度の打倒を志す情熱的な青年でした。

社会を変えようと語るその姿は、燁子がこれまで出会ったことのないタイプの男性でした。

一方の龍介も、当時の女性としては珍しく自分の考えをはっきりと口にする燁子に、強く惹かれたといいます。

やがて二人の距離は縮まり、ついには700通もの手紙を交わすほどの深い関係になっていきました。

人妻である燁子と龍介の恋は人々の噂となり、龍介は職を失い、新人会からも除名されます。

燁子は龍介の子を身ごもりましたが、夫に離縁を願い出ても受け入れられることはありませんでした。

そして大正10年(1921)10月、二人はついに駆け落ちしたのです。

「筑紫の女王」とまで呼ばれた名門の女流歌人が、7歳年下のインテリと駆け落ち……

大阪朝日新聞はこの出来事を大々的に報じ、燁子が夫に宛てた「絶縁状」を紙面に掲載しました。

燁子の応援する朝日 vs 伝右衛門の応援をする毎日

大阪朝日新聞に掲載された燁子の手紙は、以下のような内容でした。

“常にあなたの愛はなく妻としての価値を認められない私は、どんなに頼り少い淋しい日を送つてゐたか御承知ない筈はないと存じます”

“此の手紙により、私は金力をもつて女性の人格的尊厳を無視するあなたに、永久の訣別を告げる事にいたしました”

一方、大阪毎日新聞では、記者の北尾鐐之助が伝右衛門に取材を申し込み、彼の言葉をもとにした反論記事「絶縁状を読みて燁子に与ふ」の連載が始まりました。

この連載は、当初は公開をためらう伝右衛門の事後承諾によって、掲載が実現したといわれています。

こうして大阪朝日新聞が燁子を「悲劇のヒロイン」として描いたのに対し、大阪毎日新聞は明確に伝右衛門の立場を支持し、燁子への批判的な論調を展開したのです。

「俺の一生の中で最も苦しかった十年だった」という伝右衛門の言葉は、深い苦悩や怒りが滲む生々しいものでした。

しかし、この連載は伊藤家からの要請により、わずか4回で打ち切りとなりました。

龍介との結婚生活は燁子が支える

画像 : 1930年(昭和5年)、燁子、蕗苳、龍介、香織 public domain

伝右衛門との離婚が成立した燁子は、駆け落ち騒動のさなかに生まれた長男とともに宮崎家に入り、ようやく家庭を築くことができました。

しかし生活は決して楽ではなく、やがて龍介が結核で病に倒れると、燁子が家計を支える立場になります。

彼女は小説の執筆や歌集の出版、講演などさまざまな仕事を引き受け、筆一本で生活を支え続けました。

昭和19年(1944)には長男・香織が学徒出陣し、翌年に戦死します。
燁子はしばらくその事実を受け入れられず、深い悲しみに沈みました。

のちに息子の死と夫の社会活動の影響を受け、平和への願いを胸に「悲母の会」を結成。

活動はやがて「国際悲母の会」、さらに「世界連邦運動婦人部」へと発展しました。

晩年の燁子は、龍介の献身的な介護を受けながら穏やかに過ごし、昭和42年(1967)、81歳でその波乱に満ちた生涯を閉じました。

「一度は惚れた女だ」と燁子への報復を許さなかった伝右衛門

画像 : 晩年、色紙に向かう白蓮 Asacyan CC BY-SA 3.0

伝右衛門の息子・八郎は、若い頃の父について「実はとても繊細な性格で、内心では深く思い悩んでいたのだと思う」と回想しています。

また、「燁子に制裁を加えよう」と息巻く炭鉱の男たちを前に、伝右衛門は「手出しは許さん」と一喝し、「一度は惚れた女だから」と言って彼らを静めたそうです。

さらに一族にも「末代まで一言の弁明も無用」と言い渡し、事件後も一切の非難や言い訳をしなかったと伝えられています。

伝右衛門は、確かに女遊びは激しかったものの、燁子のことを心から愛していたのかもしれません。

彼が燁子のために改築した屋敷は、京都から宮大工を呼び寄せて細部まで意匠を凝らしたものでした。

とくに燁子の居室には、竹の節を生かした欄間や銀箔を張った襖など、燁子の趣味を反映した優美な造りが施され、彼の精一杯の気遣いが感じられます。

画像:飯塚市幸袋の旧伊藤伝右衛門邸。2階が燁子の居室。裏手の土蔵は燁子の調度品を入れる蔵で、身分を反映して床が1段高く作られている wiki.c Usiwakamaru

日本建築の粋を集め、贅を尽くした旧伊藤伝右衛門邸(福岡県飯塚市幸袋)は、伝右衛門の没後に一時売却や取り壊しが検討されたものの、文化遺産として修復され、現在は一般公開されています。

その優雅な内装を見れば、伝右衛門が燁子に寄せていた深い愛情を今も感じ取ることができるかもしれません。

参考:
告白手記でよみがえる「白蓮事件の真実」文藝春秋・編
白蓮:気高く、純粋に。時代を翔けた愛の生涯 宮崎 蕗苳(監修)
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

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桃配伝子

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アパレルのデザイナー・デザイン事務所を経てフリーランスとして独立。旅行・歴史・神社仏閣・民間伝承&風俗・ファッション・料理・アウトドアなどの記事を書いているライターです。
神社・仏像・祭り・歴史的建造物・四季の花・鉄道・地図・旅などのイラストも描く、イラストレーターでもあります。

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