西洋史

『ロシア初の聖女』夫を殺された大公妃オリガの残酷すぎる4つの復讐伝説

9世紀後半から13世紀半ばにかけて、現在のウクライナ・キーウ周辺を中心に、東ヨーロッパと北方世界に広がっていた国家、キエフ・ルーシ。

10世紀、この森と川に抱かれたキエフ・ルーシに、後世まで語り継がれる女性統治者が現れました。

画像:「聖大公妃オリガ」(1901年)N.A.ブルーニ作 public domain

その女性の名は「キエフのオリガ」。

彼女は夫を殺されたのち、4つの段階に分けて苛烈な報復を行ったという伝承で広く知られています。

今回は、伝承として語り継がれる4つの復讐劇と、史実の中で見えてくる統治者オリガの姿をたどっていきます。

北方からの来訪者

画像:イーゴリ大公とオリガの最初の出会い Public Domain

オリガの出自については、諸説あります。

12世紀初頭にキエフの修道士ネストルがまとめた、キエフ・ルーシの歴史を記した『原初年代記』には、オリガがプスコフの出身であったと記されています。

ただ、この年代記には民族的な背景までは書かれておらず、彼女がどの集団に属していたのかは明らかではありません。

一方で、オリガの名前が北欧系に近いことから、当時キエフ・ルーシに深く関わっていた北方の商人兼戦士集団「ヴァリャーグ」と関係していたのではないかという説もあります。

生年に関しても、890年〜920年代と推定されており、正確な年代は不明です。

若い頃のオリガは、やがてキエフの大公イーゴリ1世と結婚し、大公妃としてその地位を確立していきました。

画像:イーゴリ1世『ラジヴィウ年代記』よりpublic domain

イーゴリ1世はルリック王朝の一員で、広大な領域と多様な部族を束ねる立場にありました。

オリガは夫のもとで、各部族の力関係や交易路の管理、税の徴収など、ルーシを支える実務を行いました。

しだいに彼女はその鋭い判断力で周囲から認められ、存在感を高めていきます。

イーゴリ1世の死と「4段階の復讐」

945年、オリガにとって運命を大きく揺るがす出来事が起きました。

夫イーゴリ1世が、東スラブ人の部族ドレヴリャーネ族により殺害されてしまったのです。

『原初年代記』には、イーゴリ1世が重い貢納を巡る争いの末、木に縛られて引き裂かれたと記されています。

その知らせを受けたオリガの胸には、深い悲嘆とともに、抑えきれない怒りがこみ上げました。

そして伝承では、彼女の復讐は4つの段階を踏んで進められたと語られています。

第1の復讐:使者を船ごと生き埋め

画像:オリガの復讐(使者を船ごと生き埋めにする場面)(1839年)Public Domain

その最初の出来事は、ドレヴリャーネ族の「求婚の使者」に対する策略でした。

ドレヴリャーネ族は、夫イーゴリ1世を殺害したにもかかわらず、自分たちの王子マルの妻になれと、オリガに求婚の使者を送ってきたのです。

オリガは彼らを穏やかに迎えるふりをし、「自分たちの慣習に従い、船に乗って来なさい」と命じます。

使者たちはその指示を疑うことなく船に乗り、キエフへと現れました。

しかし彼らが到着すると、オリガはその船を大きな穴へと運ばせ、そのまま土をかぶせて生き埋めにしまったのです。

第2の復讐:賓客として招き入れ、浴場ごと焼き払う

画像:ドレヴリャーネ族へのオリガの復讐(浴場ごと焼き払う) public domain

次にオリガは、ドレヴリャーネ族の重臣たちを標的にしました。

彼女は使者を失ったことを詫びるように見せかけ、「本当に自分を嫁にしたいのなら、今度は部族の最も重要な人々を送りなさい」と伝えたのです。

ドレヴリャーネ族はこれを信じ、代表者たちを丁重に選び、キエフへと派遣しました。

オリガは彼らを温かく出迎えるふりをし、「旅の疲れを癒やすために浴場で休むとよい」と勧めます。

しかし、重臣たちが浴場に入った瞬間、外から扉が固く閉ざされ、建物は一斉に火を放たれました。

逃げ場を失った彼らは、焼け落ちる浴場の中で全員が命を落としたのです。

第3の復讐:追悼会で泥酔させ、数千人を討つ

重臣たちを葬ったオリガは、次にドレヴリャーネ族全体をまとめて制圧するための策を講じました。

彼女は、夫イーゴリ1世の埋葬地近くで追悼会(トリズナと呼ばれる葬送の宴)を催すと伝え、ドレヴリャーネ族に広く参列を呼びかけました。

ドレヴリャーネ族は、これを和解の兆しと勘違いし、大勢で訪れました。
オリガは来訪者をもてなすように振る舞い、蜜酒を惜しみなく振る舞います。

やがて参加者たちはすっかり泥酔し、身動きもままならない状態になりました。

その瞬間、オリガの兵たちが一斉に動きました。

トリズナには本来、儀式として模擬戦が行われる慣習がありましたが、彼女はその慣習を逆手に取り、武器を持った兵に酔ったドレヴリャーネ族を襲わせたのです。

『原初年代記』では、このときおよそ5000人が討たれたと記されています。

第4の復讐:鳩と雀を使った火攻めで城を落とす

画像:オリガの復讐(イスコルステニを焼き討ちし住民を討つ場面)15世紀ラジヴィウ年代記 Public Domain

オリガの復讐の最終段階は、ドレヴリャーネ族の本拠地イスコルステニに向けられました。

彼女はこの町を一年以上包囲し続けましたが、城壁は堅く、決着がつかない状態が続きました。

そこでオリガは「包囲を解く代わりに、各家が飼っている鳩と雀を三羽ずつ差し出しなさい」と要求します。
取るに足らない要求に見えたため、住民たちはこれに素直に応じました。

その後、オリガの軍の兵士たちは、受け取った鳩や雀に硫黄など火のつく素材を結びつけ、いっせいに空へ放ちました。

鳩や雀は帰巣本能に従って家々へ戻り、屋根裏や巣穴に潜り込んで火が広がり、イスコルステニ全体が瞬く間に炎に包まれました。

町が混乱に陥る中、オリガの軍は一気になだれ込み、抵抗する住民を制圧しました。

こうして、ドレヴリャーネ族の拠点は壊滅したのです。

この奇策は、伝承の中でもとくに有名な場面であり、オリガの底知れない計略と憎しみを象徴する出来事として語り継がれています。

幼き王子を抱えて 悲劇から始まる摂政の誕生

画像:母であり摂政であるオリガの元、成長した息子スヴャトスラフ1世 public domain

945年にイーゴリ1世が落命したとき、オリガは幼いスヴャトスラフを抱えたまま摂政として政務を引き継ぎました。

悲しみの中でも彼女は立ち止まらず、国家を安定させるために動き始めます。

まず、混乱していた貢納制度を整理し、「ポゴスト」と呼ばれる徴税と行政の拠点を各地に設置しました。
これは税制の整備だけでなく、地方に大公権力を示す効果もあり、統治の安定に大きく寄与したと考えられています。

前述したように、ドレヴリャーネ族をめぐる彼女の復讐譚はよく知られていますが、実際には彼らの支配地の再編や反抗の抑制といった政治的措置が中心だったとみられます。

伝承の背後には、秩序維持を優先する冷静な判断があったのです。

オリガの治世下では、ドニエプル川の交易路が機能し続け、商人や職人が集い、ルーシの経済基盤は着実に整えられていきました。

政治と信仰の決断、そして列聖へ

画像:『聖オリガ』(ミハイル・ネステロフ画) public domain

957年、オリガはビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを訪れ、皇帝コンスタンティヌス7世の前で洗礼を受けました。

これは単なる宗教的な決断にとどまらず、当時のルーシとビザンツの外交関係にも大きな意味を持つ出来事でした。

異教が中心だった当時のルーシにおいて、オリガの洗礼は、ビザンツとの友好関係を深めるきっかけとなったと考えられています。

オリガ自身の洗礼は、孫のウラジーミル大公が988年にルーシ全土をキリスト教化する道筋を作る先駆けとなりました。

彼女が直接布教にあたった記録は多くありませんが、信仰を受け入れる環境を整えた功績は確かです。

また、教会の建設や信仰の受け入れに関わったとされ、後の宗教文化にも影響を残しました。

冷徹な4段階の復讐伝承に彩られる一方、摂政としての統治力と外交的手腕、そして信仰への関心が一体となったオリガの生涯は、キエフ・ルーシの秩序と宗教文化の基礎を築いたといえるでしょう。

その功績は後世に称えられるとともに、東方正教会により列聖され、今日に至るまで「聖オリガ」として敬われているのです。

参考文献:『世界史の中のヤバい女たち』/黒澤 はゆま(著)
文 / 草の実堂編集部

草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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