大正&昭和

石原裕次郎を見出した女優にして日本初の女性映画プロデューサー・水の江瀧子の波乱の生涯

画像. 水の江瀧子 public domain

昭和のレビュー界で、断髪の男役として「男装の麗人」と呼ばれ、松竹の舞台を大いに沸かせた女優がいた。

彼女の名は、水の江瀧子(みずのえ たきこ)。

戦後は日活で映画プロデューサーとなり、石原裕次郎や浅丘ルリ子ら後のスーパースターを見いだし、数々の作品を通じて日活映画の黄金期を支えた。

「ターキー」の愛称で親しまれた彼女は、テレビ時代に入ってからも人気番組で存在感を発揮する。

しかし晩年、思いがけない騒動に巻き込まれたことを機に、彼女は長く身を置いた芸能界から距離を置く決断をする。

本稿では、その華麗で激動の歩みをたどる。

13歳で、姉の応募により東京松竹楽劇部の第1期生となる

画像 : 家族と幼少時代のウメ子(右端)public domain

大正4年(1915)2月、水の江瀧子(本名・三浦ウメ子)は北海道小樽に生まれた。

2歳の時に一家で東京へ移り、きょうだいは8人いたが、幼い頃に数人を亡くし、結果として1男3女の末っ子として育っている。

昭和3年(1928)9月、松竹が東京松竹楽劇部を創設し、新聞に女生徒募集の広告を出した。

その広告を見た次姉が、本人に無断で応募し、試験当日も「浅草へ連れて行ってあげる」と言って会場へ連れ出した。
事情も分からぬまま試験を受けたウメ子であったが、見事合格し、翌月には第1期生として入部している。

当時13歳だったウメ子は、中目黒高等小学校に在学しており、合格を担任教師に伝えると、「浅草の踊りなんて安来節のようなものだろう。そんな所に入ったら大変だ」と反対された。

しかし、その言葉がかえって反骨心を刺激し「やってやる」という気持ちになったという。

芸名は当初「東路道代」であったが、別の生徒との行き違いから入れ替わり、「水の江たき子」を名乗ることになった。
楽劇部の芸名は『万葉集』に由来しており、「水の江たき子」は柿本人麻呂の歌から取られたものである。

その後、初めて役がつき、ポスターに名前が入る段階で、文字数が長いという理由から「水の江瀧子」と表記を改めた。

初舞台は同年12月、大阪松竹楽劇部の東京公演「奉祝行列」で、花車の綱を引く大勢の子供役の1人として出演したものであった。

この時、初めて舞台化粧を施したのが、当時大阪松竹に所属し、後に「ブギの女王」と呼ばれる国民的歌手となる笠置シヅ子であったことも、後年よく知られている。

男装の麗人として注目を集め、「ターキー」の名で一世を風靡する

画像 : 1930年秋に上演された『サーバント・クラブ』の一場面 public domain

翌昭和4年(1929)11月、水の江瀧子は東京松竹の初公演「松竹フォーリイズ」に出演した。

翌昭和5年(1930)5月には、東京六大学野球の人気を取り入れた野球レビュー「松竹リーグ戦」で慶応大学の主将役を務め、男役として頭角を現している。
同年9月の「松竹オンパレード」では、4人の司会役の紳士の1人として登場した。

当時の男役は、長い髪を後ろで束ねて帽子の中に隠すのが一般的であったが、瀧子はここで髪を短くし、シルクハットにタキシードという紳士姿で舞台に立ち、観客の目を引いた。

さらに昭和6年(1931)5月の「先生様はお人好し」では、男性同様のショートカットにし、ベレー帽と純白のスポーツジャケット姿で出演する。
その姿は従来の男役の枠を大きく超えるもので、大きな反響を呼んだ。

これによって瀧子は、断髪の男役として先駆的な存在となり、颯爽とした「男装の麗人」としての評価を確立していく。

同年11月、新歌舞伎座で上演されたレビュー「万華鏡」では、カリフォルニアきってのカウボーイに扮し、腰の拳銃を鳴らしながら登場して「俺はミズノーエ・ターキーだ」と大見得を切った。

この場面が大きな喝采を浴び、以後「ターキー」の愛称が広く用いられるようになった。

やがて後援会「水の江会」も発足し、短期間のうちに数千人規模の会員を集め、爵位を持つ人物を含む上流社会のファンも名を連ねたという。

画像 : 水の江会パンフレットは後に『タアキイ』と改題され一般販売もされた(表紙)public domain

翌昭和7年(1932)10月、東京松竹楽劇部が勢いを増す一方で、関西から宝塚少女歌劇が上京し、新橋演舞場で公演を行った。

これに対抗して東京松竹も築地川対岸の東劇で公演を打ち、築地川を挟んだ両者の競演は世間の大きな話題となった。

その中で「上品な宝塚、大衆的な松竹」という対比が広く語られるようになり、松竹側は次第に上流社会志向を強めていく。

この頃、東京松竹楽劇部は名称を松竹少女歌劇部(SSK)と改めた。

同年12月、瀧子は松竹が意欲的に制作した「青い鳥」に出演したが、過労のため体調を崩し、3日目からは代役が立てられた。

休演は約1か月に及び、人気絶頂期にあった瀧子にとっても、大きな転機となったのである。

桃色争議の委員長となり争議の先頭に立つ。その後、ノイローゼに苦しみ渡米する

画像. 桃色争議. 争議の演壇に立つ水の江。public domain

昭和8年(1933)6月、公演「真夏の夜の夢」が歌舞伎座から浅草松竹座へ移った際、音楽部員の不当解雇や減給をめぐる問題が表面化し、待遇改善を求める動きが会社側との対立に発展した。

給料や設備、衛生環境への不満を抱えていた歌劇部員もこれに合流し、争議はストライキへと拡大する。
瀧子は委員長に選ばれ、争議の先頭に立った。

この動きは新聞各紙で「桃色争議」と報じられ、世論もおおむね同情的であった。

交渉は難航し、7月に入ると瀧子らは会社側の切り崩しに備え、ファンの提供した湯河原の別荘に身を寄せた。

7月12日、瀧子は思想犯の容疑で一時拘束されるが、その日のうちに釈放されている。
5日後の17日、会社側が譲歩し、約1か月に及んだ争議は終結した。

中心メンバーには2か月間の謹慎処分が科され、この争議を契機に松竹少女歌劇部はいったん解消され、新たに松竹少女歌劇団(SSKD)が発足している。

瀧子不在のまま始まった新歌劇団の公演は振るわず、会社は復帰を要請した。

瀧子は同年10月公演から舞台に戻り、とりわけ「タンゴ・ローザ」は松竹レビュー屈指の名作と評され、通算160回公演という記録的な成功を収めた。

昭和12年(1937)7月には、定員3,600人の浅草国際劇場が開場し、ここが歌劇団の本拠地となる。

瀧子はその中心的存在として、なお第一線で活躍を続けた。

翌昭和13年(1938)11月には、日中戦争の前線慰問のため中国北部を訪問している。

しかし帰国後、舞台の内外で向けられる過熱した視線に次第に耐えられなくなり、不眠を伴うノイローゼ症状に悩まされるようになった。
それでもスターである以上休むことは許されず、心身の疲弊は深まっていく。

そうした折、外務省関係者を通じて渡米の話が持ち上がり、瀧子は会社に申し出て渡米を決断した。

そして昭和14年(1939)5月、瀧子は日米芸術親善使節として、ミス日本やピアニストらとともに龍田丸でアメリカへ向かった。

ひどかった彼女のノイローゼは、出帆したとたんに治ってしまったという。

画像 : 渡米船「龍田丸」にて。左から船長、瀧子、船内で知り合ったケロッグ、インド王族、同使節員のミス日本・月本映子 public domain

ハーフ男性との悲恋、妻子ある男性との道ならぬ恋。そして「劇団たんぽぽ」を結成

翌昭和15年(1940)3月、瀧子は約10か月に及ぶアメリカでの滞在を終えて帰国した。

この遊学は、舞台中心の生活から一時離れ、異文化に触れる貴重な体験となり、瀧子自身も生涯忘れ得ぬ時間であったと回想している。

滞在中、瀧子は私生活でも大きな出来事を経験した。

シカゴ滞在中に紹介されたハンサムなハーフの男性と親しくなり、帰国後も文通が続き、やがて結婚の約束にまで至ったという。

瀧子は彼の来日を待ち、花嫁衣装まで用意していたが、昭和16年(1941)12月の太平洋戦争開戦によって往来は途絶え、この縁は実を結ばなかった。

この出来事は、瀧子に大きなショックを与えた。

その頃、瀧子を支えたのが松竹宣伝部に所属していた兼松廉吉であった。兼松は妻子のある年長者で、瀧子にとっては恋愛というより、精神的な支柱に近い存在であったとされる。

2人の関係についてはさまざまに語られているが、瀧子にとって兼松は、動揺の時期を支える現実的で頼れる人物であったことは確かである。

一方、戦時体制が強まるにつれ、舞台の上演内容は厳しく統制され、観客動員も次第に落ち込んでいった。
さらに「男装は禁止」とする方針が打ち出され、瀧子は自らの代名詞であった男役を封じられ、女役を務めざるを得なくなる。

こうした状況の中で、瀧子は松竹の枠を離れ、新たな表現の場を求める決断を下した。

昭和17年(1942)末、瀧子は兼松を中心に「劇団たんぽぽ」を結成し、自ら座長として舞台に立つ道を選んだ。

翌昭和18年(1943)1月、丸の内邦楽座での旗揚げ公演を皮切りに、4月上演の「おしゃべり村」が大きな反響を呼び、劇団たんぽぽは当時有数の人気劇団へと成長する。

しかし終戦後の昭和21年(1946)2月、ベストセラー小説「肉体の門」の舞台化をめぐって劇団内で意見が対立し、瀧子がこれに強く反対したことをきっかけに、団員の大半が離脱する事態となった。

それでも瀧子は、喜劇俳優・榎本健一率いるエノケン一座の支援を受けながら公演を継続する。

最終的に昭和23年(1948)1月、劇団たんぽぽは解散した。

画像 : 『花くらべ狸御殿』における水の江瀧子と京マチ子(左) public domain

その後、瀧子は映画へと活動の場を移し、翌昭和24年(1949)に大映映画「花くらべ狸御殿」に出演する。

同作は大ヒットとなり、舞台版への出演や映画出演を重ねるなど、瀧子は再び新たな分野で存在感を示していった。

独立プロの挫折と恋人の死を経て、日本初の女性映画プロデューサーとなる

昭和27年(1952)2月、兼松廉吉は松竹のスター俳優・鶴田浩二とともに新生プロダクションを設立し、水の江瀧子もこの新生プロに所属した。

鶴田は兼松を深く慕い、瀧子と兼松が行動を共にすることに強い対抗心を示していたとされる。

やがて鶴田は兼松に対し、「自分か水の江か、どちらかにしてほしい」と迫る状況となった。
これに対し、瀧子は自らを客観的に見つめ、将来性のある鶴田を優先すべきだと判断し、身を引く決断を下した。

10日間のさよなら公演には延べ1万人が詰めかけ、瀧子はおよそ25年に及ぶ舞台人生に区切りをつけた。

この時、瀧子は38歳であった。

一方、この年の2月にはNHKが開局し、同時に始まったクイズ番組「ジェスチャー」に瀧子は出演するなど、活動の場はすでに舞台以外にも広がっていた。

しかし翌昭和29年(1954)2月、瀧子にとって決定的な出来事が起こる。

兼松が、鶴田をめぐる事業上の失敗による多額の負債、約3,000万円を残して自ら命を絶ってしまったのである。

画像 : 左から小野満、田岡一雄、鶴田浩二。1952年。public domain

この背景には、前年に起きた鶴田浩二襲撃事件をめぐる混乱と、芸能界に広がった暴力団の影があったとされる。

事件後、兼松は表舞台から追い詰められ、瀧子の鎌倉の家までもが、彼女の知らぬ間に借金の担保に入れられていた。

この窮地に際し、報知新聞社社長・深見和夫が動いた。

深見は、新たに再建を進めていた日活映画の経営陣に対し、「日本初の女性映画プロデューサーを誕生させてはどうか」と提案したのである。

その結果、同年3月、瀧子は日活と契約し、映画プロデューサーとして新たな道を歩み始めることになった。

翌昭和30年(1955)3月、早くも第1作「初恋カナリヤ娘」を手がけ、その明るく健全な作風は観客の支持を得て成功を収めた。

続く「緑はるかに」もヒットし、瀧子は映画界において確かな実績を築いていく。

彼女は人を見る目に優れ、スターの素質を直感的に見抜く力を持っていたとされ、岡田真澄や浅丘ルリ子といった後のスターをいち早く起用し、その才能を世に送り出していった。

スーパースター石原裕次郎を発掘

画像 : 石原 裕次郎 public domain

昭和31年(1956)、石原慎太郎原作の芥川賞受賞作「太陽の季節」が映画化されるにあたり、瀧子は慎太郎から「弟を使ってほしい」と頼まれた。

芥川賞受賞パーティーの席で弟の裕次郎と会った瀧子は、その場で強い可能性を感じ、起用を決めたという。

当初、瀧子は主演での起用を構想していたが、会社の反対により端役としての出演にとどまった。

しかし、その存在感は際立っており、撮影時の写真を見た上層部も評価を改め、裕次郎との正式契約が認められた。

画像 : 『太陽の季節』ポスター public domain

映画は公開後に大ヒットし、「太陽族」という流行語を生み出して社会現象となった。

続く「狂った果実」では、裕次郎は初主演を務め、ここから本格的にスターへの道を歩み始める。

瀧子は裕次郎を自宅に住まわせ、生活面から仕事まで面倒を見ながら育て上げた。

公私にわたる相談相手となり、「俺は待ってるぜ」など裕次郎主演作を次々とプロデュースし、戦後の日活映画が最も勢いを持った時代を支える中心人物となった。

その後、会社が裕次郎のために土地付きの住宅を用意すると、瀧子も同じ敷地内に建てられた自宅に住むようになり、両者の関係は長く続いた。

昭和38年(1963)1月、裕次郎が石原プロモーションを設立して独立した後も、瀧子は石原プロ作品の製作に関わり、協力関係は維持されている。

しかし昭和43年(1968)頃になると、両者の関係に緊張が生じた。

同一敷地内での生活を背景に、週刊誌などでは家庭生活や仕事上の主導権をめぐる確執が報じられ、裕次郎が瀧子の強い影響下から距離を取ろうとしていたことも伝えられた。

最終的に、裕次郎が移転費用約1,500万円を負担する形で瀧子は立ち退き、神奈川県秦野市郊外へ移り住むこととなった。

その後も瀧子は日活での仕事を続けたが、昭和45年(1970)7月、「反逆のメロディー」を最後に、日活の映画プロデューサーを退いている。

テレビで活躍を続けるが、甥の事件をきっかけに芸能界を去る。その後の晩年

画像 : 水の江瀧子 Public domain

日活を離れた後、水の江瀧子は活動の軸をテレビに移し、昭和47年(1972)から「オールスター家族対抗歌合戦」で審査員を務め、昭和50年(1975)からは「独占!女の60分」の司会者として幅広い世代に親しまれた。

このほかにもテレビドラマや映画への出演を重ね、テレビ時代においても存在感を保ち続けている。

しかし昭和59年(1984)、瀧子の実兄の息子で甥にあたる三浦和義が、保険金目的で妻を殺害した疑惑を報じられると、状況は一変した。

翌昭和60年(1985)に三浦が逮捕されると、マスコミは瀧子にも過剰な取材を行い、事実無根にもかかわらず、瀧子が三浦の実母であるとする記事まで週刊誌に掲載された。

この報道を受け、実兄は激しく反発し、瀧子は兄一家と絶縁することになるなど、私生活は大きく揺らいだ。

その後、昭和62年(1987)頃からテレビ番組の降板が相次ぎ、瀧子自身も芸能界に対する嫌気を募らせていく。

最終的に残っていた番組も自ら降板し、芸能生活からの引退を宣言した。

この時期、戸籍上の本名も「三浦ウメ子」から「水の江瀧子」へと改め、第一線から完全に距離を置く姿勢を明確にしている。

引退後の瀧子は、かねてから関心を持っていたジュエリー制作に取り組み、指輪やイヤリングなどの創作を行うようになった。

平成5年(1993)2月には、「生きているうちに賑やかに集まってもらいたい」という本人の希望により、満78歳の誕生日を前に、東京・キャピタル東急ホテルで生前葬が盛大に営まれている。

その後は、ときおりテレビに姿を見せることもあったが、私生活では乗馬などを楽しみながら静かな日々を送った。

そして平成21年(2009)11月、水の江瀧子は94歳でこの世を去ったのだった。

参考 :
大島幸助「銀座フルーツパーラーのお客さん」文園社
中山千夏「タアキイ」新潮社
文 / 草の実堂編集部

草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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