牛乳が広く飲まれるようになったのは明治時代になってからであり、江戸時代には庶民が牛乳を飲む習慣はありませんでした。
江戸時代末期に来日したドイツ人医師シーボルトが「日本人は宗教上の理由から肉食を禁じられており、その乳は白き血と忌み嫌った」と著書に記したように、江戸時代、牛乳は「けがれ」とされ、嫌われる存在でした。
しかし明治維新後、新政府は富国強兵のために国民の体格向上を目指し、牛乳の飲用を奨励するようになります。
政府主導で牛乳の啓蒙が行われ、牛乳は徐々に人々に受け入れられていくのですが、そこには様々な牛乳普及のプロモーションがありました。
徳川斉昭の「牛乳愛」

画像 : 徳川斉昭 public domain
江戸時代、武家や貴族など一部の上流階級の間では、牛乳は病気の治療や滋養強壮のための薬として利用されていました。
なかでも特に牛乳を愛飲していたのが、水戸藩主・徳川斉昭(とくがわなりあきら)です。
斉昭は藩校・弘道館の近くに養牛場を設け、そこで搾った牛乳を毎日飲んでいました。
その量、なんと五合(約900ml)。彼は牛肉も鶏卵も好んで食べたそうですので、死因となった心筋梗塞の原因は、食生活にもあるのかもしれません。
斉昭は、体の弱かった愛娘・八代姫が、仙台藩主・松平慶邦に嫁ぐ際、嫁入り道具として牛一頭と搾乳夫を同行させるほどの徹底ぶりでした。
八代姫は輿入れ後も父の教えを守り、朝夕一合(約180ml)の牛乳を欠かさず飲んでいました。
一方、お毒見役の侍医・竹庵先生は牛乳が苦手で、目を閉じ、鼻をつまんで一気に飲み干し、必ず塩水で口をすすいでいたそうです。お役目とはいえ気の毒な話です。
日本初の牛乳搾取所の誕生

画像 : 前田留吉 public domain
1854(嘉永7)年の開国後、来日した外国人は牛乳が手に入らず困っていました。
そこでオランダ人のスネル兄弟が横浜居留地に搾乳場を設け、外国人向けに牛乳販売を開始します。
その後、外国人の体格の良さに注目した前田留吉(まえだとめきち)が搾乳技術を学び、1866(慶応2)年に牧場を開設。これが日本初の「牛乳搾取所」とされています。
当時の牧場は「牛乳搾取所」と呼ばれ、牛の飼育から搾乳、販売、配達まで行っていました。
ただし当時の日本では、牛乳は「けがれ」とされ忌避されており、「飲むと外国人のような顔つきになる」といった噂も残っていました。
そのため、牛乳はなかなか一般に普及しませんでした。
こうした状況を変えるため、医師や明治政府は、牛乳の有用性を訴える啓蒙活動に乗り出します。
牛乳普及のプロモーション① 歌舞伎役者を使った“口コミ戦略”

画像 : 松本良順 public domain
徳川幕府が倒れる前から、牛乳の飲用を奨励していたのが、医師の松本良順です。
奥医師だった良順は、早くから牛乳の効能に注目していました。
1867(慶応3)年には「牛羊牧養に関する建白書」を提出し、牛乳は滋養豊富で病人の回復にも役立つと説いています。
明治維新後、良順は東京・早稲田に西洋式病院を開業し、牛乳を治療や病気の予防に活用しようとしましたが、当時は牛乳店がなく入手が困難でした。
そこで、遠縁の旧旗本・阪川當晴(さかがわまさはる)に牛乳店の開業を勧めます。
阪川は赤坂の武家屋敷跡で和牛一頭を飼育し、ここに東京初の牛乳搾取所が誕生しました。
さらに良順は、牛乳の普及策を考え始めます。
奥医師時代から遊郭でドンチャン騒ぎをするのが大好きだった彼(そのため性病の予防にも尽力していた)は、遊女を利用する妙案を思いつきます。
そして吉原の遊女たちの前で人気歌舞伎役者・澤村田之助(さわむらたのすけ)に牛乳を飲ませ、「牛乳はおいしいものですね」と言わせるという大胆なプロモーションを実施しました。
遊女たちの口コミで評判が広まり、「田之さまがおいしいというなら」と人々の牛乳への関心が高まったといいます。
牛乳普及のプロモーション② 明治天皇の後押し

画像 : 明治天皇 public domain
明治初期、日本人は欧米人に比べ体格が劣るとされ、政府は富国強兵の一環として体格向上を目指しました。
そのため酪農を奨励し、牛乳・乳製品の増産を進めます。
明治2年4月14日には、吹上御苑で明治天皇が”乳しぼり”を見学するイベントを開催。搾乳を担当したのは前田留吉でした。
明治4年5月には『新聞雑誌』が牛乳の効能を紹介し、同年11月からは天皇が日に二度、牛乳を飲むようになります。
「天皇は毎日2回牛乳を飲む」という記事が新聞・雑誌に載ると、国民の意識が大きく変わり、牛乳への抵抗感が薄れていきました。
牛乳普及のプロモーション③ アンチ層には国学者を起用

画像 : 近藤芳樹著『牛乳考・屠畜考』明治5年 public domain
牛乳への理解は広まりつつありましたが、「牛乳はけがれ」「西洋の蛮習」と嫌う層も依然として存在しました。
そこで政府は明治5年、国学者・近藤芳樹(こんどうよしき)に啓発書『牛乳考』を書かせます。
近藤は、日本でも孝徳天皇の御代から牛乳が飲まれていたことを示し、「牛乳は『けがれ』などではなく、最上の良薬であり、弱者を強くし、老いても壮健でいられる」と説きました。
政府は国学の権威を通じて、牛乳に対する価値観を改めさせようとしたのです。
政府の高官が続々参入 “酪農王国”東京から全国へ普及した牛乳事業

画像 : 阪川當晴の牛乳搾取所 public domain
明治政府は、職を失った旧士族の救済策として酪農・畜産を奨励しました。
当時の東京には、徳川幕府の崩壊で接収された武家屋敷跡などの広大な空き地が多く、牧場を開設するのにうってつけでした。
また、牛乳は腐敗しやすいため消費地の近くで生産する必要があり、人の多い都市部は牛乳搾取所に適していました。
こうした背景から、前田留吉の指導を受けた旧幕臣たちが次々と牛乳搾取業に参入。東京のど真ん中に牧場が作られていきます。
先に述べた松本良順に進められて牛乳搾取所を始めた、旧旗本の阪川當晴もその一人です。
彼は赤坂から麹町五番町に移って牧場を拡大し、事業は陸軍向けの専売を行うまでに成長します。
阪川は「東京牛乳搾取組合」の頭取もつとめた業界の成功者でした。
少ない資本で参入しやすく、日銭商売だった牛乳事業は、士族授産の中では優良事業の一つとなります。
前田を中心とするこの時代に活躍した牛乳搾取業者13名のうち、8名が旧幕臣だったそうです。
また当時の世の中は、文明開化の影響で衣食住すべてを欧米にならう風潮がありました。
医者や学者、政府が牛乳を奨励する流れもあり、牛乳事業はまさに追い風だったのです。
そして単なる「武士の商法」にとどまらず、明治政府の高官や財界の名士、旧藩主なども続々と参入していきます。
彼らは出資者や経営者となり、牛乳事業を拡大しました。
一例を上げると、明治6年には榎本武揚、大鳥圭介らが共同経営により、北辰社を神田猿楽町に設立。
北辰社の牧場は、麴町区飯田町三丁目の榎本武揚邸跡地にあり、後年フランスから牛乳分離機を購入し日本初のバター製造も始めています。
山県有朋は出資者となり、三番町(現在の千代田区三番町)に「英華舎・平田牛乳搾乳所」を開設させ、明治10年代には雑司ヶ谷村に牧場を開きました。
明治8~9年には、松方正義が芝三田に牛乳搾取業を開業し、副島種臣が霞が関で牛乳屋を始めました。
松方は、明治26年には栃木県那須に千本松牧場を開場しています。
下総国佐倉藩最後の藩主・堀田正倫(ほった まさとも)は、麻布にあった自宅の大名屋敷の一部を牧場にし、元福井藩士でのちに子爵となる由利公正は、板橋の旧加賀藩下屋敷跡地を借入れて牧場にしました。
意外なところでは、文豪・芥川龍之介の実父・新原敏三は内藤新宿に牧場をもち、京橋区入船町で耕牧舎という牛乳店を経営しています。
芥川は一高時代、牛舎のそばに住んでいたそうです。
こうして東京のど真ん中は牧場だらけとなり、東京からはじまった酪農は全国へと広がっていったのです。
口コミや新聞での宣伝にイベント開催、著名な人物や国学者の起用、そして勧農政策と、多様な普及策によって、嫌われものだった牛乳は次第に国民に受け入れられていったのでした。
参考文献:吉田豊『牛乳と日本人』新宿書房
文/深山みどり 校正/草の実堂編集部
























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