平安時代

平安貴族の出産は「穢れ」だった?なぜ女性たちは自分の出産を語らなかったのか

出産は「穢れ」だった

画像 : 平安女性たち(イメージ)

平安時代、出産は祝福であると同時に恐怖の対象であり、当時の人々は出産を「穢れ」の発生する行為と捉えていました。

穢れとは、死や血に伴う霊的な汚染を指す概念です。出産には大量の出血が伴い、母子ともに命を落とす危険が常にありました。

当時は出産で命を落とす女性も少なくなく、生と死が隣り合う瞬間に、悪霊や餓鬼が集まると信じられていました。

そんな医療技術の乏しい時代において、人々が頼ったのは僧侶、陰陽師、霊媒による祈祷と儀式でした。

白い産室と大音響の祈祷

穢れを伴う出産は皇后であっても宮中で行うことは許されず、実家や父の邸宅に戻って産むのが通例でした。

産室の場所や妊婦が向くべき方角は、陰陽師が暦をもとに指定します。

産室の装飾には厳格な決まりがあり、屏風や几帳、御帳台の布はすべて白に替えられました。

立ち会う女房たちも白装束を纏います。
白は清浄の象徴であり、穢れに対抗するための措置だったのです。

妊婦はしゃがむか膝立ちの姿勢をとり、侍女に身体を支えられながら出産に臨みました。

難産のときは、天井から吊るした縄に体を預ける方法もあったと伝わっています。

画像:なぜ平安時代の出産は「穢れ」だったのか?※イメージ

産室の外側は、内部の静寂とは対照的な空間でした。

僧侶たちは法華経や不動明王の真言を昼夜問わず唱え、弓の弦を矢なしで鳴らす「鳴弦」や、屋根から甑(こしき・土器の蒸し器)を落として叩き割る「甑落とし」などで悪霊を威嚇したのです。

このとき特徴的なのは「憑座(よりまし)」の役割です。

憑座とは、悪霊を自らの身体に受け入れる霊媒を意味し、若い女性や子どもが務めることもありました。
僧侶の祈祷によって妊婦から引き剥がされた悪霊は憑座の身体に移され、憑座は霊の言葉を代弁します。
僧侶は憑座を通じて霊の正体を聞き出し、鎮めにかかるのです。

こうした読経、鳴弦、土器の破砕音、憑座のうめき声と共に護摩が焚かれ、浄化の煙が漂う中で出産は進んでいったのです。

藤原彰子の出産に見る政治と祈り

画像:藤原彰子。『紫式部日記絵巻』より public domain

当時の出産をもっとも具体的に伝えるのが、藤原道長の娘・彰子の出産記録です。

寛弘5年(1008年)、一条天皇の中宮であった彰子が皇子を身ごもりました。

男児が生まれれば将来の天皇となる可能性が高く、道長は天皇の外祖父として朝廷を掌握できます。

道長は、出産の5か月前に大規模な法会を開いて143人の僧侶を集めたほか、邸では僧侶たちに交代で24時間体制の読経を続けさせました。

この出産を産室の内側から記録したのが、彰子付きの女房であった紫式部です。

画像:紫式部(土佐光起画、石山寺蔵)public domain

産室は男性が立ち入れない空間であり、男性貴族の日記では内部の様子を記録できませんでした。
道長が紫式部を選んだのは、彼女の文才に加え、女房として産室に入る権限を持っていたためと考えられています。

『紫式部日記』によれば、出産は30時間以上に及んでいます。
途中で産室の方角に障りが出たため、難産のさなかに場所を移動する事態も起きました。

産室の周囲には40人以上が詰めかけ、道長自身が大声で指示を飛ばし、僧侶の声さえかき消されたほどでした。男性たちが簾の隙間から産室の内部を覗き見する場面も記録されています。

最も緊張が走ったのは、彰子がいきむ段階でした。
母体の命がきわめて危うくなる時間帯であり、このとき彰子の髪を剃って受戒させようとする動きがありました。

これは万が一に備え、尼として来世での救済を確保するためです。
この光景を見て周囲は涙したと伝えられています。

結果として彰子は男児を無事に出産しました。敦成親王、のちの後一条天皇です。

出産後も続く儀式

出産が終わっても、儀式は終わりません。

臍の緒を切る儀式、乳母が初めて乳を含ませる「乳付け」、産湯を浴びせる「御湯殿」が順に行われます。

御湯殿は皇子の場合、朝夕2回ずつ7日間にわたって繰り返され、産湯の水を汲む井戸の方角すら陰陽師が占い、湯には剣や犀角の影を映して霊力を移す手順が踏まれました。

祝いの饗宴「産養」は、三夜・五夜・七夜と主催者を変えながら催されます。

主催者の顔ぶれや宴の規模は、子どもの政治的な後ろ盾を社会に示すものでした。

当時の出産は、政治的・宗教的な儀礼でもあったのです。

書かれなかった痛みと女性たちの沈黙

画像:平安時代の女性にとって出産はまさに命懸けだった ※イメージ

出産の手順や儀式については『紫式部日記』や『御堂関白記』が多くを伝えています。

しかし不思議なことに、出産を経験した女性たち自身は、自らの出産に関してほとんど書き残していないのです。

紫式部は彰子の出産を克明に記録しましたが、それは皇子誕生という宮廷の重大事だったためであり、自身の出産については触れていません。
清少納言も子どもがいたにもかかわらず、枕草子に出産の記述を残しませんでした。

『更級日記』の作者に至っては、日記を読んでもいつ産んだのか判然としないほどです。

唯一、自らの出産に触れているのが『蜻蛉日記』を書いた藤原道綱の母ですが、その記述はわずか一文にすぎません。

「春夏悩み暮らして、八月つごもりに、とかうものしつ」。

春から夏にかけて体調が悪く、八月の末にどうにか出産を済ませた、という意味です。

なぜ詳しく書かなかったのか断定はできませんが、妊娠や出産を直接的に語ること自体が、当時の文化規範において「雅」の外にあった可能性があります。

ただし恐怖を感じていなかったわけではなく、一条天皇の中宮・定子は三人目の子を産んだ直後に亡くなりましたが、事前に辞世の歌を遺しています。死を覚悟して出産に臨んでいたことは明らかです。

このように残された史料が詳細に伝えるのは、出産の「外側」に限られています。祈祷の手順、儀式の段取り、そして政治的思惑がその中心を占めていました。

産室の中で痛みに耐えていた女性の声は記録の外に置かれましたが、その沈黙もまた「平安」という時代を象徴する、一つの記録なのかもしれません。

参考文献:
宮崎莊平 全訳注『新版 紫式部日記』(講談社学術文庫、2023年)
服藤早苗『平安朝の母と子:貴族と庶民の家族生活史』(中公新書、1991年)
繁田信一『平安貴族と陰陽師:安倍晴明の歴史民俗学』(吉川弘文館、2005年)
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

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